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ココロ・プロブレム  作者: 谷木 大來
第四章
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第二話 推理

 一〇二号室の前に着くまでに、小島はアパートの現状について話してくれた。アパートは三年前に亡くなった夫から受け継いだものであること。入退去の関係は仲介業者にやってもらい、建物や設備の維持管理は自分で切り盛りしていること。住人からいろいろ要望はあるが、いまの住人が全員退去したら土地ごと売りに出そうかと悩んでいるので、こたえるのは難しいこと――こちらから聞いたわけではないのだが、わずかな間にこれだけの話が途切れずになされたので、どうやら小島は話好きな性格であるらしかった。

「開ける前に、いちおう確かめるわね」

 小島はインターホンを鳴らしてから、ドアをノックしつつ呼びかけをした。

 少し間をおいて、返事がないことを確かめると、小島は鍵穴に鍵を差し込んだ。

 小島は「失礼します」と言ってドアを開けた。廊下の蛍光灯の明かりがうっすらと入り込んでいく。部屋の中は真っ暗だった。

「あら、なにかしら?」

 小島は玄関に落ちていたものを拾って眺めた。それは、先刻ユーコーが差し入れたメモだった。

「あ、僕が書いたものです。前来た時はこうしたら開けてくれたんですよ」

「へえ。そこまでしないと開けてくれないなんて、よっぽど警戒心が強いのね」

 ユーコーにメモを手渡して、小島は玄関わきにある電気スイッチを押した。すると、キッチンのある廊下の明かりが灯った。

 小島に続いて、聡恵とユーコーは部屋にあがった。

 奥にあるリビングのドアは閉じられていた。小島がその手前の壁にあるスイッチを押すと、ドア上部にある窓を通して電気がついたことがわかった。だが窓は曇りガラスになっているため、中をうかがい知ることまではできなかった。

 聡恵は緊張が高まるのを感じた。変わり果てた姿で、優佳が倒れている――全く望んでいないのに、どうしても悪い光景を思い浮かべてしまう。

 小島はドアの前に立ったが、なかなか開けようとしなかった。聡恵と同じく不安を感じ、二の足を踏んでいるのかもしれない。

 すると、ユーコーが小島の背後から声をかけた。「開けてもいいですか?」

「ええ……お願い」言って、小島はあとずさった。

 ユーコーは躊躇することなく取っ手を押し下げ、ドアを開けた。

 そして、部屋の中の様子が、聡恵の目に入ってきた。

 そこには、前に来た時と変わらぬ整然とした部屋があるだけだった。優佳の姿はない。念のため押し入れの中ものぞいてみたが、とくに変わったところは見当たらなかった。優佳の無事な姿を確認したわけではないが、聡恵はひとまずほっとした。

 続いて、一行は浴室を確かめることにした。

 ユーコーがキッチン横にあるドアを開け放つ。だが、そこには空の浴槽と洋式トイレがあるだけで、やはり誰の姿もなかった。

 聡恵は小さく息を吐きだした。この状況ならば、優佳は単に外出しているだけとしか思えない。急用ができたということを信じて、連絡を待つほかないだろう。

 聡恵がそう思っていると、ユーコーは浴室に足を踏み入れていった。そしておもむろに、便座の蓋の上に置かれていたものを手に取った。

 それはなんと女性もののショーツだった。あろうことか、ユーコーはそれを目の前にひろげて、まじまじと見つめているのだった。

「な、なにしてるの!」

 聡恵は叫んだ。小島は口をあんぐりと開けて固まっている。驚きのあまり何も言えないようだった。

 だが、こちらを向いたユーコーの顔は、いたってまじめだった。

「きちんと畳まれて置いてあったし、これ、着替えだよね。優佳、お風呂に入ろうとしていたんじゃないかな?」

「え……?」

 見てみると、蓋の上にはバスタオルも置かれていた。確かに、お風呂に入る準備がしてあったらしい。

「そう……みたいだね」聡恵は平静を取り戻して言った。「お風呂に入ろうとしてたけど、急用ができて慌てて出かけたんじゃない?」

「んー、どうかな」

 ユーコーは言葉を濁して、丁寧に下着を畳んで元に戻すと、浴室から出てきた。そして、流しの横にある小型の冷蔵庫を開けて、中を検め始めた。

「今度はなんのつもり?」小島が聞いた。「きちんと言っておかないと誤解を招くわよ」

 ユーコーは顔を冷蔵庫につっこんだまま答えた。「この前、差し入れしたものが残ってるか確かめてるんです」

 聡恵は聞いた。「どうしてそんなこと?」

「いつここからいなくなったのかわかるかもと思って」

「そんなのわかるの?」

 ユーコーは顔をこちらに向けて、冷蔵庫の中を指した。「おにぎりとゼリーが残ってる。ゼリーは未開封なら日持ちするし、別に冷蔵庫に入れなくてもいいんだけど……おにぎりはもう消費期限を過ぎてる。つまり、優佳はこの期限より前にいなくなったんだよ」

 ユーコーが手に取って見せたおにぎりの包装には、昨日の朝九時という消費期限が刻印されていた。

「そうとは言い切れないじゃない?」小島が言った。「ただ食べるのを忘れていただけかもしれないし。私もよくやるわ」

「いや」ユーコーは首をひねった。「おにぎりは開けたらすぐ目につくところに置いてあったので、期限までに食べるつもりだったんでしょう。それに優佳の性格を考えると、忘れるってことはないと思うんですよ。中はきっちり整理整頓されてるし、調味料とかを見ても、期限切れのものは見当たらないので」

「まあ。どうせ私は忘れっぽくて粗野ですわよ」

わざとらしく膨れてみせた小島に、ユーコーは「失礼しました」と苦笑いをうかべた。

 聡恵は言った。「バナナも差し入れしたよね。冷蔵庫には入ってないみたいだけど、食べてくれたのかな?」

「ああ、たぶんね」

 言って、ユーコーは流しの下の戸棚を開けた。そこには洗剤の類しか入っていなかった。リビングにもそれらしきものは見当たらなかったし、食べたとみるのが妥当だろう。

「すると、ゴミはあの中か」

 ユーコーは玄関のほうに目を向けた。視線の先、玄関わきには口を縛ったスーパーの袋が置かれていた。中からチラシや紙屑などが透けて見えている。

ユーコーは小島のほうを振り返った。「すみません、可燃ごみの日はいつですか?」

「月曜日と木曜日よ。朝八時までにアパート前のごみ置き場に出す決まりなんだけど、夜のうちに出す人が多いわね」

 ユーコーは顎をさすった。「今日は土曜だから……あのゴミは木曜に出そうとしてたわけか。それが出されてないってことは、優佳は水曜日の夜より前にここからいなくなったのか……?」

「でも」聡恵は言った。「私たちが前にここに来たのって、水曜日の夜だよ? 私たちが帰ってからすぐいなくなったってこと?」

「そうなるね」ユーコーはうなずいてきた。「ここから帰る途中の電車の中で、打ち上げの時間と事務所の場所をメールしたら、すぐに返事があったよね。いなくなったのはそれからすぐなんじゃないかな。でも、だとしたらゴミが出してないのは変だな。玄関に置いてあれば出すのを忘れるなんてことはなさそうなのに……急用ができて慌ててたのかな」

「そう考えると、急用ができたのが水曜の夜ってことになるから、今日になってドタキャンしてきたのはおかしいんじゃない? もっと早く連絡してきてくれるはずだよ」

 聡恵が指摘すると、ユーコーは「確かにそうだよな――」と歯切れ悪くつぶやいた。

 状況が見えない。一体、優佳の身に何が起こったというのか。ただ一つはっきりしているのは、入浴を中止し、ゴミ出しも忘れて外出しなければならないほどの、ただならぬ事態が起こったということだった。

「あ――わかった」

 突如、小島がはっとした表情で声をあげた。

「横江さん、お風呂に入ろうとしていたなら、お湯はりをしていたはずでしょう? お湯がたまるまでの間にゴミを出そうと思ったのよ。それで玄関の扉を開けたら……そこに不審者がいた。それで誘拐されちゃったんじゃないかしら」

 あまりに突飛な推測に、聡恵はどう反応していいかわからなかった。ユーコーも黙って小島を見つめるだけだった。

「――というのも、ちゃんと理由があるのよ」困惑の視線を感じ取ったのか、小島は補足を加えた。「最近、区の防犯ニュースで見たの。駅の北のほうにあるアパートに不審者が出たって。一階の部屋の一人暮らしの女の子が、夜、なんとなく視線を感じてカーテンをあけたら、すぐそこに男が立ってたらしいわ。大声を出したら逃げていったから、大事にはならなかったみたいだけど」

「その不審者が、優佳の家の前にいたと?」

 ユーコーの問いに、小島は大真面目な顔でうなずいた。「その男、まだ捕まっていないから、ありえるわ」

「ありえるとは思いますけど……」聡恵は小島の気を害しないよう控えめに告げた。「お湯は止まってましたし、ちゃんと部屋の電気も消されてて、玄関の鍵もかかってましたから、自分の意志で外出したんじゃないかと――」

「それはきっと犯人の偽装工作よ。お湯は、音に気づいて抜いていったのね。鍵は玄関あたりに置いてあることが多いから、在処(ありか)がすぐにわかったんでしょう」

「はあ……でも、見知らぬ男に襲われたら、優佳さんも大声をあげると思います。そんなに簡単には誘拐できないんじゃないでしょうか」

「スタンガンか何かで不意打ちされて、気絶させられたのかもしれないでしょう」

 小島の口調はもはや自信めいていた。アパート管理人の推理劇――サスペンスドラマのタイトルで出てきそうではあるが、証拠もなにもなく、憶測でしかない。これでは脚本は成り立たないだろう。

 聡恵は困り果ててユーコーの顔を見た。

 すると、ユーコーは小刻みに首を縦に振っていた。もしや――。

「そういうことか……」ユーコーは俯き加減でつぶやいた。

 やっぱりそうきたか。ユーコーは常識の範疇におさまらない。それに慣れてきた聡恵はもはや驚かなかった。しかし、推理を披露した当の小島は面食らったような顔をしていた。

「そ、そうでしょう?」小島がおどおどと言った。「じゃあ、警察を呼びましょうか――」

 すると、ユーコーが慌てた様子で叫んだ。「すみません! 俺を突き出すのは、ちょっと待ってくれませんか?」

 ユーコーは早合点したらしい。小島はしばらくきょとんとしていたが、やがて苦笑気味に言った。「別にあなたを突き出そうってわけじゃないわよ」

「あ――そうでしたか」ユーコーはきまり悪そうに頭を掻いた。「まあとにかく、ここは俺にまかせてください」

「任せるって……あなた、犯人に心当たりでもあるの?」

「ええ、まあ。たぶんですけど」

 今度は聡恵も驚きを禁じ得なかった。ユーコーは、先日この付近に現れたという不審者を知っているというのか。いったいどうして――。

 ユーコーはつづけた。「自分が考えていることが正しいか、これから確かめに行ってきます。それがはっきりするまで、俺を警察につきだすのは待ってもらえませんか?」

 小島は目をぱちくりさせた。やがて、ふうと一息ついたのち、穏やかに微笑んだ。

「あなたが悪い人じゃないってことはもう十分わかったわよ。あなたに任せるから、しっかりお願いね。私も横江さんのこと、心配してるんだから」

「はい。わかりました」

 ユーコーも笑顔を返した。

 そうして、一同は優佳の部屋を出た。聡恵とユーコーは鍵を開けてくれたことへの感謝を述べ、小島と別れた。

「サトちゃん」ユーコーがすぐさま告げてきた。「スマホで調べてほしいことがあるんだけど――」

「ちょっと待って。ちゃんと説明してよ。なにがなんだか全然わかんないよ」

 聡恵はいら立ちをぶつけるように言った。

「そっか。ごめんごめん」

 ユーコーは苦笑を浮かべ、顔の前で手をあわせた。

 駅へと向かいながら、ユーコーは自分の考えを聡恵に聞かせてくれた。それは小島の推理とは異なるものだったが、確証は何もないという点では同じだった。それでも、信じられないという気持ちは残るものの、聡恵にとっては納得に値するものだった。

 果たして、ユーコーの考えていることは真実なのか――これから、それを明らかにすることになる。もし真実だとするならば、優佳の身の安全のためにも急がねばならない。

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