15. 王太后陛下と、市場を歩く
マルグリット王太后陛下。わたくしが十六の歳、行儀見習いとして仕えた元王妃である。扇の上げ下ろしから、廊下の歩幅から、そもそも名前の覚え方を教わったのも、あの方の御前であった。その方が――背筋だけで人を黙らせる方が、離宮の裏門に、女官の古着らしい地味な外套で立っていらした。
胸の奥で、十六のわたくしが反射的に背筋を伸ばす。この方の御前で覚えたことは、身体の深いところに彫ってあって、三十九年経っても消えないのである。扇の上げ下ろし、歩幅、名前の覚え方。……いまのわたくしの半分は、この方の授業でできている。
「……息災か」
「ご覧のとおりに」
「聞いておる。夫を捨てて、紙を燃やして回っておると」
「捨てられたのですわ。おかげさまで」
「ふ」と、王太后は笑いを鼻から逃がされた。「良い顔になった」
今朝の札は『誰かの「いつか」を、ひとつ叶える側になる』――五十歳の字。袋を混ぜたのはわたくしだけれど、運の段取りも、ここまで来ると役者である。
五十の年を、思い出す。若い侍女が、いつか船に乗ってみたいのです、と言ったのを、わたくしはたしなめてしまった。夢は分をわきまえて、と言う側に、いつの間にか回っていたのである。娘の夢を折る声が、義母の声と同じ節をしていた。その夜の自己嫌悪で書いたのが、この札だ。願いは叶えてよいのだと、今度は誰かの隣で証明すること。三十三年ぶんの、詫びである。声というものは、住み替える。折られた側だったはずの喉に、折る側の節が、いつのまにか居着いている。あの夜ほど、自分の声が怖かったことはない。……だからこの札は、三十七枚の中で、いちばん薬の味がする。
さて。お忍びの支度に、護衛殿は人生最大の胃痛を得ていた。夜明け前に道筋を三度検分し、衛兵の詰所を諳んじている。北と、東と、南。
「西は?」
「西は、離宮ですので」
どこかで伺った問答である。それから彼は、最後の抵抗を試みた。
「陛下。せめて、供を十」
「ならん」
「……五」
「ならん」
値切りの下手なわたくしにも分かる。この交渉は、分が悪い。
「……三」
「そなた一人で足りよう、隊長。四十年、良い立ち姿であった」
王太后陛下は、近衛の顔を覚えておいでである。護衛殿は雷に打たれたような直立不動になり、以後、反論を諦めた。四十年の背筋が、あの方の一言で報われていく横顔を、わたくしは少し得意な気分で眺める。得意がる筋合いは、ないのだけれど。
晩秋の門前市は、焼き栗と干し柿と新酒の匂いがする。人混みの中の王太后は、ただの上背のあるお年寄りで、それがご本人には何よりの馳走であるらしい。わたくしはその半歩後ろで、人波に紛れる稽古の先輩面をしている。名前と肩書きを置いてくる旅の、これが功徳である。誰でもない者同士は、市場では、いちばん自由な身分なのだ。焼き栗の袋を裸の手で受け取り、熱さに目を丸くして、隣のわたくしの手つきを盗み見てから、殻を割った。
「歩きながら、ですのよ、陛下」
「……行儀が悪い」
「ええ。それが美味しいの」
栗屋の親父が「ばあさん、熱いから気ぃつけな」と声を掛け、護衛殿の顔から色が消えた。当のご本人は、ばあさん、と小さく繰り返し、六十年ぶりというお顔で笑ったのである。その笑い方に、わたくしは目の縁が緩む。願いというものに、身分の上下はない。七十七の王太后の「いつか」も、五十四の出戻りの「いつか」も、焼き栗の殻の前では同じ目方なのである。
飴細工の屋台では、雀の形をひとつお求めになった。しかも一言、「まけよ」。親父がつられて二割まける。わたくしが旅に出てからこのかた、一度も出来ずにいることを、この方は一言でなさる。
「お上手ですのね」
「威厳と値切りは、両立するものよ?」
覚えておくことにする。王太后陛下は雀の飴を日に透かし、しばらく黙って眺めておいでだった。日に透けた飴の向こうに、どんな景色を見ておいでかは、伺わない。五十年、堀の内から匂いだけを受け取ってきた方である。取り戻す速さを競う相手としては、わたくしなど、まだまだ若輩なのだ。
市を三往復して、新酒をひと舐め。石段に並んで休む段になって、王太后はぽつりと仰った。
「五十年、玉座の隣から市を見ておった。匂いだけが、堀を越えて届くのでな。……今日、ようやく答え合わせよ」
「いかがでした?」
「匂いのとおりであった」
それから、わたくしの膝の文箱を見て、目を細められた。
「……わたくしの箱も、作れるかしら」
「紙と、諦めの悪さがあれば」
「諦めの悪さなら、五十年ものがある」
帰りの裏門で、女官が盆に載せた包みを捧げて追ってきた。礼である、と仰る。わたくしは膝を折って、辞退した。
「借りは作りませんの。旅の決まりですわ」
「では、貸しにしておこう」
「まあ、怖い」
辞退しながら、胸の隅で気づいている。借りは作らない、と決めたこの旅の決まりは、三十七年の裏返しである。あの屋敷で受け取るものには、みんな、値札の裏に義理が縫い付けてあった。ただで受け取らない自由は、ただで差し上げる自由と、同じ袋に入っているのである。
離宮の門が閉まると、護衛殿が長い長い息を吐いた。任務完了、と魂の半分ほど抜けた声で言う。四十年の勤めでも、王太后の買い食いの供は初めてであったらしい。
宿の火で、五十歳の字を燃やした。叶える側というのは、叶えてもらうより少し照れくさくて、ずっとあたたかい。あの夜たしなめてしまった侍女は、いまごろ、どこかの海の上にいるとよい。三十三年、喉に刺さっていた小骨が、焼き栗の匂いと一緒に、するりと抜けていった。
「残り、二十枚」
――ときに、市場でひとつ、噂を拾っている。モンフォールから急ぎの買い付けが来ておるが、猟祭半月前だというのに、肉も酒も樽ひとつ手配がついておらんそうな。受けるな受けるな、あの家はいま、誰が差配しておるのか分からん――商人たちは、声も潜めずそう言い合っていた。
秋が、深まる。あの家のいちばん長い秋が、そろそろ山場を迎えるらしい――。




