第七部 第一章 第4話
クラリスは、保管庫の片隅に据え付けられた監視用の魔導端末の前に立ち、冷たく光る水晶パネルへと手をかざした。
指先が小刻みに操作盤を叩くたび、薄青い符号が宙に浮かび上がり、術式円を描いてから淡く消えていく。
その光は壁面に刻まれた抑制紋と反射し合い、保管庫全体に不規則な明滅を走らせた。
「……監視映像。記録が残っていれば、夜間に何が起きたのか把握できるはずなんだけど……」
低く呟きながら、クラリスは次々とコマンドを入力していく。
解析用、管理用、緊急用と切り替えながら術式を重ね、通常なら閲覧できるはずのログ領域へアクセスを試みた。
だが端末は応えるように、赤い警告符を幾度となく点滅させる。
最後の試行の直後、硬質な音とともに水晶面が強く発光し、決定的な拒絶を示した。
《映像記録ログへのアクセス権限がありません》
冷たく突き放すような表示が宙に浮かび、赤光が保管庫の壁面にまで反射する。
クラリスは小さく息を吐き、肩を落として端末から手を引いた。
「……入室権限だけじゃ足りないみたいね。映像記録は、さらに上位の管理権限が必要。講師権限じゃ、そこまでは届かないわ」
落胆を隠し切れない声だったが、眼鏡の奥の瞳には、まだ諦めきれない研究者の執念が宿っていた。
「そっか……それなら仕方ないね。ティアナさんが来たら、確認してもらうしかないか」
アリスは小さく苦笑しながら答え、剣のすぐそばへと身を下ろした。
ひんやりとした床石の冷気が制服越しに背筋へ伝わり、思わず小さく身震いする。
吐き出した息は白く揺れ、静まり返った保管庫の空気に溶けて消えていった。
彼女は無意識に、剣の柄へと掌を近づける。
触れる直前で止め、ふっと小さく息を吐いた。
安心を得るためなのか、それとも不安を抑え込むためなのか――自分でも判然としない仕草だった。
ふと、アリスの表情に、わずかな迷いと決意が入り混じる。
「ねえ、クラリス。少し……話してもいい? ティアナさんが来るまでの間でいいから」
「ええ、もちろん。何の話?」
アリスは静かに剣へと視線を落とし、その存在を確かめるように一拍置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「……この剣に、初めて触れたときね。見えたの。戦場で、レティシアが血まみれになりながら、この剣を握って立っている姿」
声は低く、しかしはっきりとしていた。
「そのときは、きっとこれが彼女の“最期の記憶”なんだって思った。命が尽きる直前まで、手放さなかった剣の記憶だって……」
アリスは一度言葉を切り、深く息を吸う。
「でも、今は少し……違うんじゃないかって思ってる」
「違う……?」
「うん。あれは、“レティシア自身の記憶”じゃなくて……この剣が覚えていた、“最後に使用された記憶”だったんじゃないかって」
クラリスの眉がわずかに動く。
「誰にも触れられないまま、長い時間、あの場所にあった剣が……最後に記録していた戦場の光景。それを、石碑を通して私が見せられたんだと思う」
クラリスは息をのんで頷いた。
その瞳は、目の前の少女の言葉を一字一句取りこぼすまいとするかのように、真剣だった。
「でも、それがどこの戦いだったのかは、はっきりしない。ただ……」
アリスは顔を上げ、まっすぐにクラリスを見据える。
「石碑に触れたときに見えた、もうひとつの記憶。あれだけは違う。あれは、間違いなく“あの場所”での出来事だった」
「……あの場所?」
「ファーレンナイト奪還戦」
その名を口にした瞬間、保管庫の空気がわずかに張り詰めた。
「激しい爆音が鼓膜を突き破るように響いて、耳鳴りで頭が痺れるほどだった。空気は硝煙で濁って、焦げた土と血の匂いが喉を刺して……」
アリスの声は次第に熱を帯びていく。
「口の中には血と鉄の味が広がって、唾を飲み込むたびに喉に張りついた。乾いた唇を濡らすものなんて、それしかなかった」
クラリスの表情が、静かに強ばる。
「前方には、レティシアとリディアがいた。背中を預け合いながら、全身を酷使して戦い続けていたわ。でも……明らかに限界だった」
アリスは目を伏せ、記憶の奥をなぞるように続ける。
「魔導神器 《ヴァルキリー》も《ワルキューレ》も、もう光を失っていた。二人とも魔力を使い果たしていて……素手で、傷だらけの体で。それでも、絶対に退かなかった」
「……レティシアとリディアが、並んで……」
「うん。リディアは血と汗にまみれて、息は荒くて、声も震えてた。でも……目だけは、全然揺らいでなかった」
アリスの瞳に、再びその光景が映る。
「レティシアはね、魔人の腕を素手で掴んで……骨が軋む音を立てながら押し返してた」
声がわずかに震える。
「骨が砕ける鈍い音、爪が肉を裂く嫌な感触……全部、すぐそこにあった。リディアも歯を食いしばって、敵の顎を蹴り上げて……血反吐を吐きながら、それでも立ち続けてた」
クラリスは無意識に拳を握りしめ、息を潜める。
「二人とも……限界の、その先で戦っていたのね」
「うん……それでも、最後まで立ってた。包囲してくる敵に向かって、レティシアは叫んだの」
アリスは小さく、しかしはっきりと声を再現する。
「“もうすぐ援軍が来るはず。信じて、耐えるのよ”って……」
その言葉を最後に、アリスはそっと目を伏せた。
肩が微かに震え、長い吐息が唇から漏れる。
「それから、霧が濃くなって……戦場の音が遠ざかって……私は、何も見えなくなった。でも……あの光景は、今でも胸に焼き付いてる」
「……二人が、そこまで……」
クラリスは静かに呟き、視線を落とした。
保管庫の冷たい空気が、二人の沈黙を重く包み込む。
しばしの沈黙。
「あとで……自分でも思い出したの。あの映像の断片を、記憶の奥から」
やがてクラリスは深く息を吸い、アリスへと優しく語りかけた。
「それは、記録じゃない。きっと伝承でもない。レティシアたちが本当に生きた、真実の戦いの記憶……あなたにだけ届いた、特別な記憶なのね」
アリスは小さく息を整え、ゆっくりと頷いた。
「……それだけじゃないの」
声を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「私の中に残っている、“レティシア自身の記憶”にも……あの戦場の場面がある。耳をつんざく爆音、硝煙と焦げた土の匂い、血と鉄の味……全部、はっきり覚えてる」
クラリスは息を詰めたまま、真剣に耳を傾ける。
「今から話すのは……“私=レティシア”としての記憶」
アリスはそう前置きし、静かに続けた。
「リディアと背中を合わせて、全身を傷だらけにしながら戦った。魔力を失っても、立ち続けた。魔導神器ももう使えなくて……残されたのは、素手と……拾った一般兵の剣だけ」
声が低く、強くなる。
「……そう。“一般兵の剣”。確かに使った記憶がある。でも、それは量産された、ごく普通の剣だった。ここにあるような、こんな異質な剣じゃなかった」
クラリスの目が大きく揺れる。
「なのに……石碑を通して見た映像では、レティシアはこの剣を握って戦っていた。柄の形も、装飾も……私の知っている剣とは違う」
アリスはぎゅっと柄を握り、目を伏せた。
「人族連合軍の剣も、魔国兵の剣も……私は覚えてる。でも、どれとも一致しない」
小さく、しかし確かな震えを帯びた声で締めくくる。
「――だから、わからないの。なぜ、あのときの映像の中で、レティシアはこの剣を持っていたのか。実際の記憶と一致しない。私の知っている“事実”じゃないのに……確かに、そこにあった」
クラリスはしばし言葉を失い、保管庫に満ちる冷たい空気の中で、ゆっくりと視線を落とした。
彼女の目が向いた先は、アリスの手の中にある剣――その柄だった。
淡い照明を受けて、刻まれた紋様が静かに陰影を帯び、まるで呼吸するかのように微細な光を返している。
「……映像の中で、レティシアが握っていた剣と……今、あなたが持っているこの剣」
クラリスは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「柄の部分が、違っていたのよね?」
アリスは小さく、しかしはっきりとうなずいた。
視線は剣から逸らさず、確信を込めて答える。
「うん。そこだけは、はっきり覚えてる。形も、装飾も……同じじゃなかった」
クラリスは腕を組み、思案するように眉を寄せた。
保管庫の静寂の中で、彼女の声だけが低く響く。
「でも――もし、石碑が見せた映像だとするなら……」
一拍置き、慎重に言葉を重ねる。
「極限状態だったあなたが、あの場で使っていた剣が、本当に“一般兵のもの”だったと断言できるかしら」
アリスは、はっと目を瞬かせた。
「生き残るために、なりふり構わず掴んだ武器。包囲され、魔力も尽き、仲間も傷つき……そんな状況で、拾った剣の細部や意匠まで、正確に把握する余裕があったと思う?」
問いかける声音は穏やかだった。
だが、その眼差しは揺るぎなく、研究者として、そして理解者としての真剣さを帯びていた。
アリスは口を開きかけ――言葉を失った。
喉の奥で、何かが引っかかる。
確かに。
あの極限の戦場で、剣の柄の形状や装飾まで意識していたかと問われれば、自信を持って肯定することはできない。
あのとき支配していたのは、生きるか死ぬかという感覚だけだった。
やがてクラリスは、ふっと小さく息を吐き、腕を解いた。
そして改めて、アリスの方を見つめる。
「それは……記録じゃない」
静かに、しかしはっきりと。
「きっと“伝承”でもない」
一語一語、噛みしめるように続ける。
「レティシアたちが本当に生きた、真実の戦いの記憶……そして、それが“あなたにだけ”届いた」
クラリスは、穏やかながら確信に満ちた声音で言葉を結んだ。
「特別な記憶なのね」
(――あなたにだけ届いた、特別な記憶なのね――)
その一言が、アリスの胸の奥で静かに反響した。
映像と現実の齟齬。
断片的な記憶。
そして、今この手の中にある剣。
それらが、ばらばらだったはずなのに――
見えない一本の糸で、少しずつ結ばれていくような感覚。
アリスは剣を見つめたまま、小さく息を吐いた。
掌に伝わる脈動は、変わらず規則正しい。
「……この剣と、私が見た記憶」
静かに言葉を紡ぐ。
「全部、つながってる気がする」
一度言葉を切り、ゆっくりと続ける。
「まだ全部はわからない。でも……きっと、この剣には何かが刻まれてる。あの時代の、あの戦いの……真実が」
声はかすかに震えていた。
だが、その瞳には迷いはなかった。
「だからこそ……私は、この剣のことを、もう少しちゃんと知らなきゃいけないって思ったの」
そして、最後に。
「……たとえ、その真実が」
一瞬だけ、呼吸が詰まる。
「私を傷つけるものだったとしても」
保管庫の冷たい空気の中で、剣は青白い光をわずかに瞬かせながら、主の覚悟に応えるかのように、静かに脈動していた。




