第五話 KPS
ゴールデンウィーク最終日。聡恵は再び、個人的にいわくつきの雑居ビルを訪れていた。
階段を昇り、二階のテナントの入り口前に立つ。ドアにかかっている看板を間近にして見ると、外観上の怪しさはあの悪人どもの巣窟をはるかに凌いでいるように思えた。
聡恵を助けてくれた男の人は、あのとき確かにこう言っていた。下の階に入居してきた者で、挨拶にきた、と。つまり、あの人はこの二階のテナントの人というわけだ。
聡恵は扉を三度、ノックしてみた。しばらく待ってみるも返答はない。再度、強めにノックをしてみたが、やはり応答はなかった。
そこで、試しにノブを回してみた。すると、ドアがわずかに動いた。
中に人がいないか確認するだけだ――聡恵は扉をそっと開けようとした。
「ウチに何か用ですか?」
ふいに、背後から声がかかった。聡恵は驚いてノブから手を放し、うしろを振り返った。
そこにいたのは、白地のトレーニングウェアにジーンズ姿の、聡恵を助けてくれた男性だった。
男性は聡恵の顔を見て目を見開いた。「あれ? 君は……」
「こんにちは! すみません、突然お邪魔して。先日は危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました!」
まくしたてるように言って、聡恵は深々と頭を下げた。
「いやいや、いいんだよ」男性は中腰になって聡恵の顔を覗き込んできた。「もう、身体はいいの?」
「はい、おかげさまで」言って、聡恵は菓子折りの入った紙袋を差し出した。「あの、こちら、感謝の気持ちです。どうぞ」
「いやあ、ありがとう。なんか悪いね。気を使わせちゃって」
男性は笑顔で紙袋を受け取った。
「――そうだ、いま時間あるかな?」男性がおもむろに聞いてきた。「話したいことがあるんだけど」
聡恵は答えに窮した。勝手な推測ではあるが、この人は何らかの宗教団体の関係者だ。いくら恩のある相手とはいえ、先般ひどい経験をしたばかりだし、警戒心を緩めるわけにはいかない。礼を言う以上の関わりはもたないほうがいい気がした。
「あ、でもまだ事務所は散らかってるから……下のお店でどうかな?」
そう提案してきた男性の表情からは、悪意のかけらも感じられなかった。それに、一般の人の目がある場所で話をするなら、ひとまず安全のように思えた。
「――ええ、じゃあ」
聡恵は答えた。やはり、恩人を無下に扱うこともできない。
「よかった」
男性は微笑むと、事務所の扉を開け、聡恵から受け取った菓子折りを入り口脇にそっと置いた。
「じゃ、行こっか」
言って、男性は階段を降りて行った。聡恵は少し距離をおいて、その後に続いた。
下のお店というのは、一度名前を見たら忘れないほどインパクトのある『チンギス・ハーン』だった。
「すんませーん、また来ました」
入店するや、男性はカウンター奥の人物に向かって挨拶した。
細長い釣り目のふくよかな男性が、作業の手を止めてこちらに顔を向け、無表情のまま会釈をしてきた。ありきたりな白色のコックの服装をしているが、頭には異国風の帽子をかぶっている。下部に頭の周囲を覆う漆黒の鍔があり、上部はそれと対照的に色鮮やかな刺繍が施された円錐形の帽子だった。店名からして、やはりモンゴルのものなのだろうか。
聡恵は男性に促され、一番奥のテーブル席についた。
店内の印象は、年季の入った中華料理店といったところだった。他に客はいない。店員もさっきのコック姿の男性一人だけのようだった。どうやら店主一人で切り盛りしている店らしい。
聡恵の向かいに座った男性が言った。「実は、さっきまでここでメシ食ってたんだ」
「あ、そうなんですか」聡恵は相槌をうった。
「言っちゃ悪いけどあんまり客いないし、のんびりできるんだよ。すぐ下の階にあるし、つい毎日来ちゃうんだよね」ひそひそ声で言って、男性は楽しそうに笑った。
そこへ、厨房から出てきた太っちょの店主がやってきて、無言で傍に立った。メモの上にペンの先端を構え、注文を書き写そうという姿勢になっている。
「マンゴージュース二つ、お願い」男性はピースサインを作ってオーダーした。
「マンゴージュース、二つ」店主は低い声で復唱した。
「ここのジュース、けっこういけるんだよ。君は何か料理、食べる?」男性が聞いてきた。
「いえ、大丈夫です」
別にお腹が空いていないというわけではなかったが、メニューを見てもこれといって注文したいという気分にならなかった。
「じゃ、以上ね」
男性が告げると、店主は何も言わずさっとその場を離れていった。
聡恵はなんだか感じの悪さを覚えた。料理を何も頼まなかったのは悪い気もするが、あまりに接客態度がよろしくないように思った。
「それじゃ、お互いまだ名前も知らないわけだし、まずは自己紹介でもしよっか」
男性は店主のぶっきらぼうな振る舞いなど気にも留めない様子で提案してきた。
「そうですね」聡恵は同意した。「どちらから、しましょうか?」
「じゃあ、俺から――」
男性はえへん、と一つ咳払いをした。
「えー俺は、風山友公っていいます。年齢は二十四で、東京出身。ココロ・プロブレム・ソリューションっていう、立ち上げたばっかの事務所の代表をやってます。まあ、とりあえずはこの辺で。よろしく!」
風山と名乗った男性は、はにかむ様子もなく、はきはきとした口調で自己紹介を終えた。
「風山さん、ですね。よろしくお願いします。私は、花菊聡恵です。四月に大学生になったばかりで、地元の群馬から出てきて一人暮らしをしてます」
聡恵は無難な自己紹介を済ませた。
「ハナギクさんね、よろしく」風山は微笑した。「一人暮らしの大学生かあ。それで、アルバイトを探してたってわけだ?」
「はい。痛い目にあいましたけど……」
「災難だったね。まったく、とんでもない悪党だよ――あ、ごめん。あまり思い出したくないよね?」風山は心配そうに見つめてきた。
「いえ、いいんです。私も軽率でしたし。東京は危ないとこだから気をつけなさいって、親からも口うるさく言われてたんですけど……身をもって知りました」
聡恵が苦い笑みを浮かべて言うと、風山は首を横に振った。
「騙される方が悪いっていう見方もあるけど、一番悪いのは騙そうとする奴らだよ」
「ありがとうございます」聡恵は軽く頭を下げた。「でもあの時、風山さんがあそこに挨拶にいらっしゃらなかったらと思うと、本当にぞっとします……」
「ああ――実はあれ、ウソなんだ」
「え? そうなんですか?」聡恵は驚きを隠せなかった。
「さすがに、挨拶のために無断で他人様の事務所にずかずかと入ってはいかないよ」
風山はいたずらっぽく笑うと、ひねこびたソファに背を預けた。
「じゃあ、どうして……?」
「前から探ってたんだ。奴らのこと。何か悪さをしてんじゃないかって」
「目をつけてたってことですか……? あ、もしかして探偵をされてるとか?」
風山はかぶりを振った。「探偵とは違うね。別に誰かから依頼を受けたわけでもないし。個人的に怪しんでたってだけ」
「はあ……」
合点がいかない聡恵の胸中を察したらしく、風山が続ける。「初めてこの店に入ったとき、カンさんに――あ、さっき注文聞きに来た人ね。色々聞いたんだ。このビルにどんな人たちが入ってるのか知りたくてさ。やっぱ、付き合いは大事だしね」
風山はテーブルの上で腕を組んだ。
「あいつら、俺がここに入る二週間くらい前に越してきたらしいんだけど、カンさんに言わせれば、悪党の感じがにじみ出てた、って。それで、どうも奴らが来てから、今まで見かけることがなかった若い女性がビルに出入りようになったとかでさ。しかも、初めて来た女性は、ビルに入っていったあと一時間もすれば帰っていくけど、次に来たときは深夜になっても出てこないって話でね。こりゃあ、怪しいじゃんか」
「まあ……そうですね」
言い分はわからなくもない。それより気になったのは、あの店主がこのビルに来る人々をつぶさに注視しているということだった。よほど手に暇を持て余しているんだな、と聡恵は余計なことを考えた。
「それで、俺もこの店に入り浸って、ビルに出入りする人の観察を始めたんだ。そしたら、君がやってきた。カンさんの話のとおり、初めて来たときは、三十分ぐらいで帰って行ったよね。でも次に来たとき――この前はなかなか出てこなかった」
刑事顔負けの、綿密な張り込み調査だった。勿論、こんなささいな疑いで刑事が動くことはないだろうが。
風山は続けた。「だから、心配になって様子を見に行ったんだよ」
「はあ……まあ、そのおかげで助かりましたけど、何もなかった時はどうするつもりだったんですか?」
「その時は、挨拶しに来ました、で押し通すつもりだったよ。無茶かもしれないけど、君に何かあってからじゃ遅いでしょ? 何もなかったなら、俺が怒られるだけで済む話さ」
常識から逸脱した考え方だが、その行動力に聡恵は恐れいった。
「まあ、結果オーライでしたね」聡恵は苦笑気味に言った。
「まあね」風山は肩をすくめた。「遅かれ早かれ、奴らは捕まっていただろうけどね。ネットで人をひっかけていたあたり、警察をなめてるし」
ここで、注文していたマンゴージュースを持った店主がやってきた。
「マンゴージュース、二つ」
抑揚のない声で告げると、聡恵と風山の前にグラスをどさりと置いた。
「サンキュー」
風山がお礼を言ったが、店主はこちらを一瞥もせず、仏頂面で伝票を置いて去って行った。やはり無礼な態度だ。親切に色々と情報を提供してくれるような人とは思えない。
「まあ、悪党の話はこれくらいにしとこう。被害者が受けた心の傷の分だけ、報いを受けるはずさ」
言って、風山はマンゴージュースをストローで吸った。
「うまいよ、飲んでみて」
勧められるまま、聡恵もストローに口をつけた。
「ほんとだ――甘くて濃厚ですね」
聡恵は自然と笑顔になった。それを見て、風山も微笑む。
「さて、じゃ本題に入っていいかな?」風山が言った。
「はい」ジュースに気を取られていた聡恵は、反射的に返事をした。
「アルバイト、探してるんだよね? よかったら、うちのスタッフ、やってみない?」
聡恵はぎくりとした。やはり勧誘が目的だったのか。大学生をターゲットにした新興宗教の勧誘は多いらしく、入学時のオリエンテーションで取り合わないようにと注意喚起もあったほどだ。
風山が悪い人ではないことはわかる。しかしここはうまく、なるべく気を害さないように断ろう。
「えっと……でも風山さんが何をなさっているのか、よく知らないですし――」
そこまで言って、聡恵はしまったと思った。逃げの台詞にはあまりふさわしくない。火に油を注ぐようなものだった。
「ああ! そうだよね、ごめんごめん」
風山はジーンズのポケットを探り、折り畳まれた紙切れを取り出すと、それをテーブルの上に拡げた。
「これを読んでみてくれないかな。印刷屋に頼むための原稿なんだ。事務所案内として作ろうと思ってて。ここに俺のやりたいこと、ざっと書いてあるからさ」
風山は聡恵が読めるように紙切れの向きを変えて差し出してきた。よれよれになったA4の用紙に、今時あまり見かけない鉛筆書きの字で、文章がびっしりと書かれている。決して達筆とは言えず、消しゴムで消した字の跡もうっすら残っていて、見栄えはたいそう悪い。だがニコニコ顔の風山にむかって拒否することもできず、聡恵は文面に目を通し始めた。
『ココロ・プロブレム・ソリューション 活動理念
大きさ、小ささは別として、今日もきっと何か事件が起きています。そして全部とはいかなくても、その事件を警察などが捜査をしていくことでしょう。これが世の中の決まりです。
でも、果たしてそれで十分でしょうか?
私はそう思いません。明るみに出ることのない闇の事件や、未然に防げたはずの事件が存在すると思うからです。
警察などの能力を批判するつもりはありません。組織というものは、大きくなればなるほど、色々と事情があるものです。それゆえに、隅々にまで手を回せないこともあるでしょう。
だから私は自分の手で、闇の事件や、未然に防げたはずの事件を無くすための団体を立ち上げることにしました。それが、KPS――ココロ・プロブレム・ソリューションです。
心の問題あるところに、事件あり。これが私の信条です。
悲しい事件のニュースを見て、周囲がもっと早く気づいてあげていれば、こんな事件は起こらなかったのでは、と思うことはありませんか? みんなが、一人でもいいから、互いに暖かい手を差し伸べられるような関係を築くこと――それが、そのような事件を無くすために重要だと思っています。
ですが、心の問題を抱えている人の多くは、自分から助けを求めようとしないものです。だから私は受け身ではなく、こちらからそういった人たちを助けに行くような、そんな団体を目指します。
この理念に共感していただけた方、最近様子が変だな、という人がいたら、相談にのってあげてください。そこまではちょっと、という方は、当団体まで是非お知らせください。もちろん、秘密は厳守いたします。
皆様のご協力、ご支援を心よりお待ちしています。
ココロ・プロブレム・ソリューション代表 風山 友公』
文章を読み終えた聡恵は、思わずため息を漏らした。
それは呆れたからではない。むしろ、いかにも賛嘆すべき理念だと思った。読み進めていく間、共感を覚えるあまり、胸がどんどん高鳴っていった。
「どう? ちゃんと伝わったかな?」風山が顔を近づけて尋ねてきた。
「はい……すばらしいです」聡恵は放心したように呟いた。「でも何だか、不思議な感じです。こういう考えをしている人って、身近にはいなかったので。現実にいるんだなあ、って」
「ありがとう」風山は照れくさそうに笑った。「怪しい宗教団体とでも思われるかなって心配だったんだけど」
「……ごめんなさい。事務所の看板を見たときは、そう思いました」
「だよねえ」
風山は苦笑いしつつ、自分の髪をくしゃくしゃに撫でまわした。
聡恵は言った。「私を助けに来てくれたのも、この理念があるからなんですね。普通は、そこまで他人のことに関心持たないでしょうし」
「まあね。言うならば、究極のおせっかい団体、ってとこかな」風山は得意げに語った。
「でも一人だけじゃ、団体って言うのは苦しいですね」
聡恵が冗談めかせて言うと、風山は額に手を当てて俯いた。「そうなんだよ。だから、団員募集中なんだ」
「具体的には、どういう活動をするんですか?」
聡恵が訪ねると、風山はうーん、と唸った。
「いまは事務所をたちあげたばっかだから、相談に来る人はまずいないし……こっちから心の問題を抱えてる人を探しに行かなくちゃいけないね」
「何かアテはあるんですか?」
「今は無いね……でもだからこそ、花菊さんに協力してもらえると助かるな」
「え?」聡恵は目をしばたたかせた。
「大学って特別な社会があるでしょ? 学生ならではの」
「まあ……入ったばかりですけど、そういうのは感じます」
「新しい環境に馴染めない新入生とか、社会人になることに不安を感じている四年生とか、きっと心の問題を抱えた学生がいるはず――学内に相談コーナーみたいなのはあるかもしれないけど、やっぱり相談しなきゃ動いてくれないし、気付かないよね。それじゃ十分とは言えない」
それまでと打って変わった風山の真剣な話しぶりから、この人は本当に困っている人を助けたいだけなんだということが、聡恵の心にはっきり伝わってきた。
「だから、君の大学を最初の活動の場にさせてくれないかな。でも、君を利用したいから誘ってるわけじゃないよ。迷惑なら、断ってくれていい。どうかな?」
風山は精悍な表情で申し出てきた。
この人は絶対、悪巧みや金もうけのために、人を利用しようとしない。根拠はないけれど、この感覚を信じたい。
それに自分はいま、立て続けに酷い目にあって、気持ちが下向いてしまっている。風山と一緒に活動をすることで、そんな気分が一新され、新しい世界がひらけるような予感がした。
聡恵は返事を告げた。「ぜひ、協力させてください」
「ホント? ありがとう!」
風山は立ち上がり、両手に握りこぶしを作って子供のように喜んだ。少々大げさのような気がするが、ほほえましい仕草だった。風山につられるようにして、聡恵も笑顔になった。