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第六部 第三章 第10話

 護衛騎士たちは即座に動き、アリスを中心とした撤収態勢を整えた。

 前衛の二名が左右に並び、常に彼女の死角を塞ぐ位置を取る。

 足取りは慎重だが迷いはなく、盾と剣の角度はわずかに内側へと傾けられていた。


 後衛は一歩距離を保ちながら周囲に目を光らせ、霧の奥や木立の陰、足元の起伏に至るまで警戒を怠らない。

 隊列は自然と半円を描き、まるで厚い盾に幾重にも包まれるように、アリスはその中心で守られていた。


 鎧の擦れる低い音と、緊張を抑えた呼吸音だけが静かな森に溶けていく。


 アリスの腰には、貸与されている軍用の魔導剣が確かに佩かれていた。

 歩くたびに伝わるその重みが、現実の感触として身体に訴えかけてくる。


(……戻ってきた。今は、現実にいる)


 胸の内でそう確かめるように、彼女は無意識に背筋を正した。


 一方で――

 石碑の前には、異形の剣がなおも深く突き立ったまま残されていた。


 青白い残光はすでに失われ、光も音もない。

 だが、ただそこに「在る」だけで、周囲の空気を押し潰すような威圧感を放っている。


 霧がその刃を撫でるたび、まるで拒絶されているかのように流れが歪み、誰一人として近づこうとはしなかった。


「……近寄るな。視線だけでいい」


 前衛の騎士が低く告げ、後衛が短く応じる。


「了解。異常反応、なし……だが、嫌な感じだ」


 魔導兵装部隊は即座に機材班と連携し、撤収作業へと移行していた。

 展開されていた観測機器や測定装置が、一つずつ確実に畳み込まれていく。


 大型の魔力増幅アンテナは駆動音を抑えながら展開脚を縮め、

 結界測定器は最後の警告音を止めたのち、防護ケースへと慎重に収められた。


 兵装《G-M19/EX》は外装を再調整し、

 戦闘モードから護衛モードへと切り替わる。


 外殻を走っていた攻撃用術式の光が減衰し、代わりに防御と索敵に特化した淡い輝きが定着する。


 ナディアの低い声が短く飛んだ。


「周囲警戒、継続。機材班、急がなくていい。確実に」


「了解」


 兵装部隊は円陣を保ち、撤収作業そのものを守る壁となる。

 誰もが視線の端で、なおも石碑前に突き立つ異形の剣を捉え続けていた。


 それは沈黙している。

 だが、沈黙しているからこそ――

 その存在は、より強く意識に残り続けていた。



 テントの内部では、解析班の面々が慌ただしく動き回っていた。

 魔導ランプの淡い光が揺れ、壁面に投影された影がせわしなく行き交う。


 机の上には未整理のデータログが山のように積み上がり、結晶端末や記録媒体が乱雑に並んでいる。

 解析途中で切り捨てれば、二度と再現できない現象の痕跡が失われてしまう。

 誰もがそれを理解していたからこそ、動きは速く、しかし慎重だった。


 フィレルは指先の震えを抑えきれないまま、ハードユニットを両手で抱え、保護ケースへと押し込む。

 留め具を確かめる音が、やけに大きく響いた。


「……頼む、無事でいてくれよ」


 独り言のような呟きが漏れる。


 カース中尉は隣で、束ねられたケーブルを一気に引き抜き、素早くまとめていく。

 額には汗が滲み、眼鏡の奥の視線は終始モニターの数値を追っていた。


「位相ログと空間干渉データは最優先だ。欠損があれば、解析は最初からやり直しになる」


 短く、しかし切迫した声だった。


 ディルヴィンは無言のまま、魔力結晶体を両手で包み込むように持ち上げる。

 結晶の内部では、まだ微かな残光が脈打っており、それが消えぬうちにと、慎重に封印容器へと納めた。


「……この量だ。徹夜になるな」


 低く漏れた呟きに、誰も否定しなかった。


 テントの外では、森が急速に夕暮れの色を濃くしていた。

 空は赤みを失い、灰色へと沈み込む。


 鳥のさえずりはいつの間にか途絶え、代わりに支配するのは、耳鳴りを誘うほどの静寂だった。


 時折、冷たい風が吹き抜け、枝葉をざわりと揺らす。

 そのたびに、護衛騎士たちは条件反射のように剣や槍を構え直す。


 視線は霧の奥、木立の影、地面の起伏へと鋭く走り、そこに何もいないと分かっていても、警戒は決して緩められなかった。


「……異常なし」


「了解。引き続き警戒を」


 短いやり取りだけが、静けさを切り裂く。


 その中で、アリスは足を止めた。

 腰に佩いた魔導剣の重みを確かめるように感じながら、ゆっくりと振り返る。


 視線の先――

 石碑の前には、回収されぬまま、巨大な剣が突き立っていた。


 光はない。

 音もない。


 それでも、その存在だけが異様に際立ち、周囲の空気を歪めている。


 まるでそこが「空白」ではなく、「次の頁」なのだと示すかのように。


(……まだ、終わっていない)


 言葉にはせず、アリスはそう感じ取った。


 回収されず、封印もされず、ただ置き去りにされたその剣は、

 まるで――

 “次の機会”を、静かに待っている存在のように、夕暮れの森の中で、動かずに佇んでいた。


 やがて、すべての機材が回収されると、撤収を告げる短い合図が静かに響いた。

 金属製の留め具が外され、折り畳まれた器材が次々と運搬用ケースに収められていく。


 観測器材も、仮設テントも、魔導ランプも片付けられ、つい先ほどまで張り巡らされていた解析と警戒のための人工的な構造物は、跡形もなく姿を消していった。


 森は、ゆっくりと本来の静けさを取り戻していく。

 風が枝葉を揺らす音と、遠くで軋む木の軋音だけが、薄闇の中に溶けていった。


 しかし――

 部隊は、帰路につくことはなかった。


 視線の先。

 石碑の前には、なおも地面に突き立ったままの剣が残されている。


 青白い光はすでに完全に失われている。

 だが、その異様な存在感だけは、まったく薄れていなかった。


 むしろ、夕暮れの影が深まるにつれ、その剣は森の闇を引き寄せるかのように、不気味さを増していく。


 護衛騎士たちは陣形を崩さず、剣を中心に半円状の警戒線を維持していた。

 剣と剣、盾と盾の間隔は正確に保たれ、誰一人として無駄な動きはしない。


 視線は常に剣とその周囲、そして霧の奥へ。

 何も起きていないにもかかわらず、「何かが起きる」という確信だけが、全員の背筋を縛っていた。


 魔導兵装部隊もまた、戦闘モードを解除していなかった。

 重装外殻の内部で魔力炉が低く唸り、兵装《G-M19/EX》の各部が待機状態のまま、臨界出力を維持している。


 いつでも展開できる。

 いつでも迎撃できる。


 その覚悟が、兵装の静止した姿勢そのものに刻まれていた。


 解析班はすでに大型機材を撤収していたが、手元の記録端末だけは誰一人として手放していない。


 画面には、ほぼ変化のない魔力波形が映し出されている。

 だが、その「変化のなさ」こそが、異常だった。


「……まだ、完全には沈黙していない」


 誰ともなく、低い声が漏れる。


 その場で、クラリスが小さく息を吐き、低く呟いた。


「……次は、剣そのものの回収ね」


 独り言に近い声音だったが、そこに含まれた意味は重い。


 セシリアはその言葉に視線を向けることなく、ただ一度だけ、短く頷いた。


 肯定でもあり、覚悟の表明でもあった。


 調査隊の撤収は、ここで一時中断されたまま。

 命令は出ていない。

 だが、誰一人として不満を口にする者はいなかった。


 森の夕闇に包まれた現場には、異様な緊張と、張り詰めた沈黙が、重く、確かに支配していた。


 ――この場所は、まだ終わっていない。


 その共通認識だけが、言葉にされぬまま、全員の胸に刻まれていた。


 魔方陣が完全に消失したあとも、剣は消えることなく、深々と地面に突き立ったまま、その場に静かに佇んでいた。


 抜け落ちた魔方陣の痕跡が、地面に薄く焦げ跡のような輪を残している。

 その中心に、剣はまるで最初からそこに在ったかのような自然さで存在していた。


 柄の部分からは、かすかな冷気のようなものが漂っている。

 吐く息が白むほどではない。

 だが、皮膚の上を撫でる空気が、確実に温度を失っているのが分かった。


 夕暮れの薄闇に溶け込む剣身は、不気味なほど沈黙している。

 青白い残光はすでに完全に失われ、発光も、魔力の奔流も、視覚的には一切感じられない。


 それでも――

 ただ“存在している”という事実だけで、周囲の空気は目に見えぬ圧を帯びていた。


 兵士たちは知らず知らずのうちに呼吸を浅くし、誰一人として、剣に正面から近づこうとはしない。


 無意識に距離を取ってしまう。

 そうせざるを得ないほどの、異様な威圧感がそこにはあった。


 いかなる接触も拒むその剣に対し、魔導兵装部隊は即座に回収手段の検証と実行に入った。


 まず試みられたのは、簡易的な魔力封鎖布だった。

 術式を織り込んだ布が、慎重に、剣の上から被せられる。


 ――次の瞬間。


 バチッ、と短く乾いた音が弾け、剣に触れた部分から眩い閃光が走った。


 封鎖布は抵抗する間もなく燃え尽き、灰となって空中に散り、地面へと落ちていく。


「封鎖布、消失……!」


 誰かが声を上げる。

 だが、驚きよりも、納得に近い沈黙が場を支配した。


 続いて、強力な転送用魔導錨が展開される。

 地面に術式杭を打ち込み、空間ごと剣を固定し、強制転送を行うための装置だった。


 術式が発動した、その瞬間。


 魔力の流れが逆転し、術者の詠唱回路へと一気に逆流する。


「うわっ……!」


 悲鳴とともに術者が後退し、護衛騎士が即座に支えに入る。


 転送術式は完全に崩壊し、術式杭は地面から弾き飛ばされ、無力な金属片と化した。


「……転送、拒否。

 いや、拒否というより……反発、ですね」


 低く分析する声が漏れる。


 さらに、重機に相当する魔導アームが展開された。

 分厚い装甲板で構成されたマニピュレーターが、軋む音を立てながらゆっくりと剣へと迫る。


 慎重すぎるほど慎重に。

 まるで触れてはならないものに手を伸ばすかのように。


 ――だが。


 柄の部分に、わずかに触れた瞬間。


 キィィィィ……ッ、と甲高い軋み音が響いた。


 次の瞬間。

 魔導アーム全体が大きく歪み、衝撃とともに弾き飛ばされる。


 数百キロの重量を誇る鉄塊が、まるで紙細工のように宙を舞い、地面へと叩きつけられた。


 その光景に、周囲の騎士たちは言葉を失い、ただ息を呑む。


 誰もが理解した。

 ――力の問題ではない。

 ――技術の問題でもない。


 この剣は、他者の干渉そのものを、完全に拒絶している。


 その場に、クラリスが静かに歩み出る。

 魔力測定器を手に、剣との距離を慎重に測りながら。


 針は、近づくごとに激しく震え、ついには限界を超えて振り切れたまま戻らなくなった。


「……やはり」


 クラリスは低く息を吐き、静かに言葉を続ける。


「他者の干渉は、一切受け付けないようですね」


 測定器を下ろし、剣を見据えるその瞳には、驚きではなく、冷静な確信が宿っていた。


「これは“物”ではありません。

 存在そのものが、選別機構として機能している……

 そう考えるべきでしょう」


 その言葉に、誰も反論を口にすることはできなかった。


 剣は、沈黙したまま。

 だが確かに、そこに在り続けていた。

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