第七部 第二章 第1話
午前の講義が終わる鐘の音が、学院の中庭に柔らかく響き渡った。
澄んだ音色は春の風に乗り、白い石造りの校舎の壁面に反射しながら、回廊の奥へとゆっくり溶け込んでいく。
ざわめき始めた空気には、授業を終えた解放感と、次の時間へ移ろうとする気配が混じっていた。
そのころ、アリスは静かな足取りで、ある講義室へと向かっていた。
足音は無意識に抑えられているはずなのに、白い石畳に落ちる靴音は規則正しく、彼女の胸にある緊張と期待をそのまま映し出しているようだった。
本来なら、彼女自身も出席していたはずの五年次選択科目の教室。
だが今回は調査隊への同行のため、特別措置として欠席扱いとなっていた。
――それでも。
どうしても、気になってしまった。
講義が終わる時間を見計らい、気づけば自然と足が向いていたのだ。
扉の向こうからは、講義を終えた学院生たちが談笑しながら出てくる気配が伝わってくる。
弾んだ笑い声、椅子を引く音、資料をまとめる紙の擦れる音。
それらが重なり合い、にぎやかな余韻となって廊下へとあふれていた。
(……やっぱり)
アリスは小さく息を吐き、胸の奥に溜まった緊張をそっと押し下げる。
(まだ、中にいるよね)
そう思いながら、講義室の扉へと手を伸ばした。
軋む音を立てぬよう、指先に力を込めて静かに押し開ける。
扉の向こうには、先ほどまでのざわめきが嘘のように引いた、広い教室の静けさが戻っていた。
窓際から差し込む陽光は柔らかく、木製の机と椅子の影を床に落としている。
教壇の近くに、まだ一人だけ学院生の姿が残っていた。
栗色の髪を肩口で揺らす少女――レティア。
光を受けたその髪は淡く輝き、碧眼には、つい先ほどまで続いていた授業の余韻がまだ残っている。
机の上に広げたノートを閉じかけていた彼女は、ふと気配に気づき、振り返った。
「……アリス?」
ぱちり、と瞬きをして、目を丸くする。
驚きがそのまま碧眼に映り込み、想定外の再会を前にした素直な反応だった。
「やっほ、レティア。ちょっと顔、見にきただけ」
アリスは軽やかに手を振りながら教室へと足を踏み入れる。
その仕草は気取らないものだったが、久しぶりに親しい顔を目にした安堵が、自然と滲んでいた。
レティアは少し困ったように瞬きを繰り返し、ノートの端を指先で押さえたまま、小首を傾げる。
「え、でも……明日まで調査隊でいないんじゃなかったの?」
「ううん、予定より早く終わったの。初日で目標地点の調査が全部片付いちゃってさ。夜には帰ってきたんだ」
「……そっか」
短く応じてから、レティアは照れたように笑みをこぼす。
白い頬がかすかに赤く染まり、碧眼が柔らかに揺れた。
「なんだか、ちょっと驚きすぎちゃったかも。一日会ってないだけなのに」
その言葉に、アリスは小さく肩をすくめる。
「私も似たようなものだよ。顔見ないと落ち着かなくて」
レティアは一瞬だけ視線を落とし、ためらうように唇を噛んでから、ぽつりと続けた。
「……でも、ちょっとだけ、寂しかったのはほんと」
その小さな本音に、アリスは思わず目を細める。
胸の奥がじんわりと温かくなり、口元に自然な笑みが浮かんだ。
「じゃあさ」
一歩近づき、軽やかに言う。
「お詫びに、今日の昼ごはん、付き合ってもらおうかな?」
その誘いに、レティアは一瞬きょとんとした表情を見せたあと、ふわりと微笑んだ。
「うん、行こっか。ちょっとだけ待って。ノート、片づけるから」
「オーケー。廊下で待ってるね」
アリスは軽く手を振り、教室を出る。
閉じかけた扉の向こうから、小さな笑い声が追いかけてきた。
――それは、安堵と嬉しさが入り混じった、やさしい響きだった。
ほどなくして、ノートと筆記具を胸に抱えたレティアが教室から姿を現す。
栗色の髪が柔らかに揺れ、碧眼が小さな光を帯びている。
「お待たせ」
一歩並んでから、少し照れたように続けた。
「……なんだか、久しぶりって感じがするのが不思議」
「ほんとだよね。一日ぶりなのに、ちょっと離れてると変な感じ」
「ふふ……でも」
レティアは小さく笑い、前を向いたまま言う。
「そういうの、悪くないかも」
二人は並んで歩き出す。
陽の差し込む回廊に、軽やかな足音が二つ重なって響いた。
そのひとときは、ほんのわずかな再会に過ぎない。
けれど確かに、胸の奥に残る――大切な宝物のような時間だった。
――昼休みの鐘が鳴ると同時に、学院の廊下は一気に賑わいを増した。
軽やかな鐘の余韻が石壁に反響し終えるより早く、各教室の扉が次々と開き、学生たちの声と足音が波のように溢れ出す。
笑い声、昼食の予定を語り合う声、椅子を引く音や教材を抱える衣擦れの音が重なり、回廊全体が生き物のようにざわめき始めていた。
高窓から差し込む昼下がりの光は白い床に複雑な影を落とし、歩く人々の足元でゆっくりと揺れている。
そんな喧騒の中を、アリスとレティアは肩を並べ、自然な歩調で食堂へと向かっていた。
人の流れに逆らわぬよう進みながら、レティアはふとアリスの腰元に視線を落とす。
揺れる歩みに合わせて、そこにあるはずのものが確かに存在しているのを確認し、小さく目を瞬かせた。
「……あれ? アリス、今日、剣持ってるんだ?」
驚きよりも、何かを確かめるような声音だった。
栗色の髪が肩口でふわりと揺れ、碧眼が小首を傾げる仕草に合わせて柔らかく光を受ける。
その声には、責める色はなく、ほんのわずかな気遣いと心配がにじんでいた。
アリスはその言葉に、歩みをわずかに緩める。
無意識のうちに腰元へ伸びた指先が剣に触れ、ぎゅっと力がこもった。
胸の奥で、小さなざわめきが走る。
――どう説明するべきか。
どこまで、言うべきか。
一瞬だけ言葉に詰まり、それから息を整えるように軽く肩をすくめた。
表情には、できるだけ気軽な笑みを浮かべて。
「うん、まあ……ね」
言葉を探すように視線を前へ向けたまま、続ける。
「今回の調査みたいなこと、またあるかもしれないし。急に呼ばれることもあるだろうし……しばらくは携帯することになったっていうか」
少し間を置いて、付け足すように。
「ほら、念のため、ってやつ」
わざと軽い調子でまとめたその声音の奥には、ほんのかすかな緊張と、逃げ場のない責任感が潜んでいた。
「……そっか」
レティアは短く応じ、それ以上は問い返さなかった。
視線を前へ戻しながら、ほんの一瞬だけ意識を内側へ沈める。
(……よかった)
胸の奥で、そう静かに呟く。
(やっぱり、アリスが剣を持っているほうが安心する)
昨夜のことが、ふと脳裏をよぎった。
調査隊に同行できなかった自分は、学院で報告を待つことしかできず、ただ時間が過ぎていくのを耐えるしかなかった。
もし、何かあったら。
もし、彼女が無茶をしたら。
そんな考えが頭をよぎるたび、知らず知らずのうちに指先が震えていたことを、はっきりと覚えている。
けれど今、こうして彼女の腰に収まる剣を目にして、その不安はすっと薄れていった。
(危険なものだって、分かってる)
それでも。
(アリスの手元にあれば……きっと、彼女自身を守ってくれる)
横目に映るアリスの横顔は、いつもより少しだけ明るく振る舞っているようにも見えた。
無理をしているわけではないが、何かを胸の奥にしまい込んでいる――そんな微かな違和感。
けれど、その裏側にある強さを、レティアはよく知っている。
だからこそ、剣が彼女の傍にあることが、かえって心を落ち着かせてくれた。
(……きっと私は)
(剣そのものじゃなくて)
(剣を持つアリスを、信じてるんだと思う)
そう自覚した瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。
自然と口元がやわらかに緩み、足取りまで少し軽くなる。
「ふふ……」
吐息に近い小さな笑いが零れる。
レティアは栗色の髪をそっと揺らしながら、変わらぬ距離でアリスの隣を歩き続けた。
昼の光と喧騒に包まれた廊下を進む二人の背中は、やがて人の波に溶け込みながら、食堂へと向かっていった。
やがて食堂の入口に近づくと、焼き物とスープの混ざり合った温かな匂いが廊下へと流れ出してきた。
昼休みの喧騒が一段と濃くなり、トレーが重なり合う音や、食器の触れ合う軽やかな金属音が耳に届く。
その入口脇に設置された掲示板へと視線を向けた瞬間、アリスの表情がぱっと花開いた。
「わっ、見てレティア! 今日の日替わり、グリルチキンと野菜のスープだって! しかも焼き目しっかりついてるみたい。絶対おいしいやつだよ、これ……これにしよ、これ!」
身を乗り出すように掲示を指差し、声を弾ませるアリスに、レティアは思わず吹き出した。
肩をすくめながら、くすりと笑みをこぼす。
「ほんとに元気ね、アリス。さっきまで剣の話してた人と同一人物とは思えないんだけど」
そう言いながらも、その声色には呆れよりも親しみがにじんでいる。
「でも……うん。見てるだけでお腹すいてきたかも。匂いもずるいし」
二人は並んでトレーを取り、列に加わる。
厨房の奥から聞こえる調理音と、湯気の向こうに並ぶ料理の色合いが食欲を刺激する。
グリルチキンのこんがりとした焼き色。
野菜の旨みが溶け込んだスープの淡い香り。
日替わりランチを受け取ると、トレーの重みと温もりが掌に伝わり、自然と足取りも軽くなった。
「――あっ、見て。窓際、空いてたよ」
レティアがさりげなく指差した先に、陽だまりに縁取られた二人掛けの席が見える。
「ほんとだ。ラッキー」
アリスが小さくつぶやき、嬉しそうにその席へ向かう。
窓辺に腰を下ろすと、外から吹き込む穏やかな風がカーテンを揺らし、昼の光が卓上をやさしく照らした。
喧騒の中心から一歩離れただけで、そこにはほんのひとときの静けさが生まれている。
「やっぱり、この場所いいよね。落ち着くし、風も気持ちいいし」
アリスはそう呟きながらスープを一口すする。
湯気とともに息を吐き、ほっと肩の力が抜けた。
レティアもその様子を見て、静かにうなずく。
「うん。外の音は聞こえるのに、ここだけ少し遠い感じがして……好き」
一瞬、言葉を選ぶように視線を落とし、それからそっと続けた。
「……それに、アリスが戻ってきてくれて、なんだかホッとしたよ」
「えっ?」
不意の言葉に、アリスは目を瞬かせる。
「一日しか会ってないのに?」
レティアは頬を赤らめ、視線を逸らしながらパンを小さくちぎる。
指先の動きが、わずかにぎこちない。
「うん。でも……やっぱり、いないと寂しいから」
ほんの少し間を置いて、かすれるように。
「ちょっとだけだけど。……やっぱりね」
アリスは驚いたように目を見開いたまま、数秒言葉を失った。
それから、ゆっくりと表情を緩め、やさしく微笑む。
「……そっか」
スプーンを置き、レティアのほうを見る。
「ありがと。じゃあ、しばらくはそばにいるよ。できるだけだけど」
「うん」
レティアは小さく頷き、ようやく顔を上げる。
「約束だからね」
二人の間には、まるで指切りを交わしたかのような温かな空気が流れていた。
食堂全体のざわめきは変わらず続いているのに、窓際のこの一角だけは、柔らかな時間に包まれている。
「そうだ」
ふと思い出したように、レティアが声を上げる。
「このあと図書室に行く予定なんだけど、アリスも一緒にどう?」
「うーん……」
アリスはチキンを一口頬張り、少し考えるように首を傾げる。
「お腹いっぱいになったら、たぶん眠くなっちゃうかも」
「ふふ、じゃあ無理には誘わないよ」
くすっと笑い、冗談めかして続ける。
「でも、もし寝ちゃったら……起こしに行くから覚悟してね?」
「お手柔らかに~」
アリスが両手を合わせて拝むように言うと、レティアはまた小さく笑った。
そんな他愛のないやり取りを交えながら、二人の昼食は穏やかに、ゆっくりと過ぎていった。




