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41. 子守唄は、半分の曲

 冬、伯爵家の式次第に「坂の家」の行が増えた。月に幾度か、娘は大奥様の検分済みの馬車で、オーロールを連れて来るのである。坂の家の冬は、火鉢と毛布と、赤子の匂いになった。赤子の匂いというものは、乳と、日向と、それから少しだけ、焼く前のパンの匂いがする。赤子のいる部屋は、重心が低くなる。皆の声が半音下がり、歩幅が半分になり、火鉢の炭の()ぜる音まで、遠慮がちになるのである。


 あの人はと言えば、白い札を、今度はすんなり書いたのである。卓に紙が出て、四半刻(しはんとき)で字が載った。三日固まった夏至の年から思えば、大変な進歩である。


『子守唄を、ひとつ覚える』


 札の理由を訊いたら、「抱くのは、覚えました。次は、下ろし方であります」と真顔で言う。抱いたまま朝を迎えた男の、切実な戦訓である。


「……持ち歌が、行進曲と点呼しかありません」


 問題は、そこから先だった。行進曲を子守唄の速さでやると、若が遠吠えで唱和する。点呼を小声でやると、赤子は目を見開いて、真剣に聞く。寝ない。聞き入って、寝ないのである。聴衆の資質としては満点、子守唄の戦果としては全敗だ。ちなみに聴衆その二の若は、点呼に耳を立て、行進曲に唱和し、審査は毎回辛口である。


「歌詞のある歌を、何かお持ちでないの?」


「軍歌が、三十八番まで」


「駄目よ。この子の最初の言葉が『突撃』になるわ」


 わたくしが唄えばよい、という話では、あるのだ。あるのだけれど、あの人の札である。願いは、自分の喉で叶えるものだ。わたくしは針仕事に戻る顔をして、耳だけをそちらに残しておいた。四十年、欲しいものを訊かれない持ち場に立った人が、いまは赤子ひとり寝かせる歌を探して、狭い居間で立ち往生している。この立ち往生が、わたくしは存外、好きなのである。


 六日目の晩である。娘たちは泊まりで、オーロールは宵から機嫌が悪かった。あやし歩きの当番が、あの人に回る。大きな体が、狭い居間を、ゆっくり、ゆっくり、行って戻る。火鉢の灯りが、壁に大きな影を往復させる。窓の外は雪明かりで、家の中は炭の色である。歩調が、いつもの巡回の足取りから、少しずつほどけていく。そして――鼻歌が、漏れた。


 針を持つ手が、止まる。聞き覚えのある節である。当たり前だ。四十年前に半分だけ踊った、あの曲なのである。


 あの日の広間の匂いを、覚えている。蜜蝋と、緊張である。半分で途切れた曲の続きを、それきり、どの楽団も弾いてくれなかった。それが四十年経って、下町の狭い居間で、編曲つきの続きが流れている。


 夏至の輪舞の曲の四拍子をほどいて、揺りかごの速さに直した鼻歌である。本人は、気づいていなかったと思う。四十年、あの人の中で鳴り続けた曲は結局この一曲きりで、困り果てた袖から出てきたのも、この曲だったのである。半分で止まった曲の続きを、わたくしは輪舞で受け取った。この人はいま、続きのそのまた続きを、揺りかごの速さで書いているのだ。


 オーロールは、三節で陥落した。


 握った拳はそのまま、眉間の皺だけ先にほどけて、それから全部が緩んだ。あの人は歩を止めず、曲も止めず、わたくしと目が合って、初めて自分の鼻歌に気づいた顔をした。気づいた顔のまま、最後まで歌ったのである。


「……成就の検分を」


 囁き声である。わたくしも、囁きで応じた。


「異常なし。――陥落ですわ」


 札は、その晩の竈で燃えた。書いて六日目、期限の内である。半分で切れた曲は、続きを輪舞で踊ってもらい、今度は子守唄になった。曲というものは、最後まで行けば上出来――最後が何度もあるのは、もっと上出来なのである。灰の上で、わたくしは胸の内だけで、四十年前の新兵に報告をした。あなたの曲は、三代目の勤め先が決まりましたよ。


 真冬には、雪見の酒の二年目があった。約束どおり陛下は貸しの回収にお見えになり、膝の上の特等席は若と赤子の争奪になって、勝者は赤子である。若は火鉢の向こうで、この世の不条理という顔をしている。四十年目の友は、茶碗を片手に、眠るオーロールの顔を長いこと検分して、仰った。


「そなたの箱は、また増えたな」


「ええ。……箱ではなく、家族が、ですわ」


「同じことであろう」


 同じこと、らしい。御明察である。帰り際、陛下は眠っている小さい額へ指を一本だけ触れさせて、よい拍子だ、と寝息の検分までなさるのである。


 早春には、誕生日が来た。五十七歳である。娘が祝いの言葉を言いかけたので、今年も先回りをした。


 娘は「今年こそ先に言わせていただきますわ」と息巻いていたのである。息巻く口が開くより、こちらの口の方が早い。


「あら、五十七。……急ぎませんの。ただ――」


 ただ、この子の初歩きには、間に合いたい膝である。急がないことと、待ち遠しいことは、両立するのだ。五十七歳、悪くない。膝は鳴るが、鳴る膝には来年も出番の予定が詰まっている。


 早春の夕、あの人が卓に図面を広げた。的当ての設計図である。


「三訂版であります。七つの検分官の御指摘を、全て反映しました」


 祭りが、また近いのである。

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