14. 山の上の、一番早い光
七週の逗留を畳んで、南街道は峠にかかる。ついでに山も登ってみることにして、麓の村で案内人を頼んだ。岩塩のような白髪の山じいで、引き受けの返事がまず「話さんぞ」であった。
「結構よ」
「…………」
「……よろしくお願いします」
無口が三人、峠道を登る。会話の総量は、昼までで都合十語である。静かなこと、山のようである。
今朝の札は、秋の袋から『山の上で、夜明けを待つ』――四十六歳の字。添え札に、いつでもの袋から『髪を下ろして、一日過ごす』四十三歳。
四十六の年、わたくしは夜明けを何百と見て、一度も見ていなかった。夜明けはいつも、誰かの朝餉の、誰かの出立の、誰かの狩りの支度の背景で、窓の外を勝手に明るくなっていくものだった。一番早い光を、それだけを目当てに待つ朝は、五十四年にひとつもない。……ならば、一番高いところで待つに限る。段取りの女は、そういう思い切りをするのである。
登り口で、まず留め針を全部抜いた。添え札は、朝から使ってこその一枚である。結い上げは女主人の顔――その顔を、今日は一日、山にあずける。白髪まじりの栗色が、肩で好き勝手に泳ぎ始めた。四十三の年に諦めた、結い上げないわたくしである。頭皮から、細い重さが順に引いていく。針の目方など、たかが知れている。抜いてみて分かるのは、あれが針ではなく、役目の重さだったということである。結い上げた頭は女主人の顔。ほどいた髪は、誰でもない女。誰でもない女の頭は、山風と同じくらい、軽い。
登りは、膝との交渉である。落葉松が黄金に染まる道を、一歩、また一歩。吐く息が白くなり始め、霜の降りた根が滑る。
「膝にも、三十七年分の言い分がありますの」
「休みますか」
「いいえ。交渉しますの」
「……おぶいます」
「却下ですわ」
一往復で済むあたり、この護衛殿も学習していらっしゃる。膝の言い分は、道々、ちゃんと聞いてやることにしている。痛むのは、三十七年働いてくれた印である。責める筋のものではない。なだめて、汲んで、それでも登る。身体との付き合いも、存外、家の切り盛りに似ているのだ。
中腹の岩で握り飯を分け、山じいの水筒の茶をもらった。とはいえ最後の岩場だけは、差し出された手を借りる。手袋越しにも分かる、稽古の日と同じ、乾いた熱である。借りた手は、岩を越えたらすぐ返す。返すときに、ほんの半拍、惜しくなる。……この半拍のことは、どの札にも書かないでおく。書かない理由も、書かない。手袋越しの熱は、岩の冷たさより長持ちして、下り坂の途中まで、手のひらの側だけ冬が来ないのである。
尾根に出ると、風が変わった。下ろした髪が山風に躍って、頬を打つ。鬱陶しくて、心もとなくて、それが存外、自由の味がする。風に髪を渡すたび、結い上げの三十七年が、ひと筋ずつほどけていくようである。
「髪は結わんのか? まぁその方が若いがの」
山じいが、本日の十一語目を使った。
「今日だけは特別なんです」
「……」
護衛殿は何か言いかけて、口を閉じ、視線を稜線へ逃がして、
「……風が、出ています」
と、天気の報告をなさった。ええ、出ていますとも。頬がぬるいのは、風のせいということにしておく。
夜は頂の下の岩小屋で、焚き火を挟んで待った。旅嚢からは毛布が三枚と、火で温めた石を布でくるんだのが出てくる。山の夜への備えは万全で、万全すぎて、山じいが「宿より上等じゃ」と十五語目を使った。下ろしたままの髪が、毛布の襟から勝手にこぼれて火に照る。一日、下ろし通した髪である。山の夜は音が少ない。火の爆ぜる音と、遠い獣の声と、山じいの寝息。星が、湖で見た夜より、ひとつずつ大きい。音が少ないと、胸の内の音が大きくなる。三十七年、わたくしは静けさが少し苦手だった。静かな時間は、次の段取りで埋める決まりにしていたのである。埋めない静けさの底に、こんなに大きな星が沈んでいたとは。
やがて、東の稜線が薄くほどけ始めた。
藍が、灰に。灰が、薄い金に。最初のひと筋が稜線を越えた瞬間、向かいの山襞がいっせいに目を覚まし、谷底の霧が光の色に染まった。世界の朝というものが、こんなに大きい仕事だったとは。わたくしは息を止めて、それから、わざと大きく吸った。一番早い光は、冷たくて、少しだけ甘い。目の奥が、薄く痺れる。美しいものは、少し痛いのである。この痛みを、わたくしは五十四年、朝餉の指図の向こうに置き去りにしてきた。
窓の内の四十六歳へ。あなたの夜明けは、逃げてなどいませんでしたよ。ここで、これだけの大きさで、毎朝ちゃんと開演していましたの。
隣の岩の上で、堅物が同じ光に目を細めている。四十年、夜明け前の持ち場に立ち続けた人は、夜明けの味を知っているのだろうか。今度、訊いてみることにする。訊く、と決められる問いが増えていくのは、旅の功徳である。訊けない問いは、まだ胸の底に一枚。……夜明けの谷に免じて、今朝は数えないでおく。
「……見ましたわ。ちゃんと、この目で」
誰の背景でもない夜明けである。四十六歳のわたくし、お待たせしました。
朝の焚き火で、二枚が灰になる。
「残り、二十一枚」
◇
下山した峠の茶屋で、山じいは驚くほど饒舌になった。茶屋の親父と、王都へ上る旅商人を相手に、身振りつきで語るのである。紙をな、一枚ずつ燃やすんじゃと。倅ほどの歳に諦めた望みを、ばあさまが山の上でひとつずつ拾い直すんじゃと。旅商人は手帳に何やら書きつけ、膝を打った。
「そりゃあんた、さしずめ――“いつか夫人”だ」
呼び名というものは、街道を馬より速く駆ける。この名が王都の客間に着くのは、半月の後である――。
◇
その晩、峠を下りた門前町の宿に、見覚えのある紋の文が届いていた。秋の離宮の紋である。文面は短い。
――人払いは、こちらでいたす。忍んで、市を歩きたい。
王太后陛下、御年七十七。……お忍びの誘いである――。




