最終話「新しい世界」
穏やかな朝だった。
窓の外では、霜の名残が草の先を白く縁取り、細い煙が一筋、森の上へ伸びていく。
煙は風に触れるたび、かすかに揺れて、薄くなり、やがて空へ溶けた。
リュシールは台所に立っていた。
火打石を打つ。
乾いた音が二度、三度。
藁に落ちた火花が、ようやく小さな舌を出す。
息を吹きかけると、赤が広がり、薪へ移り、ようやく“火”の形を得た。
魔法のない世界は、いつも少し遅い。
だが、その遅さは、何かを丁寧にするための時間にもなる。
「おかあさま、いいにおい……!」
床板をばたばた鳴らして小さな足音が近づくと、戸口から少女が顔を覗かせる。
「ええ、もうすぐよ。レア」
戸を叩く音がした。
二度、三度。
迷いのない、よく知った合図。
「来たわね」
リュシールが言うと、少女は椅子から飛び降りた。
「ヴァンサン! マリアンヌ!」
戸を開ける前から、名を呼ぶ。
扉の向こうに立っていた二人は、穏やかに笑った。
「元気そうだな、アリエノール」
ヴァンサンの声は低く、変わらない。
「背、また伸びたわね。その可愛い髪はリュシールさんに結ってもらったの?」
マリアンヌはそう言って、軽く目を細める。
「うん! おかあさまとおなじ! シニヨンにしてもらったの!」
少女――アリエノールは誇らしげに胸を張る。
「ことしは、わたしがいちばんはやく《エクレア》たべるからね」
「レア、それは競争じゃないわ」
リュシールが言うと、皆が小さく笑った。
ヴァンサンとマリアンヌは、もう旅装ではなかった。
この家を訪れるときの、決まった服。
決まった表情。
年に一度、必ずここへ来る。
それがいつから始まったのか、誰も口にしない。
台所では、最後の仕上げが進んでいる。
焼き色のついた生地。
詰められたクリーム。
砂糖が、かすかに光を返す。
「……いい匂い」
マリアンヌが言う。
「毎年思うけれど、不思議ね」
「何がだ?」
ヴァンサンが訊ねる。
「魔法が消えたのに、この匂いだけは、前よりもはっきり覚えていること」
ヴァンサンは答えず、ただ頷いた。
やがて、皿が並ぶ。
人数分、きっちりと。
それは祝宴ではない。
だが、欠けてもいけない。
「食べてもいい?」
食前の祈りが終わると、アリエノールが確認する。
魔法がなくなった後も、七精霊への祈りは残っている。
「いいわよ」
リュシールが頷く。
少女は、両手で《エクレール・ドゥ・レア》を持ち、慎重に、ひと口かじった。
一瞬、黙る。
そして――
「……おいしい!」
その笑顔の声は、毎年少しずつ変わる。
けれど、その言葉だけは変わらない。
ヴァンサンも、マリアンヌも、静かにそれを食べる。
「……年々、美味くなってるな」
それは社交辞令ではなかった。
表面の艶、香りの立ち方、指で触れたときの張り。
焼成の均一さ、歯を入れる前に伝わる軽さ。
かつては意識することすらなかった差異が、今では自然に目に入る。
「料理人が増えて、美味しい料理や菓子が増えていますからね。この生地も、去年とは配合が違うんですよ。同じ名前でも、同じ味で終わらせない。そういう競い合いが、今のエランソワにはありますから」
リュシールはそう言って、わずかに笑った。
気づけば、この国では“料理が良くなっていくこと”が当たり前になっていた。
アリエノールは、ふと顔を上げる。
「ねえ」
「なあに、レア」
「どうして、きょうはいつも《エクレア》なの?」
リュシールは、少しだけ間を置いた。
窓の外を見る。
空は澄んでいる。
「……大切な人を、思い出す日だからよ」
「ふうん」
アリエノールは深く考えず、またかじる。
「じゃあ、わたし、ちゃんとおぼえてるね」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
魔法は消えた。
けれど、世界は忘れることを選ばなかった。
だから今日も、人は集まり、同じ菓子を分け合い、名を呼ばずとも、同じ人を想う。
エレオノール。
その名は、もうどこにもない。
だが、エレオノールが望んだ世界は、甘い味の奥で、確かに生き続けている。
来年もまた――
同じ日に、
同じ場所で、
同じ匂いが立ち登るだろう。
世界は静かに続いていく。
魔法のない世界で、令嬢が作った“味”を残しながら。




