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閑話 第一六二回 王立魔導学院 学内武術競技会 -四年次- 第4話

閑話、四年次の武術競技会編、第4話になります。

今回は思いのほか長くなってしまい、本編でいうと2話分に相当するボリュームになっています……。

 初回の総合演習という名の予選会第一回目が終わった。

 冬の冷気はなお鋭く、肌を刺すように頬を撫でていく。

 吐き出される息は白く細く揺れながらすぐに空気へ溶け込み、その冷たさとは裏腹に演習場に残る空気は戦闘の余熱を帯びてじわりと重く沈んでいた。


 踏み荒らされた地面には無数の足跡とひび割れが幾重にも重なり、ところどころに焼け焦げた跡が黒く沈んでいる。

 砕けた霜は砂のように広がって足元でわずかに軋みながら、残留魔力の余熱によって微かに揺らいでいた。

 結界はすでに解除されている。

 だが戦闘の名残は消えず、空気そのものがまだ震えているようであり、耳を澄ませばごくわずかに魔力の残響が空間の奥で鳴り続けているように感じられた。


 各リーグの第一試合が終わり、学生たちは三々五々に集まり始める。

 勝敗を振り返る者や互いの動きを分析し合う者、無言のまま次の戦いへと思考を巡らせる者が入り混じり、演習場のあちこちで小さな議論と反省が交錯していた。


 その中で、ひときわ騒がしい一角があった。


「いや、マジで見た方がいいって! あれ完全に別次元だったぞ! 今まで見てきたどの試合とも違うし、正直何が起きてるのか途中でわからなくなったレベルだ!」


「《ブレイズ・レイ》だぞ!? 授業で許可されてる最大火力だぞ!? あれを真正面から受け切るとか意味わからんし、普通なら回避一択だろ! それを立ったまま処理してるんだぞ!?」


「いや違う、受け切ったんじゃない! 三十枚の盾で削り切ってるんだよ! ちゃんと到達しないギリギリで全部消してるし、一枚ごとの減衰量まで全部計算してる動きだった!」


「しかもそのあとだ! 一瞬で消えたと思ったらもう目の前にいるんだぞ!? あの移動どうなってんだよ! 視界に残像すら残ってなかったぞ!?」


 興奮が収まらないまま言葉が重なり合い、互いの声をかき消しながらもなお語り続けるその様子は、まるで一つの現象を共有した者たちが必死に現実へ引き戻そうとしているかのようだった。


「四重展開だぞ!? 《フィジカルブースト》《プロテス》《シェル》《クイックアクセル》全部同時! しかも無詠唱で一瞬展開とかどういう制御してるんだよ!」


「いやいやいや、そんなの成立するわけないだろ普通!? 一つでも高度なのに四つ同時とか意味わからんし、しかも遅延ゼロってどうなってんだよ魔力制御!」


「最後もやばいって! 強化全部切ってから素手で一撃だぞ!? あれ完全に加減してるのにあの威力だぞ!? 直撃した瞬間に全部終わってた!」


「いやもう……あれは授業の範囲じゃない……完全に実戦、それも上位の……いや、もっと上だろ……あれ相手にならないって……」


 誰もが理解しようとしている。

 だが、その理解は追いつかない。


 ただ一つ確かなのは――“異質”だったということ。


 その中心にある名前は、一つ。


 アリス・グレイスラー。


 その話題は瞬く間に演習場全体へと広がり、冷えた空気の中で熱のように伝播していき、各所で同じような会話が繰り返されながら膨れ上がっていく。


 その少し離れた場所で。


 レティアは腕を軽く組みながらその話を聞いており、耳に入ってくる断片的な情報を一つ一つ丁寧に繋ぎ合わせながら頭の中で戦闘の流れを再構築していく。

 その過程で浮かび上がる情景の精度が次第に高まっていくのを、はっきりと実感していた。


 栗色の髪が風に揺れ、冷たい空気が頬をかすめる。

 だがその意識はすでに別の場所にあり、聞こえてくる言葉と想像された戦闘が重なり合って一つの像を形作っていく。


「……なるほどね。だからあんなに人がいなかったんだ。流れが偏ってると思ったけど原因は完全にそっちだったんだね」


 小さく息を吐くように呟きながら、レティアは軽く肩の力を抜く。


「私のところ妙に観戦少ないと思ったんだよね。あれだけ人が流れてたらそりゃそうなるか……最初から“あっち”を見に行ってたってことだよね。あの内容なら納得しかないけど」


 視線をわずかに伏せる。

 ほんの少しだけ、悔しさと残念さが混じる。


「……見たかったな、アリスの試合。どうせならちゃんと最初から最後まで見ておきたかったし、あの流れを自分の目で追えたら多分かなり参考になったと思うんだよね……」


 その言葉は、飾りのない本音だった。


 その時、背後から聞き慣れた声が柔らかく届き、周囲のざわめきの中でもはっきりと耳に残るその呼びかけにレティアは反射的に振り返る。


「レティア」


 振り返った先に立っていたのはアリスであり、戦闘の直後だというのに衣服の乱れはほとんどなく、呼吸もすでに整えられていて、まるで何事もなかったかのように静かに立っているその姿は、周囲の熱気とは対照的に凪いだ空気を纏っていた。


「……あ、お疲れ。ほんとに。なんていうか……いろいろすごかったみたいだね。もう完全に話題の中心だよ」


 レティアの表情が一気に緩み、安堵と驚きと少しの呆れが混じった柔らかな笑みが浮かぶ。


「そっちもお疲れ。問題なさそうだったね。空気の流れでだいたいわかる」


 アリスは軽く頷きながら静かに応じ、その視線は自然とレティアの状態を一巡して確認している。


「どうだった、一戦目。さっきの話聞いてると普通に終わった感じじゃなさそうだけど。結構綺麗にまとめてたって聞こえてきたよ」


「問題なく終わったかな。魔術戦だったしやりやすかった。相手も悪くなかったけど……構成が素直だった分、読みやすかった」


 レティアは肩を軽くすくめながらも戦闘の流れを頭の中でなぞり、その感触を言葉として整える。


「そっちは……聞くまでもなさそうだけど。もう“事件”扱いされてるよ。あちこちで同じ話してるし、内容も妙に正確で逆に怖いくらい」


「……そう?」


 アリスはわずかに首を傾けるが、その反応は本気で自覚がない様子だった。


「そうだよ。“三十枚シールド”。“四重無詠唱展開”。“最後は素手で一撃”。全部広まってるし。しかも細かいとこまで合ってるから余計にね」


 苦笑混じりに言いながら、レティアは小さく息を吐く。


「……見たかったな、アリスの試合。どうやってやったのか自分の目でちゃんと見ておきたかったし、あの流れは絶対参考になる」


 その言葉には純粋な興味と悔しさが混じっていた。


 アリスは一瞬だけ視線を落とし、わずかに思考してから口を開く。


「……再現する?」


「え?」


「簡単な形ならできる。構造ごと分解して見せることもできる」


 あまりにも自然な提案。


「いや、それはそれで怖いんだけど……でもお願い。ちゃんと見たいし、できれば体感で理解したい」


「わかった」


 短く答える。


 一瞬の間。


 そして、二人は自然と笑みを交わした。


「……とりあえず一勝だね。まずはここ」


「最初の一歩としては十分」


 言葉は短い。

 だが重みはある。


 初戦突破。

 それは通過点だが、確実に意味のある一歩だった。


「次も勝つよ。今度はもっとちゃんと見てもらえるように」


「絶対見る。だから――負けないでね」


「そっちも」


 視線が交わる。

 そこにあるのは信頼と競争心。


 同じ場所を目指し、その先でぶつかる可能性も理解している。


 第一回戦、両者勝利。


 レティアはそのまま二戦目の対策を切り出し、二人は演習場の喧騒から少し離れた石畳の通路へと歩き出すと、踏み固められた雪の粉が足元でかすかに音を立て、冷たい風が壁面をなぞるように流れていく中で、遠くからはまだ興奮の残るざわめきが断片的に届いていた。


「……ねえ、アリス。さっき言ってた特訓、やっぱりお願いしたい。次の相手ちょっと厄介でさ。正面から魔術戦なら問題ないけど、距離詰められると一気に崩されるタイプ」


「近接寄りのインファイターだね。ガントレット主体で踏み込みの初速が速い。距離ゼロを狙ってくる構成」


 即答。


「そう、それ。ほんの一瞬でも詰められたら終わる」


「距離維持と初動制圧。それで崩せる。踏み込みの起点を潰せば機能しなくなる」


 淡々とした分析が続く。


 そして。


「……強化でもいい」


 あまりにも自然な一言。


「……え?」


「……え?」


 間。


「いや、その……今日やるって意味じゃなくて。戦い方として、でしょ?」


「そういう意味」


「……だよね。びっくりした」


 レティアは小さく息を吐く。


 まだ戦闘の余韻が残り、集中も完全ではない。

 ここで一気に踏み込むのは違う。


「……段階的にいこう。まずは調整から」


「それでいい。その方が精度は上がる」


「でもそのうち付き合ってよ。逃げないでね」


「逃げない」


 短く即答。


 そのやり取りで、いつもの空気が戻る。

 戦闘の緊張は解け、心地よい距離感だけが残る。


 だが。

 次の戦いはすぐそこにある。


「明日からやろう」


「お願い」


 レティアは即座に頷く。


 だが、その直後、レティアの声がわずかに軽やかさを帯びて響き、それまで戦闘後の余韻に沈んでいた空気にほんの少しだけ色が差し込まれる。


 「でも――明日は休みでしょ? だったらさ、市街に出ようよ。せっかく初戦勝ったんだし、まずはお祝いしよ。ちゃんとしたご飯食べたいし、こういう時くらい少し息抜きしないともったいないでしょ」

 その表情は先ほどまでの張り詰めた緊張とは明確に違い、楽しげな光と少しだけ無邪気な期待が混じり、戦闘の空気を自ら切り替えようとする意思がはっきりと表れている。


「……切り替え早いね。さっきまであんなに真剣だったのに」


 アリスは苦笑しながらも、その変化をどこか心地よく受け止めていた。


「いいでしょ。こういうのも大事だよ。戦うだけじゃ持たないし、ちゃんと緩めるところ緩めないと次に響くしね」


「……まあ、その通りだね。確かにずっと張り詰めたままだと精度も落ちるし、切り替えは必要」


 少しだけ間を置きながらも、アリスはその提案を自然に受け入れていく。


「わかったわよ。せっかくだし付き合う」


 軽く肩をすくめる仕草の中に、ほんのわずかな柔らかさが滲む。



 翌日。

 学院の外、市街は冬の冷たい空気に包まれながらも、人の気配と生活の熱によって確かな活気を保っており、通りを行き交う人々の足音が石畳に規則的な響きを刻み、屋台や店先から立ち上る湯気が白く揺らぎながら温かな香りを周囲へと広げていた。

 焼きたてのパンの香ばしさと煮込み料理の濃厚な匂いが重なり合い、さらに甘い菓子の香りがそこに混ざることで、冷えた空気の中に柔らかな温もりが層のように広がっている。


 二人は並んで歩き、その足取りは戦闘時とは違ってわずかに力が抜け、自然と呼吸も整っていく。


「やっぱり外の空気いいね。学院とは全然違うし、こうやって普通に歩くだけでなんか気が抜けるというか、ちゃんと“日常”に戻ってきた感じする」


 レティアは周囲を見回しながら言い、その視線は人の流れや店先の光景を楽しむようにゆっくりと動いていく。


「少し頭も切り替わる。戦闘の後だと余計にそう感じるね。こういう時間で一度リセットしておいた方が次に繋がる」


 アリスも静かに応じながら、周囲の空気を確かめるようにゆっくりと歩を進める。


 やがて一軒の店へと足を止め、木製の扉を開けると同時に暖炉の熱がふわりと流れ込み、外の冷気との落差によって一瞬だけ身体の緊張がほどける。


「いらっしゃいませ」


 店員の声が穏やかに迎え入れ、二人は案内されるまま席へと向かい合って腰を下ろすと、椅子に身体を預けた瞬間にようやく全身の力が抜けていくのを感じる。


「……なんかやっと落ち着いた感じする。さっきまでずっと張り詰めてたからか、こうして座るだけで全然違うね。体もだけど気持ちの方が楽になってる」


 レティアは小さく息を吐きながら、肩の力をゆっくりと抜いていく。


「戦闘のあとって意外と自覚ないまま疲れてること多いからね。こうやって落ち着ける時間入れた方が回復も早いし、集中も戻る」


 アリスは淡々と答えながらも、その言葉には実感が伴っている。


「でも――勝ったんだよね。ちゃんと。あの場で崩れずに最後まで組み立て切れたし、結果としては悪くなかったと思う」


 少しだけ嬉しそうに笑いながら、その言葉に確かな実感を乗せる。


「一勝。それで十分意味はあるし、あの内容なら次にも繋がる」


 アリスも静かに応じ、その評価は簡潔でありながら的確だった。


「じゃあ――乾杯って言いたいところだけど昼だしね。さすがにそこまでやると変な目で見られそう」


「気分だけでいいと思う。それだけでも十分成立するし」


「だね。それでいこう」


 二人は軽く視線を合わせる。


「一回戦、勝利」


「おめでとう」


 小さなやり取り。

 だが、それだけで十分だった。


 やがて料理が運ばれてきて、湯気が立ち上りながら温かな香りが広がり、戦場とはまるで異なる穏やかな時間がその場に満ちていく。


「……こういう時間も必要だね。ずっと戦うことばっかり考えてると感覚も固まるし、こうやって緩めることで逆に精度が戻る感じする」


「次に向けての準備にもなるしね。完全に切り替えてからまた組み立てた方が動きも安定する」


 レティアはフォークを手に取りながら、少しだけ表情を引き締める。


「明日からちゃんとやるからね。今度はもう少し詰めた形で動けるようにしたいし、距離の取り方と初動の潰し方は徹底的に合わせたい」


「付き合うよ。その辺りは詰めればかなり安定するはずだから、崩される前に制御できる形まで持っていこう」


 アリスは自然に答える。


 戦いは続く。

 だが今は――

 ほんの少しだけ、休息の時間だった。


 そして、夜の帳が学院を包み込み、昼間の喧騒が完全に消え去った屋外の自由練習場で、二人は向き合っていた。

 学院の外れに位置するこの場所には人の気配は一切なく、ただ静寂だけが広がり、空気そのものが凍り付いたかのような密度で張り詰めている。


 冷え切った夜気は鋭く、頬や指先に触れるたびに細かな痛みを伴いながら皮膚を刺してくる。

 吐き出す息は白く濃く広がり、ゆっくりと闇の中へと溶けていく。


 上空には無数の星が瞬き、淡い月光が石畳を銀色に染め上げていた。

 その光を受けて地面に残る霜は細かな粒となって反射し、足元にかすかな輝きを生み出している。


 等間隔に設置された魔導灯が柔らかな光を落とし、その光の輪が重なり合う中心で二人の影が長く静かに伸びていた。

 わずかな動きですらはっきりと視認できる状態が保たれている。


 足元の霜はわずかな振動にも敏感に反応し、踏み込めば鋭く砕ける音を内包している。

 その音すら、この静寂の中では明確な情報として空間に刻まれていく。


 向かい合う。

 距離は一定。

 構えはまだ取らない。


 だが、その瞬間、空気が変わる。

 昼間の余韻は完全に消え去り、静かで鋭く研ぎ澄まされた戦闘前の空気が練習場全体を支配していく。


 互いの呼吸の間隔、視線のわずかな揺れ、そのすべてが情報として流れ込んでくる濃密な時間が始まる。


「じゃあ始めようか。軽くって言ってもちゃんと見るからね。さっきみたいに一瞬で終わらせるんじゃなくて、どこまで反応できるかを見たいし、動きのズレも全部拾うつもりでいくから」


「大丈夫。いつでもいける。説明聞いた時点である程度覚悟はできてるし……正直追える気はほとんどないけど、それでもやる意味はあるから見えない前提で組み立てていく」


 レティアは軽く肩を回しながら筋肉の状態を確かめ、足裏で地面の感触を丁寧に拾っていく。

 重心の位置を細かく調整しつつ呼吸を整え、視線は一点に固定せず広く散らしていく。

 全方向へと意識を分配しながら、戦闘準備を静かに整えていく。


「最初は私が《クイックアクセル》で懐に入る。軽くって言っても体感的には何も起きてないのに終わってる感じになると思うし、視界で追うのは無理だから最初から捨てた方がいい」


「来る場所の予測だけに集中して、防ぐことだけ考えてみて。魔力の揺れもヒントにはなるけどほんの一瞬しか出ないから当てにしすぎると逆に遅れる」


「了解。視界は捨てる。位置予測と魔力感知だけに絞る。反応じゃなくて先読みで置く感じにする。見えてからじゃ絶対間に合わないから、そこは最初から切り捨てる」


「それでいい。その形に慣れれば対応は見えてくる」


 短いやり取り。

 だが、それだけで準備は整う。


 静寂。


 風が一度、練習場を横切る。

 霜がわずかに揺れ、その流れが皮膚の感覚として伝わる。


 レティアはさらに重心を落とし、体内の魔力を滑らかに循環させていく。

 視界を広げ、焦点を固定せず、全方向への警戒を均等に配分していく。


(来る……見えない……でも何かは必ず起きる……。空気の歪み、音、魔力の揺れ、そのどれか一つでも拾えれば……。そこに合わせて置く……)


 その瞬間。


 アリスの魔力が、ほんのわずかに揺れた。


 ――《クイックアクセル》。


 次の瞬間。


 アリスの姿が消える。


「――っ!?」


 完全な消失。

 残像すら残らず、空気だけがわずかに歪む。


 踏み込みの衝撃が遅れて伝わり、足元の霜が砕ける音が時間差で響く。


(どこ……。前じゃない……。横……違う……。後ろ――)


 思考が爆発的に加速し、前方への展開を即座に否定する。

 右も左も違うと切り捨て、最後に残った違和感を背後へと収束させる。


 ほんのわずかな“気配”。


「――そこっ!」


 振り向きざまに魔力を集中させ、障壁の構造を一瞬で組み上げる。

 空間に透明な壁を出現させる。


 だが。


 すでにその“内側”。


 アリスは、そこにいた。


「いい反応。判断も正確だし迷いもなかった。でも――少し遅い。今のはあと半歩早ければ間に合ってたし、障壁もあとコンマ一瞬早ければ成立してた」


 至近距離で静かな声が響く。


 ようやく視界に捉えた時にはすでに距離はゼロであり、完全に懐に入られている。

 防御は成立していない。


 アリスの手が軽く触れる。

 突きではない。


 だが、その位置は正確に急所。


 もし本気であれば、その瞬間に決着していた。


 時間が止まる。


 レティアの呼吸がわずかに乱れる。


「……本当に見えないね。見えた時には終わってるっていうか。これはちょっと想像してたよりもずっと速い。反応じゃ絶対追いつかない」


「だから見ようとしない方がいい。今の反応はかなり良かったし、方向も正解だった。あとは“あと一歩早く置く”だけで成立するところまで来てる」


 アリスは一歩距離を取りながら続ける。


「今の感覚なら詰めれば対応できる。完全に見える必要はないし、予測で十分届く位置まで来てる」


「その“一歩”が一番難しいんだけどね……でも今のでズレははっきりわかった。この差を詰めれば通る感触はある」


 レティアは軽く肩を回しながら呼吸を整える。

 その表情には悔しさと同時に確かな手応えが浮かんでいる。


「もう一回いく?」


「お願い。今度はもう少し早く合わせる。さっきのズレをそのまま詰める形でいく」


 再び距離を取る。


 夜の静寂の中。


 特訓が、始まる。


 レティアは、だいぶ慣れてきた。

 最初は完全に見失っていた踏み込みの起点と、視界から消えた瞬間にすべてを奪われるあの“何もできない時間”に押し込まれていた感覚が、今では少しずつ分解されて認識できるようになっている。


 空気の歪みや霜が砕ける微かな音、そしてほんの一瞬だけ揺れる魔力の流れが断片的に繋がり始め、それらが一つの線として頭の中に組み上がっていく感覚が確かにあった。

 視界では追えない。

 だが、感じている。


 何度も繰り返された攻防の中でわずかなズレが確実に縮まり、最初は完全に背後を取られていた位置取りも今では“そこに来る”と読んで先に障壁を置ける場面が増えている。

 夜気の冷たさが汗ばんだ肌に触れて一層鋭く感じられ、呼吸は荒くはないが深く重く、確実に身体へ負荷が蓄積していることを静かに伝えていた。


 足元の霜はすでに何度も砕かれ細かな白い粉となって石畳に広がり、その上を踏むたびにわずかな音と感触が足裏へと返ってくる。


「……今の、触れられてないよね。ちゃんと間に合ったよね。位置もズレてなかったし、反応じゃなくて先に置けた感覚あったんだけど」


 レティアが小さく息を吐きながら言い、その声にはわずかな高揚と確信を求める真剣さが混じっている。


「ちゃんと間に合ってる。今のは完全に防げてたしタイミングもほぼ理想。位置取りもズレてないし、反応じゃなくて予測で置けてる」


 アリスは静かに頷きながら答え、その視線はレティアの動きを細かく追い続け、わずかな癖や遅れ、力の抜き方まで丁寧に観察している。


「最初は完全に消えてる状態だったのに、今は来る位置を読めてる。視界で追うのをやめて予測に切り替えられてるのが大きいし、無理に見ようとしてないのがいい方向に出てる」


「……まだギリギリだけどね。ほんの少しでも気を抜いたら普通に取られるし、さっきも一回完全に遅れてたし、余裕なんて全然ない」


 レティアは肩を回しながら苦笑し、関節がわずかに鳴る音とともに蓄積した疲労がじわりと表面に滲み出てくる。


「でも最初よりは全然マシ。少なくとも何もできない状態じゃなくなったし、一方的にやられる感じじゃなくて対応しようとしてる実感はある」


「それで十分。今の段階なら精度と余裕を上げていくだけでいいし、余裕が出れば選択肢も増えるから対応の幅も広がる」


 短い評価。

 だが、その一言には確かな成長を認める重みがあった。


 風が、再び静かに練習場を抜ける。

 霜の粉がわずかに舞い上がり、冷えた空気が二人の間をすり抜けていき、遠くの魔導灯の光が揺れて影の形がゆっくりと変わる。


 レティアは一度大きく息を吸い、肺いっぱいに冷たい空気を取り込んでからゆっくりと吐き出す。

 白い息が長く伸びて夜の中へと溶けていくのを眺める。


「……もう一回いける。今の感覚まだ残ってるし、このまま終わるのちょっともったいない気もするし、もう一段詰められそうな気がする」


 その声には確かな手応えと、さらに踏み込みたいという意志が宿っていた。


 だが。


「今日はここまで」


 アリスが静かに言う。


「……え、今いい流れだと思ったんだけど。もう少しやれば掴めそうな感じあるし、ここで止めるのもったいなくない?」


 レティアがわずかに目を見開き、少しだけ食い下がるように言葉を返す。


「十分。ここから先は精度より疲労が上回る段階に入るし、今はいい感覚で動けてる状態だからここで止めた方が明日に繋がる」


 淡々とした判断。

 迷いはない。


「これ以上続けると反応が鈍くなるか、無理に追おうとして動きが崩れる。その状態で繰り返すと今掴んだ感覚ごと歪む可能性がある」


 理にかなった説明。


 レティアは一瞬だけ考え、思考を巡らせてから小さく息を吐く。


「……確かに、今ちょうどいいところだね。このまま続けたらさっきできてたことができなくなりそうな気もするし、崩れる前に止めた方がいいのはわかる」


「それが一番もったいない。今日はできた状態で終わるのが正解」


 アリスは軽く頷く。


 張り詰めていた空気がふっと緩み、戦闘の集中が解けると同時に静かな疲労が体の内側からじわりと広がっていく。


 レティアは空を見上げる。

 星が変わらず瞬いている。


 その光は冷たく澄みながらもどこか優しく、静かに二人を照らし続けていた。


「……なんかあっという間だったね。体感的にはそんなに長くやってないのに、ちゃんと疲れてるし集中してたのが一気に抜けた感じする」


「集中してると時間は短く感じる。その分だけちゃんと積み重なってる証拠でもある」


「ちゃんと前に進んでる感じはある。さっきまで全然ダメだったのに今はいけるかもって思えてるし、この差は大きい」


「それで十分。あとは繰り返せば形になるし安定する」


 短く言葉を交わす。

 互いに理解している。


 今日の積み重ねが、次の戦いへと確実に繋がることを。


 夜の自由練習場。

 静寂と冷気に包まれたその場所で。


 二人の特訓は、ひとまず区切りを迎えた。



 そして時は過ぎて、総合演習当日になった。

 朝の鋭く冷え込んだ空気が頬を刺すように流れ、吐く息は白く長く伸びながらゆっくりと拡散していき、空には冬特有の高く澄み切った青が広がっていた。


 学院の演習場にはすでに多くの学生が集まり始め、規律正しく抑えられたざわめきと抑えきれない高揚が混ざり合い、踏み固められた地面に残る霜が足音のたびに細かな音を立てながら砕けていく。

 魔導結界の展開準備も整えられ、空間そのものがわずかに震えているように感じられ、これから始まる戦闘を予感させる圧が静かに場を満たしていた。


 空気は乾いて冷たいが、その内側には確かな熱が宿り、周囲の高台には見学の学生や教員が次々と集まり、視線が中央へと収束していく中で互いに交わされる情報や前回の試合の分析、勝ち上がりの予測が重なり合い、演習場全体がひとつの“熱”を帯びていた。


 総合演習という名の予選会であるが、その実態は誰もが理解しており、競技という枠を越えた真剣勝負の空気がすでに出来上がっている。


 その中心に、アリスとレティアは並んで立っていた。

 二人の周囲だけわずかに空気の密度が異なり、無意識に周囲が距離を取っているのか、それとも二人自身の集中がそうさせているのか、明確な境界のようなものが形成されていた。


「……来たね。空気が全然違う。昨日までと明らかに密度が変わってるし、呼吸するだけで圧を感じる。なんか息苦しいくらい」


「張り詰めてる。演習っていうより本戦前みたいな感覚だね。結界の張りも強いし観客の数も多いし、情報量も一気に増えてる」


 アリスは静かに応じながら視線をゆっくりと動かし、観客席や結界の強度、地面の状態や風の流れといった要素を一つずつ確認していく。

 その動きは自然でありながら一切の見落としを許さない精度を持っていた。


「やっぱり人多いね。こんなに集まると思ってなかった。ほとんど全員来てるんじゃない?」


「第一試合は集まりやすい。でも今回はそれだけじゃない。この密度は明らかに意図的に集まってる流れ」


「それ、完全にアリスの試合待ちでしょ。さっきから名前出てるし視線もほとんどこっちに集中してる。隠す気もないくらい露骨だよ」


 周囲から漏れ聞こえる声が重なり、断片的な言葉が空気を震わせる。


「今日も出るんだろ、あの四重同時展開」

「いや、それ以上見せるかもしれない」

「前回のはまだ抑えてたって話もあるぞ……」


 ざわめきが波のように広がり、期待と興味が混ざり合いながら場の温度をさらに押し上げていく。


「……ほらね。これで自覚ないって言われたらさすがに困るんだけど」


「特に意識してない。いつも通りやるだけ」


「その“いつも通り”が普通じゃないから言われてるんだけどね。基準がズレてる自覚持った方がいいと思う」


 レティアは軽く肩をすくめながらも、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。


 そのやり取りの最中、演習場中央に立つ教官の声が結界を通して全体へと響き渡る。


「――これより、本日の総合演習を開始する!」


 空気が一段引き締まり、ざわめきが一瞬で収束して全員の意識が中央へと集中し、張り詰めた緊張が場全体を一気に支配した。


 続いて対戦順が読み上げられていく。


「第一試合――アリス・グレイスラー」


 その名が呼ばれた瞬間、空気がわずかに揺れ、期待と興味、そしてわずかな畏れが混ざり合って無数の視線となりアリスへと集まる。


「……ほんとに一番最初なんだね。ここまで来ると逆に清々しい。逃げ場もないし全部見られる状況でやるしかない」


「前回と同じ流れ。むしろ楽。待たされるよりこのまま入った方が集中が切れないし、状態も維持しやすい」


「それは確かにあるね。待機時間が長いと余計なこと考えちゃうし身体も冷えるし、最初に終わらせた方が気持ち的にも楽」


「終わらせてから調整する方が効率いい」


 短いやり取り。

 だが、その裏には確かな緊張がある。


「……私は第三試合。少し時間ある。この間に感覚崩さないようにしないと危ない」


「時間ある分、逆にズレやすい。考えすぎると崩れるからそのまま持っていった方がいい。変にいじらない方が安定する」


「わかってる。このまま身体に落とし込む。あの感覚消さないようにする」


 軽く呼吸を整え、冷たい空気を肺へと入れることで意識をさらに研ぎ澄ませる。

 視線を前に戻す。


 演習場中央。

 そこが、これからの戦場。


「行ってくる。派手にはしないけど確実に終わらせる」


「――見てる。最初から最後まで全部」


 レティアの声は短いが、芯のある強さを持っていた。


「わかった」


 アリスは軽く頷き、そのまま迷いなく前へ進み出る。


 足音が霜を砕き、乾いた音が静寂の中に響く。

 視線がすべて集まる。


 第一試合。

 アリスの戦いが、始まる。


どうだったでしょうか。

少しでも楽しんでいただけていれば嬉しいです。


このストーリーは、予約投稿は行わず、出来上がり次第、即投稿していきます。

そのため、投稿時間や日時は未定となります。


次のお話も、これから書きます。

少しずつの更新になりますが、気長にお付き合いいただければ嬉しいです。


本編も引き続き、よろしくお願いいたします。

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