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第九部 第三章 第3話

 ――しかし。


 魔方陣は静かなままだった。

 淡く光は揺らめいているが、術式の変調も、起動の兆候もまるで見られない。

 霧に濡れた岩棚の上で、幾何学的な紋様はゆっくりと回転を続け、石碑の足元から広がった光線は淡々と脈打つだけだった。

 光は強くもならず、弱くもならない。

 まるで一定の呼吸を保ったまま、外界の反応を待っているかのようだった。


 レイラの重装の影がその中心に立ち、輪郭を縁取るように光紋が映し出される。

 蒼銀の装甲に反射した光が霧へと溶け、背部ユニットの光脈が静かに明滅する。

 戦闘モードの外骨格は微動だにせず、ただ低い駆動音だけが規則正しく続いていた。


「……反応、なし……? いや、あるのに、変化が起きない……どういうことだ……?」


 最初に声を漏らしたのは、マーロ・ディルヴィン中尉だった。

 携行型観測機を片手で支え、もう片方の手で符号を高速入力しながら、額の汗を乱暴に拭う。

 霧に湿った空気が端末の水晶面を曇らせ、彼は袖でそれを強く拭った。


「波形は暴れている……だが臨界値に達しない。出力は上がらない。収束もしない。まるで“何かを待っている”ような挙動だ……こんなパターン、記録例がない……! 既存の門展開ログとも一致しない!」


 水晶板に映る波形は上下に激しく揺れては消え、雑音のように安定しない。

 数値が跳ね上がり、次の瞬間には霧散する。

 だがゼロにもならない。


 すぐ隣でエルネア・カース中尉が魔力干渉用の補助端末を操作する。

 視線を光紋と端末の間で忙しく往復させ、呼吸を整えようとする。


「波形……収束しません。乱れている……いや、そもそも“基準値”が存在しない……? ゼロ点が固定できない……門でも封印でもない、どのカテゴリにも当てはまらない……!」


 戸惑いが声に滲む。

 解析アルゴリズムが次々と警告を出し、赤い符号が並ぶ。


「基準式が適用できない……比較対象がない……これは“未知”です……!」


 フィレル・ロス少尉は術式構造の複写を急ぎ、記録水晶に刻み込もうと必死に指を動かす。

 だがその手が何度も止まる。


「……紋様が固定されない。いや、変化しているわけでもない……形は同じなのに、意味が読み取れない……! 構文が解けない……!」


 苛立ちを抑えきれない低い呟き。

 水晶に刻まれたはずの紋様は、次の瞬間には曖昧に滲む。


 後方ではエミリア・カリード軍曹が小型感応器を握りしめ、全身を強張らせている。


「異常……記録不能、です……! 精神波動、確かにあるのに、数値化できない……! 検出しては消える……掴めない……!」


 喉の奥が乾いた音を立てるほどに張り詰めている。


『第二観測系より報告。石碑周辺の魔力圧は安定域。攻撃性なし。だが反応強度は維持。原因不明』


 無線が冷静に状況を伝える。

 だがその声にもわずかな緊張が混じっていた。


 観測班の報告はどれも断片的で、結論に至らない。

 ただ確かなのは――何かが「そこにある」という事実だけだった。


 セシリア・グレオール准尉は奥歯を噛みしめ、通話端末を握る手に力を込める。


(……門ではない……? それとも、門の“別位相”……既存理論の外側……?)


 判断を下せないまま、視線を石碑へ固定する。

 撤収も再展開も止まり、現場は静止したままだ。


 レイラは振り返らない。

 ただ石碑を見上げる視線のまま、微動だにしない。


 その背中から滲むのは冷ややかさ。

 だが同時に、揺るぎない確固たる意志。


 魔方陣の光が彼女の装甲を縁取り、霧の中で蒼く淡く揺れる。

 低い駆動音だけが規則正しく続く。


 まるで――


 「この静けさこそ、意味を持つ」と告げているかのように。


 岩棚に立つ全員が、次の変化を待っていた。

 だが、光はただ静かに呼吸を続けているだけだった。


 ――そして。


 アリスは拳を握りしめ、胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。

 心臓の鼓動がひときわ強く跳ね、指先まで血が巡るのが分かる。

 霧を含んだ冷たい空気が肺へ流れ込み、逆に内側の熱を際立たせた。


(……私が、行かなきゃ)


 それは理屈ではなかった。

 恐怖もある。

 だが、それ以上に確かな“引力”のようなものが、彼女を前へと押し出していた。


 ゆっくりと立ち上がる。

 足裏が岩棚のざらついた感触を確かめる。


 一歩。


 空気がざらりと肌を撫でる。

 霧の粒子が頬を打ち、微細な魔力が皮膚の上を滑る。


 見えない刃が全身を掠めるかのように、感覚が研ぎ澄まされる。

 周囲の音が遠ざかり、代わりに自分の鼓動だけが鮮明になる。


「アリス……!」


 背後でクラリスが息を呑み、反射的に声を上げる。


「待って、まだ状況が整理できてない……! 観測値も安定してないし、理論的根拠もない! 今踏み込むのは危険だよ……!」


 端末を抱える指が白くなる。


「お願い、せめてもう数秒……私が解析を――」


 しかしアリスは振り返らない。


 その蒼い瞳は揺るがず、まっすぐに光を帯びた石碑を捉えている。

 霧越しに淡く輝く紋様が、その瞳の奥で反射する。


「……大丈夫。たぶん、これは“敵”じゃない」


 小さく、しかしはっきりと答える。


「怖い。でも……逃げたくない」


 言葉はそれだけだった。

 だがそこには、迷いを押し殺した覚悟があった。


 レイラの隣へと歩み寄る。


 装甲越しに感じる圧倒的な存在感。

 蒼銀の外骨格が霧を裂き、静かに駆動音を鳴らしている。


 レイラはわずかに視線を動かし、アリスを横目に捉える。


「……自分で選んだな」


 低い声。


「止めない。だが――覚悟は持て」


「……はい」


 短い応答。


 そして。


 アリスは、魔方陣の内へ足を踏み入れた。


 瞬間――紋様全体が脈打つように強く光を放った。


 青白い輝きが一気に広がり、地面に刻まれた魔力線が生き物のように震える。

 足元から駆け上がる光が背筋を撫で、衣の縁がかすかに揺らめく。


 霧が押しのけられ、円環状に波打つ。


「反応値、急上昇! 起点が変わった……いや、反応源が再定義された……!」


 マーロ・ディルヴィン中尉が水晶板を叩きながら叫ぶ。


「出力は上がっていないが……安定している……! 暴走していない……これは制御下の変化だ……!」


「波形変化……中心座標が移動した……いや、固定された!? 乱れていた揺らぎが、アリスさんを軸に整列していく……!」


 エルネア・カース中尉の声が震える。


『第二観測系より報告。反応中心をアリス・グレイスラーへ確認。波動強度安定化傾向。攻撃性なし。繰り返す、攻撃性なし』


 無線が冷静に状況を告げる。


 だが水晶板に現れる波形はなお乱れ、完全には収束しない。

 まるで“意志”を持つかのように揺れ続ける。


 ――しかし。


 それ以上は何も起こらなかった。


 光は一定の輝きを保ち、まるで二人だけを舞台に立たせる照明のように揺らめき続ける。

 霧が押し広げられ、円形の空間が生まれる。


 アリスは振り返らない。


 深く呼吸を整える。

 光が肺の奥まで入り込むような錯覚。


 その横でレイラは止めることもせず、じっとアリスを見つめている。


 鋭い眼差しの奥には、試すような光。


 言葉はない。


 だが明確な問いが宿る。


 ――何を選ぶ。


 沈黙。


 霧に包まれた岩棚には、石碑の光と二人の影だけが浮かび上がっていた。

 周囲の輪郭は淡く滲み、世界が後退する。


 世界が呼吸を止め、次の瞬間を待つかのように。


 そして――異変の中心に、アリスが立つ。


 魔方陣の光は呼吸するように揺らぎながら、彼女を中心に集束していく。

 足元から奔る光脈は交差し、絡み合い、まるで彼女を選び取るかのように収斂する。


 低いうなりが大地から響く。

 霧を含んだ空気全体が微細に震えた。


 白い帳の中で、アリスの姿だけが鮮明に浮かび上がる。

 周囲の輪郭が淡く滲み、彼女だけが別の位相に切り離されたかのようだった。


「……値が……アリスさんを起点に収束している!」


 マーロ・ディルヴィン中尉が叫ぶ。


「中心座標、固定! 波形の揺らぎが一点に吸い込まれている……これは……選定反応か……!? 門が“応答”している……!」


 エルネア・カース中尉の声は震えていた。


 だが――次の変化は訪れない。


 光はただアリスを囲い込み、淡い脈動を続けるだけ。

 門が開く兆しも、異形が現れる気配もない。


 レイラは依然として動かない。


 その眼差しに映るのは不安でも驚愕でもない。


 ただひとつ――見極めるという意志。


 アリスはその視線を背に受け、肺の奥まで息を吸い込む。


(……私が、中心……? この門は……私を“起点”にしている……?)


 鼓動が強くなる。

 だが恐怖はない。


 石碑の淡光に照らされた彼女の姿は、確かに――異変のただ中に立つ者のものだった。 


 直後――石碑の光も、魔方陣の輝きも、一瞬で掻き消えた。


 それは爆発でも崩壊でもなかった。

 衝撃も、閃光も、余波すらない。


 ただ、そこに“在った”はずの光が、刃で断ち切られたかのように途絶えたのだ。


 轟くように地を震わせていた光脈の振動も、足裏を通して伝わっていた低いうなりも、視界を焼くほどに鋭かった光粒子も、刹那のうちに霧散する。

 霧に溶けるのではない。

 残滓として漂うこともない。

 最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えた。


 残されたのは、灰白色の岩塊と、冷え切った岩床だけ。

 魔方陣の刻印も、光線の残滓も、熱の痕跡すらない。


 霧が静かに流れ、石碑の輪郭を包む。

 岩棚には、風が擦れる微かな音だけが戻ってきた。

 耳が痛いほどの静寂。


「……っ!?」


 最初に動いたのは観測班だった。


 マーロ・ディルヴィン中尉が慌てて水晶端末を叩き、波形履歴を呼び出す。

 だが水晶板は、空虚な数値を表示するのみ。


「数値……ゼロです! 完全沈黙! 残留波動なし、魔力圧も平常値以下……! さっきまでのピークが……消えている……いや、記録ごと消失している……!」


 声が裏返る。

 端末を持つ手が震えていた。


 エルネア・カース中尉も補助端末を確認する。


「波形消失、記録反応なし……! ログ上では、光は“存在しなかった”扱いになっています……時系列の途中が空白です……まるで切り取られたように……!」


「あり得ない……あの強度が……ゼロに……? 理論上、残留は必ず出るはずだ……!」


 マーロの声は焦燥に滲む。


 フィレル・ロス少尉は記録水晶を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。


「術式構造の複写……保存されていない……! 最後のフレームが空白だ……術式そのものが……削除された……?」


 エミリア・カリード軍曹は感応器を見つめ、小さく首を振る。


「精神波動も……完全消失……さっきまで確かにあったのに……まるで“引き上げられた”みたいに……残響すら残っていません……」


 辺りに広がったのは、不気味なほどの静寂だった。


 さっきまで異様な光景の中心に立っていたアリスは、今はただ霧に包まれた岩棚に佇んでいる。

 全身を包んでいた光は消え、衣の裾がわずかに揺れるだけ。

 肩で息をし、胸が規則正しく上下する。


 足元を見下ろす。

 魔方陣は、どこにもない。


「……消えた……?」


 小さく呟く。

 その声は、驚きというより確認に近かった。


 横に立つレイラも、無言で石碑を見上げている。

 戦闘モードの装甲はなお蒼く輝いているが、警戒値は落ちている。


「……反応、完全停止。残留魔力なし。外部干渉の痕跡もない」


 低い声で状況を読み上げる。


「起動痕もない。術式展開の余韻も消失。……意図的に“閉じられた”可能性が高い」


 淡々とした分析。

 焦燥も、動揺もない。


 セシリアが一歩前に出る。


「レイラ少尉、アリスさん、身体に異常は? 魔力流の乱れ、精神干渉、どちらも感じませんか? 少しでも違和感があれば、すぐに申告を」


「異常なし。神経接続安定。外部干渉ゼロ」


 レイラが即答する。


 アリスもゆっくりと首を振る。


「……大丈夫。痛みも、圧迫もない。ただ……」


 言葉が途切れる。


「ただ?」


 セシリアが静かに問い返す。


「ただ、確かに“何か”はあった。消えたけど、なかったわけじゃない。……私に向いていた。あれは、確かに私を見ていた」


 霧の向こうで、魔導車の駆動音がかすかに響く。

 現実の音。

 だが岩棚の中心は、あまりにも静かだった。


『第二観測系より本部。石碑反応完全消失を確認。残留値ゼロ。現場は平常域に復帰。追加異常なし。繰り返す、追加異常なし』


 無線の報告が、淡々と事実を告げる。


 だがその声さえ、どこか遠くに感じられた。


 石碑は、ただの灰白色の岩塊に戻っている。

 触れれば冷たいだけの、沈黙した存在。


 レイラはしばらく石碑を見上げ続け、やがてゆっくりと息を吐いた。


「……これで終わりだ。少なくとも、今は」


 一拍置き、低く続ける。


「だが、終わったわけじゃない。あれは“応答”だった。……閉じたのは向こうの意思だ」


 その眼差しには驚愕も焦燥もない。

 ただ、「この結末を見届けた」という冷徹な静けさが宿っている。


 アリスは石碑を見つめたまま、胸の奥に残る微かな熱を感じていた。


 光は消えた。

 数値も消えた。


 だが――確かに、何かは彼女を中心に収束し、そして消えた。


 霧がゆるやかに流れる。

 岩棚に立つ二人の影だけが、薄く伸びていた。


 ――まるで最初から、“何もなかった”かのように。

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