第一話 アパートの管理人
永福町駅に着いた聡恵とユーコーは、すぐさま目的地に向かった。道筋は前回訪れた際に頭に入っていたので、もうアプリに頼る必要はなかった。
だが、駅周辺の雰囲気の違いに若干戸惑ってしまった。前に来たときは深夜だったので閑散としていたが、夕暮れ時である今は帰宅途中の人々や車の往来が多い。踏切を渡った先、数々の店がたち並ぶ通りは、緑色に塗分けられただけの狭い歩道からはみ出して歩く人々や、ふらふらと蛇行する自転車の姿が目立つ。車の速度が三十キロに制限されているのはこういった交通状況を踏まえてのことだろう。聡恵とユーコーは安全に気を配りながら、できる限り歩を速めた。
一方、住宅街に入ると、ときおり犬の散歩をする人とすれ違うくらいで、基本的に静けさが保たれていた。
やがて、二人は優佳の下宿先の前に到着した。アパートは両隣の建物に日光を遮られ、一足先に日の入りを迎えていた。そのせいで、ここだけ一層ひっそりとした佇まいに感じられた。
ユーコーが一〇二号室のインターホンを押す。予想通りというべきか、応答なしだった。前回と同じように扉の下からユーコーが書いたメモを入れてみたが、今度はこの手も奏功しなかった。
聡恵はユーコーの顔を見て聞いた。「出かけてるのかな?」
「どうだろ……」
呟いて、ユーコーはおもむろにドアノブに手をかけた。
結果、ノブがガチャリと音をたてただけで扉は開かなかった。当然のことだが、鍵がかかっていた。
ユーコーは腕を組んだ。「管理会社に連絡して、鍵を開けてもらうよう頼んでみるか――」
「できるの? そんなこと……家族でもないのに」
「ま、難しいだろうね」ユーコーは苦笑した。「でも、やるだけやってみよう。どこかに連絡先、書いてないかな?」
連絡先を探して、聡恵とユーコーはアパートの表に回った。すると、ポストの横に居住者に向けた掲示板があるのを見つけた。そこに貼られた『居住者の皆様へのお願い』という文書の下部に、管理人の連絡先が記されている。小島好子。個人名だった。どうやら管理会社を入れず、大家さんが直接管理しているらしい。
「ここにかければいいんだな」
ユーコーはポケットに手を突っ込んだ。そして、「あ」と口をぽかんと開けて固まった。
「スマホ持ってくるの忘れたみたい……」
ユーコーはばつの悪そうな顔でつぶやき、こちらに視線を向けてきた。
「――いいよ。私がかけてみる」
仕方のない人だと思いつつ、聡恵は書かれている連絡先の番号を入力し、発信ボタンをタップした。
コール音が鳴り始めた。ユーコーにも聞こえるように、ハンズフリーに設定する。
しかし、しばらくコールしてもなかなかつながらなかった。
不在なのだろう――そう思って聡恵が切ろうと思った矢先、プツリと音がした。
「はい。小島でございます」女性の声が聞こえてきた。
「あ、すみません、えっと――」
不意を突かれた聡恵は、言おうとしていたことが頭から飛んでしまった。だが目の前の掲示板に書かれたアパート名が目に入り、なんとか我に返った。
「あの、タウンコート永福を管理されている方ですか?」
「はい、そうですが。どうされました?」
小島と名乗った女性は、丁寧かつやんわりとした口調で聞いてきた。声質からすると年配の女性といった印象だ。怖そうな相手ではなさそうなので、聡恵はちょっと安心した。
聡恵は言った。「一〇二号室に横江さんっていう女性が住んでますよね? 私、横江さんの友人の花菊といいます」
「はあ……」要領を得ない、といった相槌が返ってきた。
「最近、横江さんの様子がおかしかったので、心配になってアパートを訪ねてきたんです。でも、インターホンを鳴らしても返事がなくて。まあ、単にいないだけなのかもしれないんですけど……どうしても部屋にいるかいないかを確かめたいんです」たどたどしい説明をして、聡恵は本題を切り出した。「だからその――部屋の鍵を開けてもらうことはできないでしょうか?」
「ええ?」小島は驚きの声をあげてきた。「それはちょっと……難しいわねえ」
「そうですよね……」
自分でもありえない頼み事だと思う。これで了承してしまうようなら、入居者は安心できない。管理人として問題ありだろう。
小島は告げてきた。「警察の依頼なら応じるけれど……でも最近じゃ、警察になりすまして詐欺をはたらく輩もいるっていうからねえ。こちらから警察署に電話して、事実を確認してからじゃないと対応できないわね」
よくある詐欺の手口について、きちんと知識があるらしい。オレオレ詐欺に簡単にひっかかることはなさそうな人だった。
「あの……家族からお願いしてもダメですか?」聡恵は聞いてみた。
「場合によるわね。直接お会いして、本当にご家族だってことを確認しないと……住民票と免許証があれば、間違いないわね」
聡恵は落胆した。最後の手段として、多佳子から電話をしてもらえばいけるかもしれないと思ったのだが、それもだめそうたった。用心深いのは決して悪いことではないが、今の聡恵にとっては厄介でしかなかった。
「横江さんのお母さんは千葉に住んでるんです。すぐには来られません。それに今日は土曜で役所は閉まってるし、住民票も用意できないですよ」
苛立ちから、聡恵は若干険のある言い方をしてしまった。
「まあ、そうよね……」小島は気圧されたような声を返してきた。
聡恵はつづけた。「今日、みんなで集まる予定があったんです。でも、直前になって横江さんから急用ができていけないって連絡があって――はじめは、だったら仕方ないかと思おうとしました。でもやっぱり、本当は何かあったんじゃないか、っていう疑いが晴れなくて……顔を見て、無事を確かめない限り、それが消えることはないんです。なんとかお願いできませんか」
聡恵は感情の赴くままに訴えた。第三者からしたら、なかなか理解できない心情かもしれない。それでも、この思いが伝わってくれれば――。
しばしの沈黙が流れた。聡恵は息をのんで小島の反応を待った。
やがて、小島の穏やかな声が聞こえてきた。「ここまで心配してくれる友達がいるなんて、横江さんは幸せ者ね」
言い方からして、どうやらこちらの気持ちは理解してもらえたらしい。しかし、要望を受け入れてもらえたのかまではまだ微妙なところだった。
小島は聞いてきた。「いま、アパートの近くにいるの?」
「はい。表のポストの前にいます」
「そう。ひとり?」
「いえ、もうひとり友人と一緒です」
「女の子かしら?」
「いえ、男性です」
「あら、そうなの……」
それは困惑交じりの声だった。こちらへ出向いてきてくれる気にはなったものの、男性が一緒だということがわかり、なんとなく怖さを覚えて躊躇したのかもしれない。
すると、ユーコーが手のひらを差し出してきた。電話をかわれと言いたいのだろう。
聡恵は聞いた。「すみません、友人がお話したいと言ってるんですが、いいでしょうか?」
「ええ……」
戸惑いながらも小島は了承してくれた。聡恵はユーコーにスマホを手渡した。
「こんばんは、風山といいます」
「どうも……」
「ご無理を言ってすみません。僕らはただ、横江さんの無事を確かめたいだけなんです。何か悪さをしようっていう気は全くないので、ご安心ください」
ユーコーは柔らかに言った。
「そう――」
短く言って、小島はしばらく間をおいた。
「信用したいんだけど、やっぱりおかしい気もしてね。疑うようでごめんなさいね」
「いえ、当然のことだと思います。確かに、最近は巧妙な詐欺が増えてますから。どうしたら信用していただけます?」
「そうね……せめて、あなたたちが横江さんと本当に親しいってことがわかれば。なにか――楽しそうに一緒に写っている写真とか、ないかしら?」
小島に聞かれ、ユーコーは尋ねるような視線を聡恵に向けてきた。
そういえば、優佳と一緒に写真をとったことはまだなかった。聡恵は首を振って答えを返した。
ユーコーはいった。「すみません、写真はないです」
「携帯電話でとったものでいいのよ?」
「いや、そもそも一緒に写真を撮ったことがないんです」
「そうなの?」小島は意外そうな声を発した。「親しい仲なら、一度くらい写真をとる機会があってもいいと思うんだけど」
「まあ、まだ知り合ってからそう長くないので。今後はそういう機会もあると思います」
そんなこと正直に言わなくていいのに……聡恵はなんだか雲行きが怪しくなってきたような気がした。
「――古くからの付き合いじゃないの?」案の定、小島は不審そうな声を出してきた。
「はい。知り合ったのは一週間ちょっと前ですかね」
「一週間って……それで親しいって言えるって、一体どういう関係なの?」
「最初に話をさせてもらった花菊は、横江さんの大学の後輩ですけど……知り合った時期は僕と一緒です。まあ表向きは、ダンスを通じて知り合ったことになりますね」
ユーコーは相変わらずな調子であけすけに話した。聡恵は額をおさえた。もはや雨どころか、嵐になりそうにさえ思えた。
「表向き……? じゃあ裏があるってこと?」
はじめは物腰柔らかだった小島だが、今やきつい口調に変わっていた。
「いや、別に変な事情があるわけじゃ――」
「もういいわ」小島はユーコーの言葉を切った。「話を聞けば聞くほど、うさん臭く思えてきた。帰って頂戴」
「待ってください!」
すかさず、ユーコーは叫んだ。そのおかげか、電話を切られずにすんだようだった。
ユーコーは真顔になって話しはじめた。「たしかに知り合ってからまだ短いですけど、親しい仲なのは本当なんです」
「――それは、あなたがそう思っているだけ。親しいっていうのはね、長いときを一緒に過ごすことで、お互いの人となりがわかって、はじめてそう言えるのよ」
小島は説教のように告げてきた。
「短い時間じゃ親しくなれないと?」
「当たり前でしょう」
「そうですか……わかりました」
それ以上、ユーコーは食い下がらないつもりらしかった。すなわち、優佳と懇意だということの証明を諦めたということだ。もはや万策尽きたか――。
聡恵がそう思った矢先、ユーコーがおもむろに切り出した。「でも、そもそも誰かを心配するのに、その人と親しいかどうかって関係ないですよね?」
「なに? 開き直るつもり? いい加減白状したらどう?」
小島の詰問も意に介さず、ユーコーはつづけた。「いろいろあって、僕らは横江さんが深刻な悩みを抱えていることを知りました。だから力になりたいと思って、横江さんに会いに行ったんです。それが本当の知り合ったきっかけです」
「どうしてそこまでするの? なにか企んでいるからでしょう?」
「逆に、どうしてそう思われるんです? 困っている誰かを助けたいと思うのは自然なことじゃないですか?」
「それはそうだけど……限度があるわ。親しくもない人の家を訪ねていって、鍵を開けろなんて、常識外れもいいとこよ」
「僕は、常識というものがすべて正しいとは思ってません」
ユーコーはきっぱりといった。
「常識が邪魔をして、悪い結果をうむこともあります。もし横江さんが中で倒れているとしたら、一刻も早く助けないといけない。でもあなたのいう常識に従っていたら、手遅れになるかもしれません」
「大した妄想ね……」小島は失笑まじりに告げてきた。「いざ部屋に入ってみたらなんともありませんでした、だったらどうするの?」
「そのときは、僕を警察につきだしてください」
ユーコーは躊躇なく言い放った。
「つきだすって、そんな……」小島は言い淀んだ。
「お願いします」ユーコーは畳みかけた。「そばで監視してもらって、不審な動きがあったら、すぐに一一0番してもらって構いませんから」
沈黙がおりてきた。いま、小島のなかで審議が行われているところなのだろう。
しばらくして、小島が落ち着いた口調で言った。「――ちょっとお願いを聞いてもらえるかしら?」
「なんでしょう?」
「アパート左隣の家の、門の前に立ってもらえる?」
意図がわかりかねる願い出だ。そう思う聡恵をよそに、ユーコーは「わかりました」と言ってもう歩き出していた。聡恵はそのあとを追った。
アパートの左隣の敷地は石塀で囲まれていて、面積はかなり広そうだった。門にあたる部分は、庇でつながった門柱のあいだに、家紋のような装飾の施された鉄格子の門扉が取り付けられたつくりになっていた。門の向こうには石畳が延びていて、その先に縁側のあるひねこびた屋敷が見える。明かりがついているので、在宅中なのだろう。ここにずっと立っていたら、中にいる住人に不審に思われるかもしれない。
「立ちましたよ」ユーコーは告げた。
すると、小島はいった。「そのまま少し立っていて」
聡恵はユーコーと顔を見合わせた。いったいなんのつもりだろう。
聡恵がふと見上げると、門柱の庇の下に据え付けられた防犯カメラがこちらをとらえていることに気が付いた。左側の門柱に設けられた郵便受けには、有名な警備会社のシールが貼られている。建物のつくりは古くてもセキュリティは最新式のようだった。
そして自然と、郵便受けの上にある古ぼけた表札に目がとまった。そこで聡恵ははっとした。そういうことか――。
やがて、小島は告げてきた。「――いいわ。ちょっと待ってて」
そこで電話は切れた。
ほどなくして、屋敷の玄関の戸が開き、中から人影が出てきた。そして、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
それは、年配の女性だった。身なりや歩くしぐさに、上品さがにじみ出ていた。
「こんばんは」言って、女性は恭しく頭を下げてきた。
「こんばんは。小島さん、ですよね?」
ユーコーが聞いた。アパートの隣が管理人の家だという事実に、ユーコーも気づいていたようだった。
「はい」小島は微笑をたたえて言った。その表情からは敵対心は感じられなかった。
「あの……僕たち、信用してもらえたと思っていいんですかね?」ユーコーはおずおずと尋ねた。
「ええ」小島はうなずいた。「私も、人の本質は善であると思っているから。それに、もし詐欺師だったら、もっと巧妙にやるわよね。あなた、言っていることが無茶苦茶だから、逆に怪しくないと思えたの。見たところ、悪いことをするような人にも見えないし――これで悪人だったとしたら世も末だわ」
「ありがとうございます」ユーコーは一礼してから、遠慮がちに切り出した。「早速ですが……」
「わかってるわ。行きましょう」
言って、小島はアパートに向かって歩を進めた。聡恵とユーコーはそれに従った。
一時はどうなることかと思ったが、話がまとまってよかった。
聡恵は安堵したが、同時に不安でもあった。優佳の部屋の中で『事件』が起こっている可能性――考えたくもないが、あり得なくはなかった。そんな現場に居合わせたくはない。ただ、何事もないことを祈るばかりだ。




