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第五部 第三章 第8話

 ――突風のような魔力の奔流が、戦場の空気を一変させた。


 湿地に沈殿していた重苦しい魔力が、一瞬で押し流される。


 呻くバロール・ビースト亜種の背後から、白銀の閃光が一直線に駆け抜ける。

 魔力圧縮によって空気そのものが裂け、遅れて衝撃波が地表を叩いた。

 湿地の泥が爆ぜ、黒い飛沫が空へ舞い上がる。


 迫る影に、学院生たちは思わず息を呑んだ。

 速い――理解するより先に、身体が反応していた。


 次の瞬間、爆ぜるような着地音。

 衝撃で地面が沈み込み、円状に泥水が跳ね上がる。


 アリス・グレイスラーが、倒れかけていたレティアの目の前に滑り込むように現れた。


 白銀の光を帯びて揺れる長い髪。

 解放された魔力が薄い光膜となって全身を包み込み、周囲の魔力干渉を強引に押し退けていく。

 放たれる気配は澄みきった氷刃のように鋭く、ただそこに立っているだけで戦場の重圧を浄化していくようだった。

 

「レティア!」


 短い呼び声。

 だがそこに込められたのは、焦燥でも恐怖でもない。

 仲間を確かめるための確信と、これ以上一歩も譲らないという決意だった。


 アリスは一瞬だけレティアの姿を視界に収める。

 立っている。意識もある。

 それを確認すると、迷いなく視線を前へ戻した。


 バロール・ビースト亜種が、咆哮とともに上半身をねじり、前のめりに突進してくる。

 泥を蹴り飛ばし、巨体が地面を削る。

 両腕を大きく広げ、質量そのものを武器にした暴力が一直線に迫る。

 振り下ろされる腕の一撃は落石のように重く、かすめただけでも人間など容易に粉砕できる。


 だが――アリスは退かなかった。

 恐怖はない。

 むしろ一歩踏み込み、迎え撃つ姿勢を取る。


 振り下ろされる巨大な腕。

 空気が圧縮され、轟音が直前で弾ける。


 その一撃を――


 アリスは、左手を軽く上げるだけで受け止めた。


 ――ドォンッ!!


 衝突の瞬間、地面が沈み込む。

 衝撃波が円状に広がり、泥水が爆発的に跳ね上がった。


 だが、アリスの足は一歩も動かない。

 掌と腕に集約された魔力が、落下してくる質量を完全に受け止めていた。


 押し潰されるはずの一撃が、止まる。


 信じられない光景だった。


「……な、止めた……?」


「片手で……受けてる……?」


 学院生たちの声が震える。


 バロール・ビースト亜種が一瞬、動きを止めた。

 自らの一撃が“通じなかった”事実に、理解が追いつかない。


 その刹那。


 アリスは、受け止めた腕を軽く前へ押し返した。


 たったそれだけの動作。


 だが次の瞬間――


 巨体が、後方へ弾かれるようによろめいた。


 泥を蹴り散らしながら、数歩、数メートルと後退する。

 湿地が抉れ、足場が崩れ、巨体が揺れる。


 バロール・ビースト亜種が、低く唸る。

 その動きには明確な動揺があった。


 “押し負けた”。


 それを理解してしまったがゆえの、恐怖。


 アリスは静かに一歩踏み出す。


 

「――もう、誰も倒れさせない。

 私が、ここで止める」


 静かな声だった。

 しかし、その一言が戦場の空気を引き締める。


 俊敏速度向上魔法《クイックアクセル》。

 肉体強化魔法《フィジカルブースト》。

 物理防御魔法《プロテス》。


 三重に重ねられた魔術が、ほぼ同時に展開される。

 魔力回路が一斉に稼働し、身体の内側から熱と圧力が立ち上がった。

 筋繊維が強化され、関節が軽くなり、皮膚の表層には見えない防御膜が形成される。


 巨獣が再び咆哮を上げ、体勢を立て直しながら突進する。

 先ほどの衝撃を振り払うように、今度は全体重を乗せて叩き潰す構えだ。

 泥を弾き飛ばす質量の塊が、再び視界を覆い尽くす。


 だがアリスは、一歩も引かない。


 

「――《フレイム・ボール》」


 詠唱は短く、明確だった。


 空中に、次々と白銀の光球が生まれる。

 冷たく研ぎ澄まされた純魔力が凝縮されている。

 一つ、また一つと形成され、やがて十二。


 光球は円陣を描き、アリスの背後で静かに回転を始める。

 軌道は寸分違わず、制御は完璧だった。

 その光景は、まるで十二星を従える女神の顕現のようだった。


 さらにアリスは右手を広げる。

 虚空が歪み、凝縮した魔力が刃の形を取り始める。


 白銀のエーテルソードが顕現した。

 非実体でありながら、そこに宿る圧力は鋼鉄をも凌ぐ。

 刃渡りは長剣ほど。

 だが、その切っ先に収束した魔力は、結界すら切り裂く鋭さを秘めていた。


 

「はあああッ――!」


 アリスは地を蹴った。


 爆ぜる泥水。

 踏み込みの瞬間、空気が一拍遅れて破裂音を立てる。

 その身体は霞むほどの速さで前へと消えた。


 巨獣の巨体が迫る。

 咆哮が鼓膜を打ち、湿地が震える。


 だがアリスの瞳は揺れない。

 ただ真っ直ぐに、標的の急所を射抜いていた。


 ――斬撃。


 振り抜かれた刃が白銀の閃光を描く。

 轟音とともに、巨獣の片腕が宙を舞った。

 甲殻を裂く音は鉄を裂くより重く、衝撃波が湿地一帯に響き渡る。

 切断面から濁った体液が噴き出し、泥と混ざり合って飛び散った。


 巨獣が苦悶の叫びを上げ、上体を大きく仰け反らせる。


 その一瞬を、アリスは逃さない。


 踏み込み、体重移動、刃の返し。

 動作は流れるように連なり、次の瞬間には逆袈裟の軌道が描かれた。


 白銀の閃光が再び迸り、反対の腕が肩口から斬り飛ばされる。


 

「グオオオオオッ――!」


 両腕を失ったバロール・ビースト亜種は、それでも倒れなかった。

 血と泥を撒き散らしながら、狂ったように突進を続ける。

 地面を抉り、頭部を突き出し、牙を剥く。


 最後の抵抗。

 命を賭した、獣の執念だった。


 

「まだ来るのか……!」

「う、嘘だろ……両腕が……ないのに……!」


 第八班の学院生たちが後退しながら声を上げる。

 恐怖に足がすくみ、誰もが次の瞬間を想像してしまう。

 ――押し潰される。

 ――逃げ場はない。


 だが、視線の先には白銀に輝く背中があった。

 小柄な体が、巨獣の進撃を真正面から受け止めようとしている。


 イリーナは震える手で杖を握りしめ、口を覆っていた。


 (すごい……あの速さ……あの斬撃……

 理論じゃない……本物の、戦場の力……!)


 ヴィクトールは歯を食いしばり、結界術式の起動を迷う。


 (俺の防御なんか、意味がない……

 いや、それでも……最後まで、支えなきゃ……!)


 リゼットは荒い息を吐きつつ、感知魔法を維持していた。


 (……魔力の波が、乱れてる……

 でも、アリスさんのそれだけは……揺るがない……

 あれなら……勝てる……!)


 その場にいた誰もが、自分の無力を痛感しながらも、

 目の前で戦う少女に心を預けていた。


 

「……まだ負けてない。

 アリスさんが……いる!」


 誰かが絞り出すように呟く。

 その言葉が、恐怖に沈みかけた心をわずかに繋ぎ止めた。


 

「――撃ち抜け」


 アリスの声は、澄み切っていた。

 次の瞬間、背後で回転していた十二の《フレイム・ボール》が一斉に閃光を放つ。


 矢のように直線軌道を描き、巨獣の胸部へと突入する。


 ズガァンッ――!!


 内部で炸裂する白銀の光。

 装甲の隙間から魔力が噴き出し、巨体が一瞬、不自然に膨張する。


 次の瞬間――

 内側から崩れ落ちるように、巨獣の身体が破裂した。


 泥水と破片が雨のように降り注ぎ、学院生たちは反射的に顔を覆う。

 衝撃波が遅れて湿地を撫で、耳鳴りだけが残った。


 やがて、爆音が収まる。


 残されたのは、焼け焦げた地面と、動かぬ巨体の残骸。

 空気を覆っていた魔力干渉が、霧が晴れるように溶けていく。


 沈黙。


 先ほどまで凄まじい魔力と叫びが飛び交っていた戦場に、

 信じられないほどの静けさが戻っていた。

 

「……終わった……のか?」


 誰かが震える声で呟いた。

 その一言が、疲弊しきった学院生たちの胸に、

 ようやく“勝利”という実感をもたらしていった。


 イリーナは杖を胸に強く抱え込み、その場に膝をついた。

 魔力を使い切った反動で肩が上下し、荒い呼吸が止まらない。

 指先は震え、力が抜けたように杖を落としそうになりながらも、必死に抱き締めていた。


 ヴィクトールは展開していた結界をゆっくりと解く。

 術式が霧散するのを見届けた瞬間、張り詰めていた気持ちが一気に緩み、喉の奥が熱くなった。

 彼は唇を噛みしめ、こぼれそうになる感情を抑えるように目を伏せる。


 リゼットは最後まで感知魔法を解かなかった。

 魔力の波動が完全に静まり、敵性反応が消滅したことを確認してから、ようやく術式を解除する。

 その瞬間、小さく肩を落とし、深い息を吐いた。


 全員が、ただひとりで戦場に立ち続けたアリスの背中を見つめていた。

 誰も言葉を発せず、何を言えばいいのかすら分からない。

 圧倒的な戦闘と、その後に残された静けさが、思考を奪っていた。


 アリスはエーテルソードをゆっくりと下ろし、深く息を吐いた。

 肺の奥に溜まっていた熱と魔力が、吐息とともに外へ逃げていく。


 だが、休むことはなかった。

 その視線はすぐに戦場を巡り、そして――レティアを捉える。


 泥に座り込むようにして項垂れた少女。

 肩は小さく上下しているが、その動きは弱々しい。

 意識を失いかけているのが、ひと目で分かった。


 

「レティア!」


 アリスは駆け寄り、膝をついてその頬に手を伸ばす。

 冷えた肌に触れ、指先でかすかな呼吸を確かめる。


 ……生きている。

 それを確認した瞬間、胸の奥に張りつめていた何かが、わずかに緩んだ。


 

「よかった……ちゃんと、息がある……」


 安堵の吐息が、自然と零れる。


 その声に反応したのか、レティアの瞼が微かに震えた。

 ゆっくりと開かれた瞳は焦点が定まらず、ぼんやりと揺れている。


 やがて、その視線がアリスを捉えた。


 

「あ……アリス……?」


 かすれた声。

 喉の奥から絞り出すような、弱々しい響きだった。


 

「……来て、くれたの……?

 私……ちゃんと、役に……立てた……?」


 不安と安堵が入り混じった瞳が、アリスを見つめる。


 

「ええ。十分すぎるほどよ」


 アリスは静かに、しかしはっきりと答える。


 

「あなたが踏みとどまってくれたから、みんな生きてる。

 本当によくやったわ、レティア」


 その言葉を聞いて、レティアはかすかに微笑んだ。

 安らいだように瞳を細め、そのまま静かに目を閉じる。


 

「……そっか……それなら……よかった……」


 意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。


 アリスはそっと手を離し、立ち上がった。

 その視線は、戦場全体へと向けられる。


 泥に倒れ伏す仲間たち。

 血に染まった装備。

 荒い息を吐き、立ち上がる力すら残っていない者もいる。


 医療班はまだ遠い。

 この状況で、今すぐ動けるのは――自分だけだった。


 

「……待ってて。すぐ、楽にするから」


 誰に向けたとも分からない言葉を落とし、アリスは掌を広げる。


 

「――《ヴィタルブースト》」


 淡い緑色の光が、彼女の掌から柔らかく広がった。

 魔力は風のように流れ、負傷者一人ひとりを包み込んでいく。


 裂けた皮膚が閉じ、歪んだ肉が正しい位置へ戻る。

 止まらなかった出血が収まり、乱れていた呼吸が次第に落ち着いていく。


 苦悶に歪んでいた表情が緩み、呻き声が小さくなった。

 仲間たちの顔に、安堵の色が戻っていく。


 アリスは歩きながら、休むことなく魔力を注ぎ続けた。

 重傷者、軽傷者、順に状態を確認し、必要な分だけ力を与えていく。


 

「無理に動かなくていい。

 傷は塞いだから、今は休んで……大丈夫」


 

「深呼吸して。そう……ゆっくりでいい」


 

「医療班が来るまで、私がついてるから」


 その声は静かで、しかし確かな安心を伴っていた。

 聞いた者の緊張を解き、身体から力を抜かせる響きだった。


 やがて、戦場全体を見渡したアリスは、ようやく足を止める。

 もう新たな悲鳴も、魔力の乱れもない。


 小さく、長い息を吐いた。


 ――もう、大丈夫。

 ――もう、戦いは終わった。


 その確信が、胸の奥に静かに根を下ろす。


 アリスはゆっくりと目を閉じた。

 全身を覆っていた白銀の魔力が、静かに解放されていく。


 光は霧のように薄れ、流れるように髪の色が金色へと戻る。

 肩にかかっていた重圧が消え、ただ一人の少女の姿だけがそこに残った。


 淡い残光が完全に消え去り、戦場には静寂が満ちる。


 そこに残されたのは――

 少女が守り抜いた命と、確かな安堵の気配だけだった。

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