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第八部 第二章 第6話

 壇上から退いた学院生会メンバーは、数歩進んだところで自然と足を止めた。

 誰かが合図したわけでもない。

 だが互いに視線が合った、その瞬間――全員が同時に大きく息を吐き出した。


 肺の奥に溜め込んでいたものを、一気に外へ吐き出すような深い呼気。

 まるで張りつめていた一本の糸が、一斉にぷつりと切れたかのように、肩ががくりと落ちる。

 背筋を支えていた力が抜け、わずかな笑みが自然と零れた。


「……終わったな」


 会長ユリウスが、低く短く呟く。

 声は平静を装っていたが、その奥にはかすかな震えが含まれており、長時間張りつめていた緊張と、今ようやく訪れた安堵が隠しきれずに滲み出ていた。


 彼は無意識に握りしめていた拳をほどく。

 掌にはじんわりと汗が滲み、冷えた空気に触れて、ようやく現実に戻ってきた感覚があった。


「ほんとうに……胸が潰れるかと思いました……」


 書記のミーナは、胸元に両手を添えたまま小さく肩を震わせた。

 呼吸はまだ浅く、早鐘を打つ鼓動が衣服越しにも分かるほどだ。


 頬には強い紅潮が残り、張りつめていた精神が、まだ完全には解けきっていない。

 彼女は何度か深呼吸を繰り返し、ようやく息を整えながら、かすかに震える笑みを浮かべた。


 その隣で、庶務のエリナもこめかみに薄く汗を浮かべていた。

 額に張りついた前髪を指先で払い、ゆっくりと息を吐き出す。


「でも……無事に終わって、本当によかったです」


 苦笑を交えたその声には、緊張と安堵が複雑に入り混じった色があった。


 副会長リヒトは、黙って懐中時計を開き、秒針の動きをじっと見つめていた。

 規則正しく刻まれる音を数え終えると、小さくカチリと閉じ、深く息を吐く。


「誤差なし。予定通り、全行程進行完了だ。……だが正直、ここまで無事にやり遂げられるとは思っていなかった」


 言葉そのものは冷静だった。

 だが懐中時計を持つ指先が、わずかに震えているのを隠しきれない。


 鋭い瞳の奥には、緊張から解き放たれた安堵の色が淡く浮かび、

 いつもよりほんの少しだけ、柔らかな光を帯びていた。


 四人の間に漂う空気は、式典という重圧から解き放たれた静けさと、

 確かな達成感が混ざり合った、心地よい余韻に包まれていた。


 一方――。


 警備班長を務めていたアリスは、壇上の熱気がまだ残る大講堂の片隅、警備持ち場に立ったまま、仲間たちの顔を一人ずつ見渡していた。


 開会式の間、張りつめた空気の中で一瞬たりとも視線を逸らさず、

 会場全体を見守り続けてきた面々。

 その表情には今、緊張が解けた後特有の色がはっきりと浮かんでいる。


「……みんな、お疲れさま」


 アリスが、小さく、しかし確かな声で告げる。


 その一言に、十五班の面々や風紀委員の学生たちが一斉に頷いた。

 堰を切ったように、どっと肩の力が抜ける音が、そこかしこから漏れる。


「はぁぁぁ……緊張で足が棒みたいになりました……」


 男子学生の一人が、壁に背を預けるようにして腰を落とし、苦笑混じりに吐き出す。

 鎧の留め具がカチリと鳴るほど、身体は限界まで強張っていたのだ。


「でも、事故も混乱もなく終わって……本当によかったですね」


 別の学生が安堵の息をつきながら言うと、

 仲間たちは互いに視線を交わし、張りつめていた顔にようやく笑みを浮かべた。


 疲労の色は濃い。

 だが、その奥にあるのは確かな達成感だった。


 その中心に立つアリスは、涼しげな表情を崩さず、腰に片手を当てる。


「ほらね。言ったでしょ、ちゃんと終わるって」


 まるで事前にすべてを見通していたかのような落ち着き。

 その揺るぎない声が、仲間たちの心をさらに解きほぐしていく。


「……あなただけよ、そんなに落ち着いていられるのは」


 レティアが、呆れたように、しかし柔らかな笑みを浮かべて言った。

 その声音には半ば羨望が混じり、張りつめていた感情がようやく和らぎ始めている。


「でも……ほんとに、よかった」


 胸に手を当て、レティアは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 その吐息はまだわずかに震えていたが、確かに安堵の響きを帯びていた。


 彼女は大講堂の高い天井を仰ぎ見る。

 装飾天井に反射する光が、ゆるやかに揺れている。


 その光を映す瞳には、長く背負ってきた緊張から解き放たれた穏やかさが宿り、

 静かに澄んで輝いていた。


 式典を終えた大講堂の片隅――警備持ち場。


 舞台の熱気と喝采の余韻がまだ微かに残る中、

 人の流れはすでに落ち着き、警備の空気もようやく緩み始めていた。


 アリスは仲間たちへ向き直り、ぱん、と明るい音を立てて両手を打ち合わせる。


「はいっ! これで私たち臨時警備班はお役御免だね」


 朗らかな声が響いた瞬間、十五班とレティア班の面々が一斉に大きな息を吐き出した。

 重なり合う吐息が、張りつめていた糸が解けたことをはっきりと物語る。


「はぁ~~……つ、疲れた~~!」


 両手をだらりと垂らし、天を仰いだのはラースだった。


「もう……立ってられない……」


 その場にずるずると腰を下ろしたのはイリーナ。

 それに釣られるように、ミレーネ、ザック、ヴィクトール、リゼットまでもが次々と膝を折り、床に座り込んでいく。


 制服の襟を緩める者。

 鎧の留め具を外して肩を回す者。


 額には細かな汗が光り、背中に広がる疲労感に、

 彼らは互いに苦笑を交わした。


 アリスはその様子をひとしきり見回し、余裕の笑みを浮かべてひらひらと手を振る。


「後は学院生会と風紀委員さんに任せましょう。私たちは今日だけの助っ人部隊だし」


 のほほんとした口調が、張りつめていた場をふわりと和ませる。


「ほんと……アリスがそう言うと、安心するよ……」


 ミレーネがぽつりと呟く。


「助っ人でこれなら、本職の風紀委員は尊敬しかないわね」


 リゼットも深く息を吐きながら頷いた。


 その傍らで、レティアが静かに一歩前へ出る。

 友の姿を見つめ、柔らかな微笑みを浮かべながら、小さく首を振った。


「……アリス。あなたが一番、気を張っていたでしょう。みんなを安心させてくれてありがとう。お疲れさま」


 穏やかな声音。

 そこには、親友だからこそ分かる労わりと誇りが込められていた。


 アリスは一瞬目を丸くし、次の瞬間、照れくさそうに頬を掻く。


「えへへ……レティアにそう言われると、ちょっとむず痒いな」


 視線が交わる。

 それだけで、周囲の仲間たちも自然と笑みを深めた。


 そこにはもう、張りつめた緊張はない。

 解き放たれた安堵と、仲間同士の確かな連帯感だけが、静かに満ちていた。


 そのとき――。


 規則正しい靴音が、石床を打ち、場の空気を鋭く切り裂いた。

 先ほどまで残っていた緩みが、一瞬で引き締められる。


 視線が自然と音の主へ集まる。


 現れたのは――学院生会長、ユリウス=ノイエラント。


 背筋を正した立ち姿。

 一歩一歩に無駄のない歩調。

 磨き上げられた靴底が石床を叩くたび、短く澄んだ音が響き、周囲のざわめきを押し退けていく。


 黒曜石のように冷徹な眼差しは、いつもと変わらぬ鋭さを宿していた。

 だが、その口元には――ほんのわずかに、労いの色が滲んでいる。


「……よくやってくれた。お疲れさま」


 ただ一言。

 しかし低く落ち着いたその声音には、確かな評価と誇りが込められていた。


 十五班の者も、レティア班の者も、その言葉を耳にした瞬間、自然と背筋を正す。

 張りつめていた表情が、誇らしさへと変わり、胸の奥にじんわりと温かなものが広がっていく。


 ――認められた。

 それだけで、先ほどまでの疲労が報われたように感じられた。


 だが。


 ユリウスの鋭い視線は、すぐさま一点へと収束する。

 その先――アリス。


 わずかに眉をひそめ、冷ややかな光が彼女を射抜いた。


「ただし……アリス。朝一番に“あの行軍の件”を急に告げるのは、さすがに、いたずらが過ぎるだろう」


 その声音には、明確な叱責の響きが含まれていた。


 場の空気が、きりりと再び張り詰める。

 周囲の仲間たちは思わず息を呑み、視線を泳がせる。


 ――来る、と思った。

 だが、当の本人は。


 アリスはまるで気にする素振りもなく、口元に手を添え、小首を傾げる。

 そして、のほほんとした笑みを浮かべた。


「え~。だって私も、朝に聞かされたんですよ? だから一緒です」


 あまりにも軽やかな返答。


 ユリウスは深く、長いため息を吐いた。

 額に手を当て、諦め半分、呆れ半分といった仕草を見せる。


「……まったく、君は」


 その姿に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。


 見ていた仲間たちは、思わず吹き出した。

 あちこちで小さな笑いが生まれ、重苦しさの中に安堵が流れ込んでいく。


 額を押さえたままのユリウスを前に、アリスは腰に両手を当て、堂々と笑みを浮かべた。


「だって、学院生会は“ティアナ騎士団に挨拶をしてほしい”って話だったんでしょ?」


 何でもないことのように言い切り、さらに人差し指を立てる。


「だから――わざわざティアナ様が、ティアナ騎士団の幹部を連れてきたんですよ、って。そう言ってましたよ」


 その瞬間。


 周囲の空気が、大きく揺らいだ。


 レティアをはじめ、学院生会メンバーは一斉に目を見開く。

 次いで、背筋に冷たいものが這い上がる感覚が走り抜けた。


 ――それはつまり。


 今回の壇上での挨拶が、単なる形式的なものではなく、

 「学院に対する恩義」であり、

 なおかつ「ティアナ自身の強い意志」に基づくものだった、という動かぬ証左。


 ユリウスは、ゆっくりと目を閉じた。

 肩で深く息を吐く。


「……あの方が、直々に、か」


 低い声音。

 そこには驚愕と同時に、もはや疑いようのない現実を前にした諦観が滲んでいた。


 王女にして騎士団長が、自ら学院に足を運び、

 しかも幹部を伴ってまで臨んだ――その事実の重みが、ひしひしと伝わってくる。


 誰も、軽々しく言葉を返すことはできなかった。

 互いに顔を見合わせながら、ただ事態の大きさを噛み締める。


 沈黙の中で、アリスの言葉を反芻した瞬間。

 学院生会メンバーの表情が、一斉に強張る。


「……つまり」


 副会長リヒト=クロイツベルクが、眉間に深い皺を刻みながら低く呟いた。


「我々は“ティアナ殿下”を名指ししたのではなく――“ティアナ騎士団”を招待したに過ぎない。そういうことだな?」


 その冷静な指摘に、庶務エリナ=フォルセティがはっと息を呑み、思わず口元へ手を当てる。


 書記ミーナ=アルベルティも大きく瞬きを繰り返し、震える声を洩らした。


「そ、それじゃあ……」


「うん……つまり、“騎士団の代表が挨拶をする”という形に、最初から無理なく収まるよう、整えられていたってことになる……」


 誰かが言葉を継いだ、その瞬間。


 場に、ぴたりと沈黙が落ちた。


 大講堂の片隅にいるはずなのに、

 なぜか互いの鼓動の音が、やけに大きく聞こえる。


 耳鳴りのように重なる鼓動。

 沈黙はひどく重く、居心地の悪さすら覚えさせた。


 会長ユリウス=ノイエラントは、再びゆっくりと目を閉じ、重々しい息を吐く。


「……なるほどな」


 その声音には、諦めと感嘆が入り混じり、苦味を帯びていた。


「学院生会が求めたのは“ティアナ殿下”ではなく、“ティアナ騎士団”。――であれば、あの挨拶は、確かに“依頼通り”というわけか」


 リヒトが小さく頷き、眼鏡の奥で瞳を鋭く光らせる。


「形式上の矛盾は、どこにもない。……見事に、やられたな」


 唇の端に浮かんだのは、皮肉にも似た小さな苦笑だった。


 その瞬間、学院生会メンバーの肩が、どっと落ちる。


 ティアナ殿下本人が壇上に立ち、あれほど堂々と挨拶を行ったにもかかわらず。

 形式上は、あくまで「騎士団の代表として礼を尽くした」――それだけの処理に収まってしまう。


「……完全に、一本取られたわけね」


 呟いたのは、レティア=エクスバルド。


 その碧眼には驚きと同時に、相手の巧みさを認めざるを得ない苦笑が宿っていた。


 隣で、アリスがくすくすと楽しげに笑い、肩をすくめる。


「だから言ったでしょ? 思ったより、ちゃんと進むって」


 その飄々とした一言に、張り詰めていた空気が、ふっとほどける。


 長く張りつめていた糸が切れたかのように。

 疲労と安堵の笑いが、小さな波紋となって広がり、

 仲間たちの胸を、静かに解きほぐしていった。

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