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第七部 第二章 第8話

 会合が終了したのは、すでに夕刻を大きく回ってからだった。

 高窓の外では、燃えるような茜色が空の縁からゆるやかに沈み込み、昼と夜の境界が曖昧に溶け合っている。

 学院の高い尖塔が落とす影は長く引き伸ばされ、石畳の回廊を斜めに覆い尽くしていた。


 校舎の外では、衛兵たちが規則正しく交代に動き、金属鎧が触れ合う微かな音が夕風に混じって流れる。

 遠くの通りでは街灯が一つ、また一つと灯り始め、淡い光が石造りの街路に滲んでいく。

 昼の喧騒が完全に消える前、夜の静寂が訪れる直前――そのわずかな時間に、世界は不思議な落ち着きをまとっていた。


 重苦しい緊張の中で次々と決定された方針を胸に刻み、列席していた関係者たちは足早に散っていった。

 誰もが表情を引き締め、すでに次なる任務や準備へと意識を切り替えている。

 短い会釈だけを残し、回廊の奥へ消えていく背中は、等しく重い責務を背負っているように見えた。


 だが、その流れからわずかに外れるように。

 一部の調査隊メンバーだけが、学院の一角に設けられた小さな会議室へと集まっていた。


 その部屋は、普段は研究班の打ち合わせや少人数での実験検討に使われる場所だ。

 壁際には黒板と古びた書棚が並び、背表紙の擦り切れた魔導理論書や実験記録が隙間なく収められている。

 机の上には、使い込まれた羽根ペン立てと羊皮紙の束、乾ききらないインク壺が無造作に置かれていた。


 大広間の荘厳さとは対照的に、この部屋は実務的で、しかしどこか人の温もりを感じさせる簡素さに満ちている。

 窓からは残照の橙色の光が斜めに差し込み、机上の魔導灯が放つ白い輝きと交錯して揺らめいていた。

 その光と影が交互に室内を覆い、先ほどまでの張り詰めた会合とは違う、わずかな安堵を空気に滲ませている。


 ティアナの姿は、すでにそこにはなかった。

 代わりに、セシリアが淡々とした口調で簡潔な引き継ぎ事項を述べ、必要な指示だけを残している。


「本日の決定事項は以上です。

 詳細は文書で改めて共有されますので、各自、準備を進めてください。

 この場での議論は、ここまでとします」


 無駄のない言葉。

 それだけを告げると、彼女は足音すら立てぬよう静かに踵を返し、扉の向こうへと消えていった。


 扉が閉じる、わずかな音。

 それを合図に、部屋に残された面々は小さく息を吐いた。


 張り詰めていた緊張が、糸をほどくようにゆるやかに解けていく。


「……さすがに、重かったですね」


 誰かが苦笑混じりに漏らすと、他の者も小さく肩を落とした。

 それでも笑いは起きない。

 事態の深刻さは、誰の胸にもはっきりと残っている。


 部屋に残ったのは、アリスとクラリス。

 そしてティアナ騎士団からは、レナ・ヴァルシュ、セラ・グラウネス、ナディア・フェルグリッド、ミリエル・オストン、フロリア・カンタールの五人。

 さらに魔術師団から派遣された、フィレル・ロスとエミリア・カリードの姿もあった。


 人数は決して多くない。

 だが、それぞれが専門と責任を背負う顔ぶれであり、この場に集められた理由もまた明白だった。 


 それぞれが椅子に腰を下ろすと、自然と互いの顔を見やり合った。

 誰からともなく言葉を交わすわけでもないのに、そこには確かな共通認識があった。

 ――同じ戦場をくぐり抜け、同じ緊張と判断の連続を共有してきた仲間だという意識。


 長時間に及んだ会合の疲労は、誰の表情にも隠しきれず滲んでいる。

 目の奥に溜まった倦み、肩に残る強張り、呼吸の深さ。

 それでも、その疲れの底には、わずかな安心感と連帯感が確かに混じっていた。


「……ふぅ、やっと終わった」


 エミリアが長椅子に身を預けるように背を反らし、ゆっくりと腰を落とす。

 大きく吐き出した息が、白く曇ることもなく室内に溶けた。

 硬く結ばれていた肩が目に見えて緩み、指先が無意識にローブの袖を撫でる。

 その仕草は、先ほどまで張り詰めていた緊張を、ようやく解放した証だった。


 頬に浮かんだ微かな赤みは、疲労と安堵が入り混じった色。

 エミリア自身も、それを自覚しているのか、小さく苦笑を浮かべる。


「でも、アリスさん……帯剣、正式に許可されたんでしょ?

 本当におめでとう!」


 ナディアが椅子から身を乗り出すように前のめりになり、ぱっと目を輝かせた。

 両手を机に添えたその姿勢は、子どものように真っ直ぐで、隠しごとのない喜びがそのまま声に表れている。

 祝意とともに、仲間が守られることへの安堵が、はっきりと滲んでいた。


「うんうん!

 あの剣、私たち何度も近づこうとして拒絶されたし!

 あれ以来、正直ちょっと怖かったけど……

 でも、あなたが扱えるってわかってるなら、すごく心強いよ」


 ミリエルも勢いよくうなずき、長い髪の先をくるくると指先で弄びながら、はにかむような笑顔を浮かべた。

 瞳の奥には、まだ完全には消えきらない不安の色が残っている。

 それでも、彼女なりの信頼と期待を隠すことなく、声は明るく弾んでいた。


 その無邪気さに、張り詰めていた場の空気がわずかに和らぐ。

 何人かが思わず口元を緩め、肩の力を抜いた。


「ありがとうございます。

 でも……まだ私自身、扱い切れてるとは言えないかもで」


 アリスは照れくさそうに唇を歪め、小さく笑みをこぼす。

 その視線は、自然と腰に下げられた魔導剣へと落ちていった。


 鞘越しに伝わる、冷たい質感と確かな重み。

 それは単なる鉄の塊ではなく、まるで生き物のような“意思”を宿しているかのようで、

 常に彼女の意識の端に存在を主張している。


 胸の奥に、静かな緊張が残る。


「でも、皆さんの支えがあったから、あそこまで来れたんだと思っています。

 ……本当に、ありがとうございます」


 アリスが腰を折るように深く頭を下げると、

 ナディアとミリエルはぱっと表情を明るくし、椅子の上で小さく拍手をするような仕草まで見せた。


 それに続くように、寡黙だったレナがゆっくりと顎を引き、静かにうなずく。

 言葉はない。

 だが、そのわずかな動作に込められた信頼と承認は、場にいる全員に確かに伝わっていた。


 クラリスもまた、柔らかく目を細める。

 隣に座るアリスの肩へ、そっと手を添えた。


 その掌は軽やかでありながら、確かな温もりを持っている。

 言葉にせずとも、「よく頑張った」と伝えるには十分だった。


「じゃあさ、今度――

 ちゃんとした“お疲れ会”しようよ」


 ふと洩らしたその一言が、静かだった部屋に軽やかな波紋を広げる。


「いいね!」


 ミリエルが勢いよく手を叩き、椅子から跳ねるように身を起こす。

 ぱあっと弾けるような笑顔が場を照らし、軽快な音が壁に反響して、小さな拍手のように響いた。


「賛成!

 ちょっとした打ち上げ、というか……

 この数日、色々ありすぎたしね。

 繁華街にでも出て、美味しいもの食べよう!」


 ナディアもすぐさま身を乗り出し、頬を紅潮させながら笑顔で応じる。

 期待にきらめく瞳。

 机の上で無意識に両手を合わせる仕草からも、心の底から楽しみにしている様子が伝わった。


「いいですね。

 私がお店の手配に協力します」


 レナが低く落ち着いた声で提案する。

 端正な姿勢を崩さぬまま、静かに言葉を置くと、場のざわめきが自然とまとまりを得た。

 騎士団幹部らしい冷静さと気配りが、熱を帯びかけた空気を心地よく整えていく。


「うん、それじゃあ近いうちに……

 皆で、ゆっくり語り合える場を作ろう」


 ナディアが改めて笑顔で宣言する。

 その声音には、柔らかさと同時に、確かな決意が宿っていた。


 全員が声を揃えたわけではない。

 それでも、それぞれが小さくうなずき、口元を綻ばせる。


 その笑みは、戦場を共にした仲間だけが分かち合える信頼の証だった。

 このひとときだけは、会議の重苦しさも、剣の不穏な影も、確かに遠ざかっている。


「そうだなぁ……!」


 ミリエルが身を乗り出し、両手を胸の前でぱたぱたと振りながら目を輝かせる。


「甘いものがいっぱい並んでるお店とかいいな!

 ケーキにプリンに……

 あ、でもお肉も食べたいし、

 やっぱり大きなお皿でどーんと出てくる料理も欲しい!」


 止まらない想像。

 手振り身振りを交えて語るその姿に、場の空気はさらに柔らかく弾んでいく。


「ふふ、ミリエルらしいね」


 ナディアが肩を揺らして笑い、すぐに負けじと声を上げた。


「私はね、夜の街並みが見える高台のレストランなんかもいいなぁ。

 窓際の席で、美味しい料理を食べながら、

 こう……皆でゆっくり話すの」


 どこか夢見るような響きを帯びた言葉に、

 聞いていた仲間たちも思わず想像し、小さく微笑んだ。


 フロリアは二人の盛り上がりを眺め、小さく口元に笑みを浮かべる。


「……うん。

 どちらも、いいですね」


 控えめに添えられたその一言には、場をそっと支える温かさが滲んでいた。


「私は……そうね。

 皆が楽しめるなら、どこでも」


 セラが少し照れたように視線を伏せ、静かな声で相槌を打つ。

 その穏やかな声音が、浮き立った空気に優しく落ち着きを与えていく。


 アリスは、そんな仲間たちのやり取りを静かに見つめていた。

 胸の奥に、ほんのりと温かなものが広がっていくのを感じる。


 重苦しい会議の直後だというのに、

 ここには確かに安らぎがあった。


 ――仲間と共にある限り、自分はきっと前に進める。


 そう思わせる光が、静かに、しかし確かに、彼女の心を照らしていた。


 しばらくの間、部屋には他愛もない会話が途切れることなく飛び交っていた。

 先ほどまで張り詰めていた緊張はゆっくりとほどけ、肩に入っていた力も自然と抜けていく。

 笑顔が戻り、声の調子が柔らかくなり、ふとした拍子に零れる小さな笑い声が、室内に穏やかに反響した。


 それは戦場や公式の会合では決して見られない、年頃の学生や若き騎士たちの素顔だった。

 任務でも責務でもない、ただの「同じ時間を過ごす仲間」としての空気。

 魔導灯の淡い白光と、窓から差し込む残照の橙色が重なり合い、その穏やかさをそっと包み込んでいた。


 やがて、クラリスが軽く手を叩いた。

 乾いた音が一つ、静かに響き、自然と視線が彼女に集まる。


「じゃあ……今日は、ここで解散にしましょうか。

 皆、さすがに疲れているでしょうし」


 穏やかで、気遣いの滲む声だった。

 誰も異を唱えず、小さくうなずく気配が広がる。


 アリスも椅子から立ち上がる。

 その動作と同時に、無意識のうちに腰の剣へと手が伸びていた。


 ――それは、ただの武器ではない。


 冷たい鋼の重みの奥に、確かに感じるものがある。

 責任。

 覚悟。

 そして、自分へと託された“何か”。


 その仕草を、仲間たちは黙って見つめていた。

 誰も言葉にはしない。

 だが、その眼差しには、これから共に進む道への信頼と、背中を預ける覚悟がはっきりと浮かんでいる。


 その時だった。

 誰からともなく、ふと思いついたように、控えめな声が漏れる。


「……ティアナ様たちにも、

 こういう場で話せたら、よかったかもしれませんね」


 クラリスの小さな呟きだった。

 独り言に近い声量だったが、近くにいた者たちには確かに届く。


 数名が静かに頷き、同じ思いを共有するように視線を落とす。

 だが、フィレルが騎士団の面々へと目を向けた、その瞬間――


 ミリエルが、少し気まずそうに笑いながら口を挟んだ。


「……できれば、その……

 閣下たちは、ああいうの……ちょっと苦手かも、です」


 言葉を選びながら、遠慮がちに続ける。


「“気を抜く場”に、あんまり馴れてないというか……

 たぶん、逆に気疲れしちゃうんじゃないかなって」


 それを受けて、セラが肩をすくめるようにしながら、やんわりと補足する。


「ええ……おそらく。

 あの方々にとっては、

 くつろぐ場でも、結局は“役割”が先に立ってしまいますから」


 レナとフロリアも、言葉は発さずに小さく頷いた。

 その表情は否定ではない。

 むしろ、長く仕えてきた者だけが持つ、実感に裏打ちされた理解そのものだった。


「……まあ、らしいといえば、らしいけど」


 クラリスは小さく苦笑し、視線を仲間たちへと戻す。

 肩の力を抜いた、その微笑みには、どこか安堵も混じっていた。


「じゃあ……今回は、我々だけで。

 この時間を、大切にしましょう」


 その言葉を合図に、

 皆の表情に、ふっと自然な安堵が広がる。


 大きな決断も、重い責務も、今は少しだけ脇へ置いて。

 会議室には、束の間の温かな余韻が満ちていた。

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