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第九部 第一章 第11話

 アリスの魔導剣が再び静かに鞘へと納められると、長く張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。


 刃を封じるはずの金属音すら、濃い霧に吸い込まれるように曖昧で、その不確かさがかえって周囲の意識を研ぎ澄ませる。


 緊張の糸が切れたわけではない。

 ただ数ミリ、肺が深く動く余地が生まれただけの、重苦しい「間」だった。


 霧は依然として低く垂れ込み、石碑の表層では淡い光脈が規則正しく脈打ち続けている。


 何も起きていない――その事実そのものが、不気味なほどに場を静めていた。


 ――その直後。

 中枢拠点からの通信が、わずかな遅延を伴って入る。


 『アリスさん、こちらセシリア。体調に変化はありませんか?』


 落ち着いた声色。

 だが、その響きの底には、指揮官としての鋭敏な警戒と、仲間を案じる配慮が明確に宿っていた。

 この試験が孕む危険性を、誰よりも深く理解している者の声だった。


 アリスは軽く息を吐き、意識を石碑から現実へと引き戻すようにして応じる。

 呼吸を一度整え、言葉を選びながらも、その声ははっきりとしていた。


 「はい、大丈夫です。少し集中しすぎて、意識が内向きになっていましたけど……身体への負荷や違和感はありません。魔力も、今のところ安定しています」


 冷静な報告。

 剣を握っていた直前の張り詰めた気配は、声にはほとんど滲んでいない。

 だが、剣鞘から離れた細い指先には、まだかすかな余韻の震えが残っていた。


 すぐ傍らで控えていたレイラ・アスコット少尉が、ふとアリスの横顔へ視線を向ける。

 黒鋼の兵装に包まれた身体は動かないまま、双眸だけが静かに彼女を捉えていた。

 その視線は、外見以上に深いところまで見透かすようで、アリスは一瞬だけ背筋に冷たい感覚を覚える。


 やがてレイラは通信に割って入り、低く、簡潔に告げた。


 「……少し、休憩を取るべき。連続試験だ。集中力が鈍れば、判断を誤る可能性が高まる」


 余計な言葉はない。

 だが、その無機質にも聞こえる声音の奥には、確かに人間らしい温度が宿っていた。


 『ごもっともです』


 セシリアの即答は短い。

 しかし、その声には同意と、わずかな安堵が滲んでいる。

 同時に、観測班と魔導技術局へ向けた指示が、即座に回された。


 『全体通達。これより十五分間のインターバルを設けます。アリスさんは接触点より後退し、仮設拠点へ帰還してください。護衛班は第一警戒を維持したまま同行。観測班はこの間にデータの整理と補正を実施』


 「了解。再起動プログラムを先行処理します」


 「波動記録、安定値の再確認に入ります。補正データを重ねます」


 各持ち場からの応答が重なり、拠点内には再び冷たい機械音と符号光が満ちていった。


 アリスは静かに一歩、そしてもう一歩と石碑から距離を取る。

 指先に残っていた熱が、冷たい霧に触れるにつれて徐々に引いていき、肌の感覚が現実へと戻ってくる。


 吐いた息は白く、胸の奥に残っていた重さも、少しずつ整えられていった。


 肩越しにレイラを振り返り、アリスはわずかに苦笑を浮かべる。


 「ありがとうございます、レイラさん。……ちょっと気張りすぎてたの、分かりました?」


 問いかけに、レイラは何も言わない。

 ただ、ごく小さく一度だけ頷いた。


 その沈黙こそが肯定であり、言葉以上の確かさを持っていた。

 アリスの胸に、静かな安心が落ちる。


 石碑の前には、なお霧が淡く揺れている。

 光脈の脈動は変わらず穏やかで、その安定が逆に、次に何かが起きることを予感させていた。


 束の間の静けさ。

 それは休息であると同時に、嵐の前触れでもあった。

 その感覚が、拠点全体を静かに覆っていた。


 やがて仮拠点に戻ったアリスは、簡易休憩スペースに設けられた折りたたみ椅子へと腰を下ろした。

 布地がわずかに軋みながら沈み込む感触と同時に、全身を支えていた見えない張力が、ゆっくりと解けていく。


 肩から背、背から腰へと伝わる脱力感。

 それは安堵というより、張り詰めた状態を長時間維持していた反動に近かった。


 アリスは水筒のキャップを外し、冷えた水を一口含む。

 喉を潤した瞬間、意識の縁を固く縛っていた緊張がほどけ、頭の奥に霞が差し込むような疲労が押し寄せてきた。


 覚醒したままの精神に対し、身体の芯だけが妙に重たい。

 それは単なる疲労ではない。

 深く暗い水中に長時間潜り続けたときに感じる、圧迫と鈍重さに近い感覚――。


 魔力場との連続接触による、微細だが確実な負荷が、確かに積み重なっていた。


 戦場で負う疲れとは、明確に質が異なる。

 筋肉の痛みでも、呼吸の乱れでもない。

 言葉にしがたい違和感が、静かに、しかし確実に、アリスの全身に残留していた。


 「アリスさん」


 柔らかな声と共に近づいてきたのは、護衛班のミリエル・オストン准士官だった。


 彼女の手には携帯式の診断用端末があり、金属面に埋め込まれた魔力測定用の小さな結晶が淡く光を帯びている。

 冷えた空気の中で、その光は心臓の鼓動のように微かに明滅し、見る者の意識を自然と引き寄せた。


 ミリエルの顔立ちは冷静に整っている。

 だが、その瞳の奥には、拭い切れない薄い不安の影が宿っていた。


 「身体に異常反応はありませんか? 目眩や魔力酔いの兆候、感覚の鈍化や過敏がある場合は、すぐに診断を行います。遠慮はいりません」


 言葉の調子は穏やかだ。

 しかし、端末を握る指先には、わずかな力が込められている。

 彼女自身もまた、警戒心を完全には解いていない証だった。


 「ううん、大丈夫です。ありがとうございます、ミリエルさん。魔力は安定してますし、変な感覚も今のところありません」


 アリスは相手を安心させるように口角を上げ、柔らかな微笑みと共に答えた。

 声音も落ち着いている。


 だが、その奥に混じる疲労の影を、ミリエルは見逃さなかった。


 数秒の沈黙。

 ミリエルは端末の表示ではなく、アリスの顔そのものをじっと見つめる。

 その視線は、数値以上に正直に、彼女の状態を測ろうとするかのようだった。


 やがて小さく息を吐き、ほんのわずかに肩の力を緩める。


 「……無理はしないでください。前回のこともありますし……私たち、みんな警戒していますから」


 その声音には、護衛としての責務だけでなく、仲間を想う思慮と、まだ消えぬ緊張が入り混じっていた。


 「はい。ありがとうございます」


 アリスは静かに頷き、心からの礼を返す。


 その少し後ろから、軽やかな足音が近づいてきた。


 クラリス・ノーザレインだった。


 彼女の手には、温度保持魔法を施した金属製の小ポットがあり、白い霧を割って、仄かに熱を帯びた香気が流れ込んでくる。

 冷え切った空気の中で、その香りははっきりと存在を主張していた。


 「これ、ミレーネさんが前に調合してくれたハーブティーよ。精神魔力が過敏になっているときに、少し楽になる成分が入ってるわ」


 張り詰めた空気を、やさしく撫でるような声だった。


 「クラリス……」


 アリスは驚いた表情でポットを受け取り、そっと蓋を開ける。

 途端に、仄かに甘く、落ち着いた香りが周囲に広がった。


 冷たい霧に閉ざされていた空間へ、柔らかな温もりが差し込む。

 その香気が胸の奥まで満ち、強張っていた心臓の鼓動が、少しずつ穏やかになっていくのが分かった。


 「ありがとう。ほんと……助かる」


 小さくこぼれた声には、わずかな震えと、確かな安堵が混じっていた。


 クラリスは微笑み、軽く首を振る。

 眼鏡の奥の瞳は凛と澄み、安心と信頼を同時に宿している。


 「ふふ。大丈夫よ。私たちがついてるから。後の段階も、無理のないペースで進めましょう」


 それは命令でも、助言でもない。

 共に立つ者としての、静かな誓いのような言葉だった。


 アリスは香りを胸いっぱいに吸い込み、小さく笑みを返す。


 だが、その意識のほんの片隅に――。

 石碑の淡い脈動が、まだ微かに残響としてこびりついていることを。


 そのことに、まだ誰も気づいてはいなかった。


 観測台の一角では、魔導ランプの淡い光に照らされながら、マーロ・ディルヴィン中尉とフィレル・ロス少尉が積み重なったデータログを一枚一枚丁寧に整理していた。


 水晶板に投影された波形が静かに明滅し、紙媒体の記録と端末表示とを照合するたび、かすかな紙擦れと符号音が空気に混じる。


 周囲は静まり返っている。

 だが、その静寂は安堵によるものではなく、むしろ神経を研ぎ澄ませるための張り詰めた沈黙だった。


 「このノイズレベル……やはり前回の事象直前とは違う」


 マーロは低く呟き、指先で数値の列をなぞる。

 眉間に刻まれた皺は、単なる不安ではなく、思考を限界まで絞り込もうとする集中の証だった。


 端末に表示された魔力反応は、一定の周期で穏やかに揺らいでいる。

 変動幅は小さく、危険域へ突入する兆候はまったく見られない。

 理屈だけで言えば、異常なし――そう判断しても差し支えない数値だった。


 「ええ。数値だけ見れば安定そのものです。でも……逆に静かすぎます」


 フィレルが応じる。

 声は落ち着いているが、その奥には微かな硬さがあった。


 「増幅傾向がまったく見られない。前回は、ここまで来る前に必ず微細な跳ねがあった。それが今回は……何もない。不気味なくらいです」


 彼女の視線は、水晶板に映る滑らかな波形から一瞬も離れない。

 その瞳の奥では、警戒の光が静かに揺れていた。


 少し離れた位置では、イリナ・フェルステンとセリオ・カルミナが、それぞれ補助端末に向かい作業を続けていた。


 イリナは符号盤に指先を素早く走らせ、微細な補正値を重ねていく。

 入力が確定するたび、淡い光が盤面を走り、彼女は短く、しかし的確に報告を添える。


 「補正後も波形に変動なし。外乱ノイズ、基準値以内。……問題ありません」


 一方、セリオは石碑表層の映像を拡大解析画面に投影し、封印文様の輪郭を丹念に追っていた。

 淡く輝く文様の線がわずかに呼吸するように明滅する様子を、一フレームずつ切り分け、差分を記録していく。


 「……文様の輝度変化、微小ですが継続しています。周期は一定。活性とも沈静とも言い切れない……中間状態ですね」


 どの言葉も冷静で、どの判断も論理的だ。

 誰一人として声を荒げる者はいない。


 しかし、その背中には、確かに張り詰めた緊張が宿っていた。


 数値は安定している。

 記録上、異常はない。

 それでも全員が、どこかで同じ感覚を共有している。


 ――これは、ただの静穏ではない。


 音もなく、兆候もなく、しかし確実に何かが溜め込まれている。

 嵐が訪れる前に、風が止むように。


 観測台を満たす静けさは、安心ではなく、むしろ予兆として、彼らの皮膚の内側に重く沈んでいた。


 一方、休憩を取っているはずのレイラ・アスコット少尉は、ただ一人、石碑の方角から視線を逸らすことなく立ち続けていた。


 折り重なる霧の向こう、淡く脈打つ巨石の影を正面に据え、彼女は一切動かない。


 腕を組んだままの姿勢。


 漆黒の兵装に包まれた身体は、まるで岩盤に打ち込まれた楔のように静止している。


 呼吸は極限まで抑えられ、外骨格の駆動音すら聞こえない。装甲の奥にある筋肉が弛緩していないことは、微動だにしない立ち姿そのものが雄弁に物語っていた。


 レイラの視線は、鋭い槍の穂先のように、石碑の表層へと真っ直ぐ突き刺さっている。

 刻まれた封印構造。

 淡く明滅する古代文様。

 その一つひとつを、視覚だけでなく、気配そのものとして捉えようとするかのように。


 霧がゆっくりと流れ、石碑の表面を撫でる。

 光が揺らぐたび、レイラの瞳がほんのわずかに細められる。

 その変化は刹那であり、第三者が見逃すほど微細だ。

 だがそれは、彼女が一瞬たりとも注意を逸らしていない証だった。


 石碑が「何もしていない」こと。

 それ自体を、彼女は決して信じていなかった。


 動かぬものほど危険である。

 戦場で幾度となく積み重ねてきた経験が、理屈ではなく、直感としてそう告げている。


 ――やがて。


 中枢からの通信が、静寂を破ることなく、そっと空気に溶け込むように届いた。


 『アリスさん、準備が整いましたら、いつでも再開可能です。焦る必要はありません。体調が戻ったと判断できたら、こちらへ合図を』


 セシリア・グレオール准尉の声は冷静だった。

 だが、その抑制された響きの奥には、任務を統べる指揮官としての責任と、仲間の状態を案じる確かな温度が同時に宿っている。


 通信が切れた後も、レイラは一切反応を見せなかった。

 視線は変わらず石碑へ。

 兵装の指一本、装甲の継ぎ目一つとして、動きはない。


 その背後で、アリスがゆっくりと応じる。


 「……はい。もう少ししたら、大丈夫です」


 アリスは深く息を吸い、静かに吐き出した。

 冷たい霧が肺の奥まで満ち、身体の内側をゆっくりと冷やしていく。

 瞼を閉じると、これまで意識の外に追いやっていた音が、一斉に輪郭を持って迫ってきた。


 観測装置の微かな稼働音。

 護衛兵装の低い循環音。

 遠くで風が岩肌を撫でる唸り。


 それらを一つひとつ確かめるように聞き分けながら、アリスは意識を整えていく。

 背中には仲間たちの気配があり、前方には、なお静かに佇む石碑がある。


 静かな時間。

 張り詰めた緊張の中で、確かに「支えられている」という感覚が、ゆっくりと彼女の内側に戻ってきていた。


 だが――。


 石碑から漂う淡い脈動は、今も変わらず、彼女の意識の片隅をそっと揺らし続けている。

 それは不安というほど強いものではない。

 しかし、決して無視できるものでもなかった。


 そして、その微かな違和感を、誰よりも鋭く捉え続けている存在が、霧の向こうで無言のまま立っている。


 レイラ・アスコット少尉は、今もなお、石碑を見据え続けていた。

 まるで次に訪れる「瞬間」を、すでに待ち構えているかのように。

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