事件の夜
倉橋家の一室。
机に向き合いながら、篝はため息をついた。
考えるのは一つ。実の娘である手毬のことだ。
「……あの子は、私に似たんだろうな」
目を閉じて思い出すのは、ずっと昔。弟が生まれる前のこと。
その頃の彼は自信と自尊に満ちていた。
古く歴史のある名家の長子として生まれた彼。いずれこの家を継ぐ者として、強き両親と同じように自分も力をつけ、力なき者たちを守る。
その為なら厳しい訓練にも、言われたことが上手くできずに地下室で折檻されても耐えられた。難しい術を使えるように多くの時間を費やした。
彼が五歳の頃、弟が生まれた。小さな弟を見た時に、彼は弟のような弱い命をを守るために、強くなることを改めて決心した。
努力を積み重ね、彼は祓い屋として実力を重ねていった。家を継ぐために扱えなければいけない術を覚え、式神との契約を達成した。それが彼が十歳の頃の話だ。
そして、彼の弟がそれらを達成したのは、五歳の頃だった。
篝の人生で、一つ不幸を上げるのなら、弟が天才だったことだ。彼の間違いは、全てそこから始まるのだから。
弟の才能に気づいた両親は、篝に関心を向けなくなった。初めのうちは、両親に見てもらうために篝は努力した。けれど、いくら努力しても弟が軽々と超えてくる。
いつしか、篝は研鑽の歩みを止めてしまった。天才にはいくら足掻いても勝てない。その事実が彼を苦しめ、孤独にした。
彼に友人はいなかった。両親は彼への関心をなくした。
けれど弟は兄を純粋に慕った。両親に愛され、愛することを知っていた弟。両親に愛されず、愛することを知らない篝。
両親に愛されない原因を彼は弟に擦り付けた。愛してくれた弟を、彼は突き放した。
そうして一人ぼっちになった彼。それでもよかった。
両親は弟を後継者にと望む。自分が血を繋ぐことを強制はしない。なら一人でも問題はなかった。弟の優しさを踏みにじり、弟に勝てない兄など、どこぞで消えてしまってもいいはずだと。
全てを諦め、意味もなく消費するかのように生きていた篝。その運命を変えたのは、一人の女性との出会いだった。
「篝様は素晴らしい人です。貴方を評価しない人間がおかしいのです。貴方は報われるべき人、どうか私に貴方を愛する権利をくれませんか」
柔らかい笑顔でそう言ったのが、現在の妻の玉代だ。
彼女は祓い屋の家系ではなく、ただの一般人。篝が彼女を助けたのが出会い。
自分で妖怪について調べたという彼女は、篝に頻繁に会いに来るようになった。空っぽだった篝の心の器に、愛を傾けて注いでくれた。篝にとってはそれは何よりの救いだった。
両親は反対はしなかった。篝に興味のない彼らにとって、篝がどこの誰と結婚しようがどうでもよかったからだ。
そうして二人は結婚した。弟が結婚したのも、そのくらいの時期だった。
愛のある結婚をした篝は、親に決められた相手と結婚した弟に憐憫の目を向ける。愛されているから、愛した者を自分で選び、結婚できない。それは可哀想なことだと。
篝が結婚して一年も経たずに両親が事故で死んだ。祓い屋は死と隣り合わせ。いつ死んでもいいように、両親は遺書を残してあった。遺書には後継者は弟に、と書かれており、倉橋家は弟が次ぐことになる。
篝が何かを思うことはなかった。結婚をして、玉代に肯定されて、彼は満ちていたから。家のことなどどうでもよいと思うまでになっていた。
二人は中々子宝に恵まれなかった。篝は子供が出来ずとも良いと考えていたが、玉代は子供を望んでいたので、二人は毎夜のように交わった。
そうしてやっと生まれた子供。玉代に似て愛らしい娘。望んではいなかったが、実際に生まれるととても愛おしかった。
きっと幸せになれる。普通の家族のように。
弟家族にも子供ができ、跡取り問題とも無縁。このまま倉橋家との縁を切ろうかと、悩むようになった篝。
そんな彼の幸せは長く続かなかった。
弟夫婦が死んだのだ。一人娘を残して。
天才がいなくなったことにより、篝の元に当主の座が回ってきた。それを拒否する選択肢はなかった。継げるのは彼しかいなかったから。
弟夫婦の一人娘を引き取り、篝は倉橋家の当主となった。その頃からだ。獣が暴れ出したのは。
「ようやく邪魔者がいなくなった」
「これでこの家は俺のものだ。手毬を次期当主にしよう」
「あの男の子供に跡を継がせてなるものか」
果たしてそれは、内なる悪鬼の声か。はたまた外から囁く女狐か。
どちらにせよ、選んだのは篝自身。例え何の理由があったとしても。虐げ、利用し、傷つけた。
香澄だけではない。当主の座に相応しい実力を持っていなかった手毬も遠ざけた。教えることを諦め、香澄を排斥すれば、必然的に当主にできるから問題ないと目を背けた。
直視したくなかったのだ。弟よりも才能がなかった自分。義妹よりも才能がない手毬。どうしても自分を重ねてしまうから。過去の後悔と向き合いたくなかったのだ。
彼はずっと逃げていた。優しさに向き合わず、甘い言葉だけを聞き、道を踏み外した。
――だからこの結末は当然だった。
「……こんな時間にどうしたんだ?」
ノックと共に部屋に入ってきた女性を見て、篝は驚く。この部屋に入る人などあまり多くない。手毬や玉代よりも、香澄の方が入る機会が多かったくらいだ。
「……差し入れを? 気を使う必要などないのに。でもそうだな、少し休憩するか」
篝は眉間を揉む。書類仕事が多いせいか、目が疲れやすくなっていた。視力も前よりも落ちている気がしている。それは老化のせいもあるのかもしれないから、病院に行くかずっと悩んでいた。
人間は生きている限り、悩みを抱え続けなければならない。寝ている時ですら、脳は稼働し続けている。
全てから解放されるのは死んだ時だ。
そして彼が、人間という形から解放される瞬間は、たった今だった。
「……はっ……?」
一種の出来事だった。胸を襲う痛み。視線を動かせば、何かが突き刺さっていた。じわじわと服に染み込む赤。
何が起きているのか、それを把握することすらできない。
そこで倉橋篝の記憶は、楽しげに笑う女の顔を最後に途絶えたのだった。




