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第五部 第三章 第9話

 森の奥にかすかに響く、複数の足音と魔導機器の作動音――。

 その直前、大気を揺らすような低く重いエンジン音が森を満たしていた。

 魔力を媒介とした振動音は、鳥のさえずりすらかき消し、湿地帯の空気を押し潰すように広がっていく。


 間もなく、学院から派遣された講師陣と医療班を乗せた特殊魔導車が、木々の間を縫うように進み、現場へ滑り込んできた。

 黒鉄色の車体は分厚い装甲と魔力障壁に覆われ、その表面では淡く青い光が脈打つように流れている。

 屋根部に搭載された高感度魔導センサーが回転し、濃密に渦巻く魔力の残滓を次々と数値化していった。


 浮遊式の転移支持台に支えられた車体は、ぬかるむ湿地を水面のように滑り、最後に重々しい音を響かせて静止する。


 ――ギィィン、と金属が解放される甲高い音。


 魔導車の側面装甲が展開し、中から講師陣と医療班が矢継ぎ早に飛び出した。

 先頭に立つ防御術師の講師が即座に術式を展開し、広域結界が戦場を覆う。

 濃い魔力の残滓が押し返され、空気がわずかに軽くなった。


「周囲、異常なし! 敵性反応ゼロ! 魔力濃度、下降を確認!」

「残留干渉あり! だが制御可能圏内だ、進入を許可する!」


 次いで医療班が魔導担架を抱え、治療器具を肩に背負いながら散開する。

 足取りは速く、しかし無駄がない。


「第一区画に重傷者確認! 担架回せ、呼吸と脈を最優先で確保!」

「第二班は軽傷者対応! 止血と魔力循環を同時に処置しろ!」

「治療班、二手に分かれろ! 搬送路を確保しながら進め!」


 声が飛び交い、緊張と規律が同居する空気が戦場を覆った。

 つい先ほどまで混乱と恐怖に支配されていた学院生たちに、その統制された動きはまるで光そのもののように映る。

 絶望しかけていた視線に、ようやく救いが差し込んでいった。


 アリスは一歩下がり、邪魔にならない位置で全体の動きを見渡す。

 胸はまだ速く上下し、魔力を酷使した余韻が全身を微かに震わせていた。

 だが、その瞳だけは冷静で、現場全体を把握するように鋭く光っている。


 担架に乗せられた学院生を診た医療班の一人が、思わず声を上げた。


「……重傷と聞いていたが……外傷がほとんど残っていない。これは……治癒魔法の痕跡だが、《ヒール》の域じゃない……誰がやった?」


 別の治療担当が、焦りを帯びた声で応じる。


「外傷は塞がれているが、出血量が多すぎる。循環が限界だ、補充処置を急げ! 輸血魔導機、設置!」

「了解! 魔導ライン接続、準備入る!」


 魔導器が展開され、薄い水晶板に赤い魔力光が脈打つ。

 空気に緊張が走り、処置は途切れることなく続けられた。


 アリスは小さく息を吐き、何も言わずその様子を見守る。


 (……限界だった。あの場で止血までが精一杯。後は……任せるしかない)


 そう心の中で呟きながら、無意識に握りしめた拳に力がこもる。

 指先が白くなるのを、自分でも自覚していた。


 その時、傍らでレティアのまぶたが、ふたたびゆっくりと開いた。


「……う、ん……」


 かすかな声。


「レティア!」


 駆け寄ったアリスの声に、わずかに揺れる瞳が彼女の顔を捉える。

 血の気を失った頬に、それでも薄い笑みが浮かんだ。


「……夢じゃ、なかったのね。やっぱり……来てくれてた……」


「当然よ。あなただけに全部背負わせるわけにはいかないでしょ。無茶しすぎなんだから、本当に……」


 その言葉に、レティアは小さく息を吐いた。


「……でも……間に合って……よかった……」


 そして、再び瞼を閉じる。

 微かな笑みを残したその横顔には、安堵と深い信頼の色が滲んでいた。


 講師陣がすぐに駆け寄り、状態を確認する。


「脈は微弱だが……確かにある! 意識低下、生命反応維持!」

「頭部外傷なし! 主因は魔力枯渇と過負荷だ、慎重に扱え!」


 医療班が頷き合い、光る魔導器を展開する。

 淡い緑色の結界膜が彼女の周囲を覆い、体温と呼吸を安定させる補助術式が走った。


「担架、準備完了!」

「固定確認! 衝撃制御、問題なし!」

「よし――三、二、一……せーの!」


 掛け声と同時に数人の手が伸び、レティアの身体が細心の注意をもって担架へと移される。

 動かぬ体を覆うのは、泥と汗、そして戦い抜いた者の証だった。


「結界を重ねろ。搬送中の揺れを最小限に抑える!」

「了解、制御膜展開!」


 担架の周囲に淡い光の層が生まれ、身体を包み込むように固定する。

 浮遊式の搬送具が起動し、低い唸りをあげて持ち上がった。


 アリスはわずかに身を引き、その様子をじっと見守っていた。

 担架が静かに魔導車へと運ばれていく。

 一歩、踏み出しかけ――だが、彼女は立ち止まる。


「……大丈夫。もう、彼女は守られている」


 小さな呟きは誰にも届かない。

 だがその声音には、張り詰めていたものが解け落ちる、確かな響きがあった。


 医療班の一人が振り返り、アリスに声をかける。


「助けてくれて感謝する。君が時間を稼がなければ、この子は……いや、多くが助からなかった」


 その先を言わず、深く頭を下げる。


 アリスはわずかに微笑み、静かに首を横に振った。


「……感謝は不要です。彼女は仲間ですし、私にできることをしただけです」


 担架が結界に守られたまま魔導車の内部へと消えていく。

 それを見届けると、アリスは静かにその場を離れた。


 背後では、なおも講師と医療班の声が飛び交っている。

 だが彼女は振り返らない。


 戦い終えた身体と心を休めるため、

 ただ静かに、森の縁へと歩み出していった。


 ――森の縁。


 戦場からわずかに距離を置いた斜面には、長い年月を生き抜いてきた一本の古木が根を張っていた。

 太くうねった幹は苔に覆われ、表皮には深い皺が刻まれている。

 露を含んだ土の匂いがほのかに立ち上り、踏みしめた地面は柔らかく、湿り気を帯びていた。


 アリスはその古木の下まで歩き、絡み合う根に身を預けるようにして、そっと腰を下ろす。

 斜面に座った視界の先では、木々の枝葉が重なり合い、淡い光を細かく砕いていた。

 木漏れ日は不規則な斑となって地面に落ち、戦いの余韻を残す金髪にも静かに降り注ぐ。


 湿った風が葉を揺らすたび、かすかな葉擦れの音が耳に届く。

 その音は、先ほどまで響いていた咆哮や爆音を遠い記憶へと押し流し、森本来の静けさをゆっくりと取り戻していった。


 胸に残るのは、戦いの余韻と、張り詰めていた緊張が解けていく静かな疲労感だった。

 心臓はまだ早鐘のように鼓動を刻み、脈拍が耳の奥で微かに響いている。

 喉の奥は乾き、唇には魔力を吐き切った後のわずかな痺れが残っていた。

 肩から腕、指先にかけては、重たい倦怠がじわじわと広がっている。


 それでも、不思議と苦しさはない。

 全身を包む疲労の奥底には、澄みきった静けさが確かに存在していた。


 (……終わったんだ)


 その思考が浮かんだ瞬間、ようやく現実が輪郭を持つ。

 あれほど濃密だった魔力の圧。

 皮膚を刺すような殺気。

 生と死の境界が、常に視界のすぐ先にあった戦場。


 (あれほどの魔物と、あれほどの戦い……)

 (命を懸けて、誰かを守ること……)


 脳裏に浮かぶのは、前世――レティシア・ファーレンナイトとして歩んだ無数の戦場の記憶。

 焼けた大地。

 剣を振るうたびに飛び散った血と火花。

 仲間の叫びと、倒れていく背中。


 勝利の瞬間に訪れる短い安堵と、そのすぐ後に押し寄せる喪失。

 守れた命の重みと、救えなかった命が残す冷たい痛み。


 (……あの頃は、それが当たり前だった)

 (背負うことを選んだのではなく、背負わされていた)


 王祖として、継承者として。

 期待と責務の鎖に繋がれ、立ち止まることも、迷うことも許されなかった日々。

 前へ進む以外の選択肢が存在しなかった時間。


 だが――今は違う。


 (私は、アリス・グレイスラー)

 (レティアの友人で、学院の一人の学生で……)

 (そして、自分の意志で戦った)


 誰かに命じられたわけでもない。

 誰かの期待に縛られたわけでもない。

 ただ、目の前で仲間が倒れ、守りたいと心が叫んだ。


 その感情は、衝動ではなく、確かな選択だった。


 ふと、記憶が別の場面へと移る。

 ミラージュの古代遺跡。

 石壁に刻まれた文様。

 閉ざされていた力が暴かれた、あの瞬間。


 (あの時は……引きずり出された)

 (封じていたものを、無理やり呼び起こされた感覚だった)


 だが今回は違う。


 誰かに導かれたのでもない。

 誰かの力を借りたのでもない。


 ――自分で、選んだ。


 (必要だと思ったから、引き出した)

 (守ると決めたから、立った)


 胸の奥で、何かが静かに形を変えていく。

 前世の力と、今の自分。

 二つの存在が対立するのではなく、ゆっくりと溶け合い、ひとつの輪郭を形作っていく感覚。


 (……これが、私の戦い)


 アリスはゆっくりと空を仰ぎ見た。

 枝葉の隙間からのぞく空は淡く晴れ、薄い雲が静かに流れている。

 驚くほど澄んだ青が、戦場の血と泥をすべて洗い流してしまったかのようだった。


 森の奥では、少しずつ日常の音が戻り始めている。

 魔導機器の低い駆動音はここまでは届かず、代わりに小鳥の鳴き声が澄んで響く。

 風が葉を揺らすたび、その声は重なり合い、森が生きていることを静かに主張していた。


 (……世界は、ちゃんと続いてる)


 アリスは深く息を吸い込む。

 湿った土と苔、若い葉の匂いが混ざり合い、肺の奥まで満たしていく。


 ――今はまだ、道の途中。

 ――迷いも、選択も、これからも尽きることはない。


 けれど。


 (それでも……私は、前に進んでいる)


 そう確かめるように、アリスは静かに目を閉じた。

 木漏れ日が瞼の裏に淡い光として残り、森の音が穏やかな余韻となって意識を包み込んでいった。


 その頃、戦場の中央では、講師陣がバロール・ビースト亜種の残骸を取り囲み、険しい表情で検分を行っていた。

 ぬかるんだ地面に残る巨体は、もはや生物というよりも崩れた要塞の残骸に近い。


 黒く焼け焦げ、半ば内側から爆裂した巨体。

 外殻は所々で剥離し、砕けた装甲片が泥の中に散乱している。

 深く刻まれた亀裂の奥では、まだ完全に消えきらない紫紋が、呼吸するかのようにかすかに明滅していた。


 その周囲には、不気味な魔力の残滓が薄い霧のように漂っている。

 空気は重く、鼻腔の奥を刺すような刺激臭がわずかに残っていた。


 足元の泥には、無数の痕跡が刻まれている。

 氷槍が突き立った痕。

 岩塊が隆起し、砕け散った跡。

 そして、必死に踏みしめられた若い学院生たちの足跡。

 ここで行われた死闘の激しさが、言葉なく物語っていた。


「……これは、通常種ではない」


 一人の講師が膝をつき、慎重に甲殻へ手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、冷たく硬い感触の奥から、微弱だが確かな魔力干渉が走った。

 まるで拒絶するかのような、不快な反応だった。


「バロール・ビーストの亜種、それも……外部から強制的な魔力増幅を受けている痕跡がある。自然変異では説明がつかん」


 別の講師が、装甲断面を覗き込みながら低く続ける。


「魔力回路が不自然に整えられている。野生の魔獣が持つ粗雑さがない。これは……作られた個体だ」


 周囲に、短い沈黙が落ちた。


「歌のような魔力共鳴……学院生たちの証言と一致するな」


 険しい顔の講師が、報告書の結晶端末を確認しながら呟く。


「共鳴波形が一定すぎる。揺らぎがない。儀式的な干渉、あるいは制御下での魔力注入だ」


 別の講師が唇を引き結び、声を低くする。


「偶発的な遭遇ではないな。これは明確な意図をもって、この場に“置かれた”存在だ」


 視線が、自然と周囲の戦場跡へ向けられる。


「……この規模の個体を、学院生たちがよく持ち堪えたものだ」


 そう呟いた講師の声には、驚愕と苦味が滲んでいた。

 砕けた氷片、抉れた地面、踏み荒らされた泥。

 若い学院生たちが必死に陣形を維持し、退かずに立ち向かった痕跡が、そこかしこに刻まれている。


「戦線を維持した功績は計り知れん。だが――」


 言葉を区切り、講師は重く続けた。


「同規模、あるいはそれ以上の存在が再び出現するならば……演習の続行は明確に危険だ」


 別の講師が即座に指示を飛ばす。


「魔力濃度を再測定しろ。残留干渉値を洗い出せ。ここにまだ“呼び水”が残っていれば、後続班に甚大な被害が出る」


「結界範囲を拡張! 感知を深度三まで落とすな!」


 唇を引き結んだ講師が、断固とした声音で言い放った。


「調査隊を即時派遣し、この周辺一帯を徹底的に洗え。偶発では済まされん事案だ」


「封印班を呼べ。残骸をこのまま放置すれば、瘴気の温床になる。二次被害を出すな」


 命令が次々と飛び、空気が一気に引き締まる。

 複数の術師が位置につき、詠唱が重なった。


 紫紋を覆うように魔力障壁が張り巡らされ、淡い光の格子が巨体全体を包み込む。

 不安定に脈打っていた紫の光は、次第に抑え込まれ、封じ込められていった。


 治療を受けていた学院生たちは、その光景を遠巻きに見つめながら、無言で息を呑む。

 誰もが、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


 ――自分たちが遭遇したのは、ただの魔獣ではなかった。

 ――偶然でも、演習の範囲内でもなかった。


 その現実が、重い沈黙とともに胸へとのしかかっていく。

 戦いは終わったはずなのに、

 この場で何かが、確実に“始まってしまった”のだという予感だけが、静かに広がっていた。

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