第六部 第一章 第4話
学院内の一室に設けられた臨時捜査室。
白壁にはまだ学院の静謐な気配が色濃く残っているが、並べられた机と椅子はすでに騎士団仕様へと組み直され、余計な調度はすべて取り払われていた。
床に敷かれた石畳は磨かれて光沢を放っているが、その輝きさえ今は冷たい。
戦場の前線拠点としての緊張感がこの狭い空間を支配し、ただの学舎の一室であったことを忘れさせていた。
壁面には大陸全図が掲げられ、赤い印がいくつも打ち込まれている。
そこには湿地帯、遺跡群、森、峡谷……点在する異変の痕跡が連なり、まるで見えざる糸で結ばれているかのようだった。
対面の壁には魔力反応を映し出す水晶板が設置され、淡く青い光の粒子が揺れている。
その光は呼吸を合わせるように明滅し、室内の静謐さに逆に重圧を加えていた。
窓から射し込む午後の光は斜めに伸び、長机に並ぶ書類の上に濃淡の影を描き出す。
淡い埃が光の帯の中を漂い、時折わずかに揺れては消える。
――ここはもう学院の一室ではない。
完全に軍の拠点であり、前線司令部の空気そのものだった。
ティアナ・レイス・ロアウは、重厚な扉を静かに閉じると、硬い革靴の音を響かせながら中央の長机へと歩を進める。
一歩ごとに石床が低く鳴り、音は壁に反響して空気を震わせた。
部屋にいた者たちはその響きだけで彼女が誰であるかを悟り、背筋を正す。
ティアナは席に着き、白銀のマントを外した。
鎧を脱いでなお、その姿勢からは軍務の重責を背負う指揮官の威厳が滲み出ていた。
直後、一人の女性騎士が音もなく歩み寄った。
磨き上げられた床石を踏む足取りは軽く、だが一切の無駄がない。
両手に掲げた茶杯からは、湯気とともにふわりと淡い香りが立ちのぼり、張り詰めていた室内の空気に、ほんのわずかな柔らかさを滲ませた。
「お茶をどうぞ、閣下。ローズグラスを主体に、フェルハーブをほんの少しだけ加えています。長時間の移動と儀礼で、喉と神経が張っている頃かと」
やわらかな声音でそう告げたのは、金褐色の髪をひとつに結んだセシリア・グレオール准尉だった。
白銀の鎧ではなく、実務用の軽装に身を包みながらも、その背筋は寸分の乱れもない。
ティアナの直属補佐であり護衛責任者のひとり。
だが彼女の役割は、単なる随伴や警護に留まらない。
作戦立案の補佐、調査結果の裏取り、情報の真偽判定と整理。
現場と司令部を繋ぐ“頭脳”として、騎士団の中枢を支える存在だった。
差し出された茶杯の表面で、淡い湯気が揺れる。
その香りは主張しすぎることなく、しかし確かに「緊張を解くために選ばれた」ものだと伝えてきた。
その少し後方。
短く切り揃えられた黒髪と、鋭く研ぎ澄まされた眼差しを持つ女性が控えている。
レイラ・アスコット少尉。
ティアナ騎士団の実戦指揮官のひとりにして、最前線を任される剣士。
「ブラッディ・ローズ」の異名を持つ彼女は、腕を組み、地図に視線を据えたまま、まるで彫像のように動かない。
その沈黙は緩みではなく、完全な警戒だった。
ここに隙はない――そう無言で示す存在感が、空気の奥に張り付いている。
「ありがと、セシリア。……正直、助かったわ。やっと肩の力が抜けた。儀礼口調って、どうしてああも背中が凝るのかしら。笑顔を作る筋肉まで命令されてる気分になるのよね」
ティアナは茶杯を受け取り、ほんのわずかに目を細めて笑みをこぼした。
その表情は、先ほどまでの公的な場で見せていた硬質な威厳とは異なり、年相応の疲れと安堵を滲ませている。
声の調子も自然と柔らぎ、室内を覆っていた張り詰めた空気が、わずかに解けた。
セシリアはその変化を見逃さず、苦笑混じりに肩をすくめる。
「公の場に出て数分でこの調子では、先が思いやられますね。学院側との折衝も、王都への報告も、まだ始まったばかりですから」
「いっそ、公女殿下としての完璧な言葉遣いを徹底されてみては。姿勢も声量も、さらに美しく整いますよ」
冗談を装った声音だったが、その中には、彼女なりの気遣いと現実的な助言が混じっていた。
「やめて。それを本気でやったら、私たぶん喉が先に枯れるわ。……それに、あなたまで畏まったら、本当に逃げ場がなくなるじゃない」
ティアナはそう言って小さく首を振り、茶を一口含んだ。
温かな液体が喉をすべり落ち、張り詰めていた身体の芯を、内側からじんわりと解きほぐしていく。
「でも……本音を言えば、セシリアがいてくれるから安心できるのよ。場を整えて、言うべきことと黙るべきことを分けてくれる。レイラは……寡黙だけど、いつも通りそこに立っていてくれるだけで安心するわ」
名を呼ばれたレイラは、ほんの一瞬だけ瞬きをした。
「しゃべらないわけではないぞ。必要なときは、口も剣も出す」
短く、切り捨てるような言葉。
だがそこには、不快も拒絶もなく、淡々とした事実だけがあった。
その瞬間、ティアナは目を丸くし、わざと大げさに肩を揺らす。
「おや、レイラがしゃべった。これは記録しておくべきね。今日はいろんな意味で天変地異だわ」
セシリアは思わず吹き出しかけ、慌てて手で口元を押さえた。
「次は雪でも降るんじゃないかと、少し期待してしまいますね」
レイラはわずかに眉をひそめたが、その口元には、ごくかすかな笑みの影が浮かんでいた。
それは戦場では決して見せない、ほんの一瞬の緩みだった。
――この三人でいるときだけに流れる、穏やかで柔らかな空気。
剣も命令も不要な、信頼だけで成立する静かな時間が、臨時捜査室の一角に確かに存在していた。
しかし、ティアナの指先が報告書の端を捉え、紙を一枚めくった瞬間、その場に残っていた和やかさは、まるで冷水を浴びせられたかのように霧散した。
空気がわずかに張りつめ、室内の温度が一段低くなったように感じられる。
それは誰かが声を荒げたからでも、剣を抜いたからでもない。
ただ、彼女の意識が完全に“軍務”へと切り替わった――その気配だけで、場は静まり返った。
湿地帯での《バロール・ビースト》亜種出現。
学院演習班との遭遇、即時交戦、撃退。
そして現地に残された、通常の魔獣反応を明らかに逸脱した異常高濃度の魔力残滓。
一行ごとに視線を落とすたび、ティアナの碧眼は鋭さを増していく。
先ほどまでの柔らかな笑みは影も形もなく、そこにあるのは、数多の戦場を見てきた指揮官の冷静な目だけだった。
「……やっぱり、偶然じゃないわね。出現地点、魔力濃度、発生のタイミング、どれを取っても不自然すぎる。自然発生や突然変異で片づけるには、条件が揃いすぎているし、何より“こちらの行動を読んだかのような間”がある」
低く抑えた声が、机上の資料をなぞるように落ちる。
その一言だけで、部屋にいる全員が“これは単なる調査では終わらない”と悟った。
セシリアは小さく頷き、すでに次の資料を引き寄せている。
指先は素早く、だが無駄なく紙を繰り、必要な箇所だけを正確に拾い上げていた。
レイラは一言も発さず、地図に視線を据えたまま、赤い印と印の距離、配置、重なりを無言で追っている。
「王国を試す者がいる……あるいは、もっと悪い場合、すでに“この地”を選び、舞台を整え終えた者がいる可能性もある。どちらにしても、相手は私たちの反応を見ている。動員の速さ、判断の重さ、そして――どこまで踏み込んでくるかを」
その声音は独白に近い。
だが、刃のような鋭さを帯び、場の空気を貫いていた。
ティアナの視線が、自然と地図の南東端へと移る。
《ミラージュの古代遺跡》。
幾度となく異変の中心となりながら、未だ完全な解明には至っていない場所。
「……そういえば、あそこも最近、不可解な動きが報告されていたわね」
低く、思案するような声。
「遺跡周辺で断続的に観測された魔力の揺らぎ。感知範囲外から聞こえたという“歌声”の報告。そして――局地的に確認された、通常個体とは明らかに異なる《バロール・ビースト》の亜種反応」
指先が地図の縁をなぞる。
「単独では小規模と判断され、別件として扱われていたけれど……今こうして並べてみると、点と点が繋がりすぎている。歌声、古代遺跡、バロール・ビースト亜種。いずれも過去の事例と一致しているわ」
茶杯を置く音が、石畳に反響した。
普段なら気にも留めないほどの小さな音が、今は妙に大きく、重く響く。
「違う場所、違う出来事……でも線で結べば、はっきりと“作為”の匂いがする。まるでこちらの警戒線をなぞるように、少しずつ、しかし確実に踏み込んできている」
視線が地図全体を俯瞰する。
「――誰かが、私たちを“試している”のよ。学院の対応、王国の反応、そして……どこまで踏み込めば、こちらが本気で動くのかを」
その言葉に、セシリアは即座に反応した。
別の資料を引き寄せ、ページを繰りながら、短く息を吐く。
「ミラージュの古代遺跡で確認された歌声と、今回の学院演習区域での証言……音の性質、発生タイミング、精神への影響が酷似しています。偶然と切り捨てるには、共通点が多すぎますね」
資料を閉じ、静かに言い切る。
「――同一系統の事象。もしくは、同じ“手口”です」
セシリアの言葉が室内に静かに沈んだあと、臨時捜査室には一瞬の空白が生まれた。
誰もが地図と報告書に意識を向けたまま、次の判断を待つ沈黙。
だがその沈黙の底で、ティアナだけが、別の方向へと意識を引き寄せられていた。
論理としては、すでに線は引けている。
歌声、古代遺跡、バロール・ビースト亜種。
王国を試すように配置された事象の連なり――そこまでは、指揮官として理解できる。
それでもなお。
理屈では説明できない“引っ掛かり”が、胸の奥に残っていた。
作為の中心を思考で追うほど、逆に、ひとつの「顔」が意識に浮かび上がってくる。
報告書にも地図にも記されていないはずの、ほんの一瞬の記憶。
そして――
――そのときだった。
ティアナの脳裏に、ふいに別の光景が割り込む。
魔導車を降り立った直後。
剣礼に包まれた荘厳な空気の中で、視線の端に映った一人の少女。
群衆からわずかに外れ、学院の段差の上に立ち、こちらを真っ直ぐに見ていた姿。
(……あの子)
名も、立場も、その場では分からなかった。
だが、ほんの一瞬、視線が交わっただけで、胸の奥に引っかかるものがあった。
透明感を湛えながらも、深い影を抱え込む眼差し。
強靭さと脆さという、相反する性質を同時に宿した瞳。
(おかしいわね。初めて見る顔のはずなのに……)
記憶を辿っても、思い当たる人物はいない。
血縁にも、過去の戦友にも、部下にも該当しない。
それでも胸の奥にざわめきが広がり、理由のない既視感が心を揺さぶった。
それは祖先の記録や、古の英雄譚に触れたときに覚える感覚に、どこか似ている。
自分には届かないはずの“記憶”を、なぜか呼び覚まされたような、不思議な錯覚。
(……誰かに似ている? それとも、ただの思い過ごし?)
茶杯の表面で揺れる湯気が、まるで思考の揺らぎをなぞるかのように震える。
ティアナは瞼を伏せ、その違和感を押し流すように、ゆっくりと茶を喉へと流し込んだ。
だが、胸の奥のざわめきは消えない。
“あの眼差しを、どこかで知っている”――理屈に合わない囁きが、薄い霞のように意識の奥でくすぶり続けていた。
やがて、報告書を携えたセシリアが席へ戻ったことで、思考は現実へと引き戻される。
ティアナは深く息を吸い込み、瞳を閉じ、そして静かに開いた。
その表情は再び軍務の顔へと戻り、指揮官としての冷徹さを宿す。
だが胸の奥底にはなお、微かな余韻が残っていた。
――あの眼差しは、決して偶然に現れたものではないのではないか。
そう思わせるほどの強い印象だけが、静かに、しかし確かに、彼女の心に刻まれていた。




