66. 握手
「――ということがあって、早いもんでもう六十年余年……大変だったが、いい思い出じゃあ。思い返しては何度力をもらったことか」
春の暖かい風がカーテンを揺らし、窓辺に置いてある花の香りを運んだ。
病院の個室で、ベッドに横になったままの老夫が、当時を懐かしむようにそっと目を閉じる。
ベッドの縁に腰掛けたまま長い話を聞いていた孫程の歳の少年が、つまらなそうに「ふぅん」と相槌を打った。
「この話、他の人にも話したの?」
「はははっ、こんな話、誰も信じやしないよ。お前さんだから話したのさ」
「…………」
怪訝な表情を浮かべる少年に、老夫がその幾重にも皺が重なった目縁を下げて微笑む。
「短い間じゃったが、あんな経験はなかなか出来るもんじゃない。元に戻ってからも健康な体で、こんなに長生きさせてもらって……本当に感謝しているんだよ――サタン」
サタンと呼ばれた少年の姿が霞み、その中から角と羽を持つ青年が姿を現す。
老夫――佐田透は特に驚くことなく、彼が完全に形を成すのを待った。
「……ケッ。オレ様を呼び捨てにするなんざ、よっぽど死にてぇみてぇだな」
「はは、最期なんだ。許してくれ」
「ふんっ……だいたい、テメェが沢山仕事作りやがったせいで、毎日働かされるハメになってんだ。どう責任とってくれんだよ」
「それを言うなら、俺だって仕事復帰出来なかったから、起業して一から始めたんじゃぞ?」
「……成功してんじゃねぇか」
「ああ……これのお陰じゃなぁ」
入院着の首元から取り出したのは、革のベルトに繋がれた若草色の小石だ。
悪意ある者達が近付けば反応するこの石に、透は何度も助けられた。
一財産築き上げることが出来たのも、ひとえにこれのお陰だと思っている。
見やすいように持ち上げると、それを目にしたサタンが瞠目した後、まるで親の敵を見るような表情を浮かべた。
「げっ、なんでテメェがそれを――いや、ベルゼか。あの野郎まだそんなモンを……」
「ベルゼは貴重な物だと言っておったが、いったい何なんだ?」
「あ? オレ様の胆石だよ。一回しかなってねぇから確かに貴重っちゃ貴重だが……」
「えぇ? サタンの胆石が俺を守ってくれとったのか?」
「胆石にそんな能力がある訳ねェだろ。それについてはベルゼが何かしたんじゃね?」
ずっと知らなかった事実を知れてすっきりはしたが、何かあるたびにサタンの胆石に頼んでいたと思うと複雑だ。
何ともいえない表情になった透を、サタンが笑い飛ばす。
「まっ、役に立ったならよかったじゃねぇか。これはこっちに残ってていいもんじゃねーから持ってくぜ?」
「あ、ああ。……皆は、元気にやっているか?」
「んあ? まァ、元気なんじゃねーの」
首から外したそれをポケットに入れながら、何かを思い出したのか「そういえば」と。
「アスタロトがなんかスゲー感謝してたぜ」
「アスタロトが?」
「おう。詳しくは知らねーが、なんかこつこつやってるぜって報告してきたからその調子だって言っておいたわ」
一番弟子が腐らずに助言を実践してくれていると知って、透の頬が緩む。
自分が居なくなっても、伝えたことはちゃんと残っているのだ。
「んじゃ、そろそろ行くかな。テメェの女も今サラと話してっから、暫くしたら来るはずだぜ」
「……サラが?」
「ああ。そっからでも見えんじゃねぇか?」
サタンが顎で指す窓の外へと目を向ける。
病院の中庭にある一際大きな桜の木の下で、透と同じく老いたラーナと最後に会ったときと変わらぬ姿のサラが談笑しているのが見えた。
「……桜、見れたんじゃな」
サラは出会った頃、桜が見たいと言っていた。
ふと思い出し零した言葉に、サタンが心外だという顔をする。
「馬鹿か。とっくに見せてやってるわ。城の庭にも桜の苗植えてっから見放題だぜ」
「お? もしや……?」
「うっせー。テメェはちゃっかり子供までこさえやがって。これからオレ様が利用してやっから」
透とラーナの間に産まれた二人の子供。
人間と悪魔の子供とはいえ、魔力量の少ないラーナから産まれた二人は、今の所見た目も成長の早さも普通の人間と変わらずにいる。
既に成人しているが――片方は子供まで産んでいる――、これから何が起こるか分からない。
言い方は悪いが言外に見守ると伝えるサタン。しっかりそれを受け取った透が、穏やかな表情を見せた。
「ああ。しっかり利用してやってくれ」
「はっ、後悔しても知んねーかんな」
そんな会話とは裏腹に場に満ちる柔らかな空気を気まずく感じたサタンが頭をガシガシと掻く。
「あ゛ークソ。調子狂うわ。もっと怖がれっつーの」
「生憎、もっと怖い思いをしたことがあるもんでな」
「ふん…………認めたくはねェが、オレにとってあれはいい経験だった」
「……そうかい。それはよかった」
ぼそっと紡がれた言葉はかなり小さいものだったが、聞きとった透が笑みを零した。
今度こそ決まりが悪くなったサタンが視線を彷徨わせるのを、ひとしきり笑った後、透は歳をとるにつれて小刻みに震えるようになった手を持ち上げた。
「こちらこそ、いい経験をありがとう。最期に会えてよかったよ」
「へっ。……じゃあな、トール」
右手と右手。
しっかりと繋がれたその感覚を残し、サタンの姿は消えていった。
――その夜。
妻と子供、まだ幼い孫に見守られ、透の人生は幕を閉じた。
眠るように穏やかな表情だった。
これにて完結です。
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