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第六部 第三章 第12話

 ロングソードを携えたまま、アリスは駐屯地の指揮テントへと戻ってきた。

 厚布で覆われたテントの入口をくぐった瞬間、内部に満ちていた張り詰めた空気が肌にまとわりつく。

 兵士や解析班、護衛騎士たちは誰一人として視線を逸らさず、アリスと、その背に負われた剣の存在を凝視していた。

 囁き声すら交わされず、布越しに外の風音が微かに揺れるだけの静寂が支配している。


 クラリスは席に着くや否や、間を置かずに簡易観測装置を展開した。

 携行用とは思えぬ精密な魔導装置が卓上で組み上がり、水晶盤の表面に複雑な術式が走る。

 淡い青白い光が剣の表面をなぞるように流れ、刀身に刻まれた微細な紋様と干渉しながら、魔力の流れを読み取っていく。

 照射される光の中で、剣の刃にはごくわずかな脈動が走り、まるで生き物が静かに呼吸しているかのように見えた。


 魔導針が甲高い音を立てて振れ、数値は安定する気配もなく乱高下する。

 計測盤に映し出された符号が次々と書き換えられ、補助員が思わず声を上げた。


「数値が安定しません! 魔力密度、基準値を大幅に超過しています!」


 だがクラリスは眉一つ動かさず、淡々と水晶盤を注視し続けていた。

 彼女の指先が符丁を刻むたび、観測装置の出力が微調整され、乱れていた光の流れが少しずつ整っていく。

 数秒後――先ほどまで激しく上下していた魔導針の振れ幅は次第に収束し、やがて一本の細い線を描くように静止した。


 クラリスは小さく息を吐き、記録盤を確認してから、落ち着いた声で口を開く。


「……判明したわ。この剣、アリスの半径およそ五十センチメートル以内に存在している限り、形状も重量も安定して変化しない」


 その一言が落とされた瞬間、テント内の空気がさらに濃く、重くなる。

 誰もが無意識に息を詰め、言葉の意味を反芻していた。


 アリスは剣を握りしめたまま視線を落とし、低く呟く。


「つまり……私の魔力圏の外に出ると、元の異形の剣に戻るってことね」


 クラリスは静かに頷き、淡い光を反射する瞳でアリスを見つめ返した。


「ええ。その状態では、誰であっても干渉できない。封印と防衛が一体化した機構と考えていいわ。持ち主以外を完全に拒絶するための、自己保全機能ね」


 言葉が放たれると同時に、テント内の数名の隊員がざわめく。

 魔導兵装部隊のナディアが腕を組み、眉をひそめたまま低く唸る。


「……つまり、アリス以外が持ち出そうとした瞬間、再び“怪物の武器”に戻るってことか。しかも、あの状態では物理的にも魔術的にも手が出せない」


 再び沈黙が落ちた。

 誰もがその結論の重さを理解し、軽々しく口を開くことができなかった。


 アリスは剣の柄を強く握り直し、掌に伝わる鼓動を確かめるようにそっと目を閉じる。

 冷たい金属のはずの感触の奥で、ズン、ズン、と微かな脈動が規則正しく響いていた。

 それは、彼女自身の心臓の鼓動と、不思議なほど同調している。


(……私の手から離れたら、誰も近づけなくなる……。なら、この剣に伴う責任も、私が背負うしかない)


 クラリスの言葉を受けて、アリスは静かにうなずいた。

 その瞳には、もはや迷いはない。

 彼女は改めて剣の柄をぎゅっと握り直す。


 金属の冷たさが皮膚を通して伝わるはずなのに、その下に宿る脈動は、どこか温もりを帯びていた。

 掌に響くその感触は、まるで自分の血流と呼応するかのように身体の奥へ染み込んでいく。


(……これは、ただの金属じゃない。私に応えてる……私を識別している)


 アリスは胸の内でそう呟き、無意識のうちに肩に力がこもるのを感じていた。

 握り込む指先には、冷たい硬質感と、確かな“生の気配”が同時に存在している。

 その事実が、彼女にこの剣の重さと意味を、静かに、しかし確実に突きつけていた。


 疑う余地はなかった――この剣は彼女にしか扱えない、“選定された武具”。

 誰の手も拒み、誰の魔力にも応えず、ただアリスの魔力と意志にのみ呼応して姿と性質を変える存在。

 その事実を疑念ではなく確信として悟った瞬間、アリスは無意識のうちに背筋を伸ばし、胸の奥で乱れかけていた呼吸を整えていた。

 逃げ場のない重みを伴う現実を、正面から受け止めるための、静かな所作だった。


 周囲では、クラリスも、セシリアも、護衛騎士たちも言葉を飲み込んだまま、アリスの立ち姿を見守っていた。

 誰も口を開かない。

 誰も視線を逸らさない。

 緊張と畏怖、そして説明のつかない予感が入り混じる沈黙の中で、アリスだけが静かに剣を携え、その重さを己の責務として受け入れていた。


 その様子を、少し距離を置いた位置から、ティアナ、セシリア、そして魔導兵装部隊の面々が注視していた。

 テント内に広がる空気は重苦しく、紙一枚落としただけでも響くのではないかと思えるほど張り詰めている。

 誰もが無意識に呼吸を浅くし、言葉を発することそのものを躊躇うように息を呑んでいた。


 ティアナは腕を組み、眉間に深く皺を寄せたまま、鋭い眼差しを剣へと注ぐ。

 その視線は冷徹な分析者のものだったが、奥底には、否定しきれない畏怖の色が滲んでいた。


「……不思議な剣ですね」

「外見はただのロングソードに見えるのに、あれほど明確な拒絶反応を示すとは」


 低く吐き出された言葉は、場の緊張を和らげることはなく、むしろ沈黙にさらに重さを加えた。


 セシリアは静かに首を振り、視線を剣から外さぬまま落ち着いた声で応じる。


「魔導兵装で計測した際も、あの剣の魔力圧は常識の範囲を完全に逸脱していました」

「アリスさんにしか応じないのだとしたら……まさに専用の神器と見るべきでしょう」


 冷静な分析に基づいた口調だったが、その瞳の奥には、未知の存在を前にした指揮官としての戸惑いが隠し切れていなかった。


 魔導兵装部隊のナディアは、重装甲越しに肩をわずかに震わせ、小さく息を漏らす。


「……生きてるみたいだった」

「触れた瞬間、睨まれたって言ったら笑われるかもしれないが……完全に“意思”があった」


 戦場で鍛え抜かれた兵士の声だったが、その端々には、恐怖と驚嘆が入り混じっていた。


 その視線を一身に受け、アリスはほんのわずかに苦笑する。

 唇は僅かに震えていたが、握り直した剣の柄は微塵も揺らがなかった。

 彼女は背を向けることなく、全員を正面から見渡し、静かに言葉を返す。


「正直に言うと……私自身も、まだ全部はわかってない」

「でも――選ばれた、って感覚だけはあるわ」


 その一言が落ちた瞬間、空気はさらに重く沈んだ。

 誰もが言葉を失い、ただ“選ばれた”という響きを胸の奥で反芻する。

 それは畏怖か、敬意か、それとも不吉な予兆か。

 沈黙は深く、剣の存在と同じほど濃い影を、彼らの心に刻み込んでいった。


 クラリスは記録装置に追記しながら、確かな声音で告げる。


「今後の解析対象として、この剣は学院の保管庫には入れられないわ」

「少なくとも現時点では、アリスの手元にあることが唯一の“安定条件”よ」


 ティアナもそれに同意し、口元にわずかな笑みを浮かべる。


「気をつけて運用してちょうだい」

「下手をすれば、その剣があなたごと周囲を吹き飛ばしかねない」


「ええ、慎重に扱います」


 短いやり取りののち、アリスは一拍の間を置いてから、慎重に提案した。


「念のため……他の人でも、直接手渡しなら干渉できるか」

「試してみましょう」


 全員が息を呑み、空気がさらに張り詰める。

 剣は屋外へ移され、再び観測体制が整えられた。

 解析班が魔導計測器を再起動させ、光学式の波形表示が次々と点灯する。

 護衛騎士たちは半円状に布陣し、槍と盾を構えたまま一瞬たりとも視線を逸らさない。


 アリスは剣を軽く構え直し、その重みを確かめると、魔導兵装部隊のミリエルに視線を送った。


「試してみて」

「直接手渡しなら……どうかしら」


 ミリエルの喉が小さく鳴る。

 額には薄く汗が浮かび、重装甲の手甲越しに震えを抑えながら、一歩前へ踏み出した。

 仲間たちの視線が一斉に集まり、解析班も固唾をのんで見守る。


 ミリエルの指先が柄へと触れかけた、その瞬間。

 剣がぶわりと生き物のように脈打ち、眩い光が一気に溢れ出した。

 ロングソードの形状は一拍の猶予もなく膨張し、瞬く間に巨大な包丁型の異形へと変貌する。

 刃が伸びると同時に空気が低く唸り、光の残滓が地面を走った。


 ドンッ!


 強烈な魔力の反発波が炸裂し、爆風のような衝撃が周囲を薙ぎ払う。

 ミリエルの手は弾かれ、鎧越しに衝撃を受けた腕が痺れる。


「っ……!」

「拒絶反応……!?」


 身体は大きくよろめき、倒れかけたところを仲間二人が即座に支える。

 防護障壁が展開され、閃光の余波はかろうじて抑え込まれた。


 剣は地面へ落下し、ゴウン……と鈍重な音を響かせながら土を深く抉る。

 小石と枯れ枝が跳ね、砂煙が静寂の中でゆっくりと舞い上がった。


 突き立った異形の剣は、ただ存在するだけで周囲の空気を圧迫し、誰一人として容易に近づくことを許さない。

 それはまるで、目に見えぬ結界そのものだった。


 アリスが静かに歩み寄る。

 周囲の視線が一斉に集まり、緊張は極限まで高まる。

 ためらいなく伸ばされた彼女の手が、剣の柄へと置かれた瞬間。


 荒々しかった光は嘘のように収まり、波動は静かに沈降していく。

 異形の巨躯は凝縮され、やがて一振りのロングソードへと姿を整えた。

 重圧は消え、代わりにアリスの体格にぴたりと寄り添う、調和のとれた重量だけが残る。


「やっぱり……」

「この剣は、私にしか応えない」


 アリスは小さく呟き、剣を抱え直した。

 その眼差しには、もはや迷いはなかった。

 まるでこの瞬間から、自らの運命を引き受ける覚悟を示すかのように。


 その後、撤収作業は粛々と、しかし一切の無駄なく進められていった。

 解析機材は担当ごとに役割分担され、順序を誤ることなく解体されていく。

 水晶盤を備えた観測装置は魔力遮断布で包まれ、各種端末や測定結晶は防震用の専用ケースへと慎重に収められた。

 魔導兵装部隊の隊員たちは手慣れた動きで設営資材を畳み、符術固定具を解除しながらも周囲への警戒を一切怠らない。

 護衛騎士たちは剣を帯びたまま周囲を睨み、車両への搬入を補助しつつ、視線だけは常に森の奥へと向け続けていた。


 荷台には淡く光を放つ封印箱や記録媒体が次々と積み込まれていく。

 短時間の滞在でありながら、そこには長期任務の撤収にも似た、張り詰めた整然さが漂っていた。


 全機材と人員は速やかに特殊装甲魔導車両へ収容され、指揮系統の最終確認が再度行われる。

 符術担当が合図を送り、各車両の魔導結界が低く唸りを上げて起動した。


 アリスの傍らにある剣は、その特異性ゆえに即席ながらも専用の固定具が新たに組まれ、彼女の膝元へと慎重に据えられる。

 硬質の金属バンドと魔導拘束具が幾重にも重ねられ、車体の揺れや衝撃にも微動だにしないよう細かく調整された。

 それでも、完全に「封じた」と言い切れない緊張が、誰の胸にも残っている。


 護衛騎士たちは自然とアリスを中心に陣形を取り、車両内部でも彼女を囲む配置についた。

 その眼差しは一様に険しく、剣を守ると同時に、それを携える少女そのものを守ろうとする無言の意思が宿っている。

 車列全体もまた緊張を保ったまま進発準備を整え、周囲には目に見えぬ警戒網が張り巡らされた。

 斥候班は森の外縁を先行し、後衛は振り返るたびに武器を構え、何かが現れる可能性を想定し続けている。


 夕刻を回り、森に長い影が差し込み始めた。

 赤みを帯びた陽光が木々の隙間から斜めに射し込み、地面にはまだらな光と影の模様が刻まれていく。

 その光景は本来なら息を呑むほど美しいはずだった。

 だが誰一人として、その美しさを素直に受け取ることはできなかった。

 まるでこの森そのものが彼らの動向を見下ろし、試すかのように、目に見えぬ圧迫感が空気に溶け込んでいる。


 一行はついに石碑遺構を後にし、整然とした列を保ったまま王立魔導学院への帰還の途についた。

 馬の嘶き、車輪が土を噛む音、装甲が軋む低い振動。

 それらだけが、静まり返った森に淡々と響いていく。


 車窓の外に広がる景色は、一見すれば穏やかそのものだった。

 揺れる梢、夕焼けに染まる鳥の影、風に靡く草原の端。

 だがその奥底には、なお不可視の気配が蠢き、完全には消え去らない不安の残滓を確かに残している。


 アリスは膝元に固定された剣へと、そっと手を伸ばした。

 指先で柄をなぞると、冷たい金属の感触の奥から、微かな脈動がじんわりと掌へ伝わってくる。

 それは、周囲の誰にも感じ取れない、彼女だけに向けられた反応だった。


 アリスは小さく息を吸い、誰にも聞こえないほど低く呟く。


「……大丈夫。ちゃんと、連れて帰るから」


 その言葉に応えるかのように、剣の脈動が一瞬だけ強まった気がした。

 まるで彼女にだけ、静かに同意を返しているかのように。


 アリスは視線を落とし、心の奥底で改めて誓う。


(……運命の断片)

(これは、私の手で守らなければならない)


 夕暮れの光に照らされたその横顔には、もはや少女のあどけなさは薄れつつあった。

 そこにあるのは、選ばれた者としての自覚と、逃げないと決めた者だけが宿す、静かで揺るがぬ意志だった。

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