第6節:灰の街への別離
ボッと音を立てて、床に敷いてあった油染みた布に火が燃え移ります。
煙が上がり、熱気が肌を刺しました。
「嘘……」
殺意。
明確な「死」が、燃え広がる炎となって迫ってきます。
もう、言葉なんて届かない。
ここには私の居場所なんて、最初からなかったんだ。
――このままここにいれば。
アイゼンは、魔女の遺物として破壊され、溶かされて、ただの鉄になる。
私と一緒に。
でも……それだけは、嫌だった。
「……行こう、アイゼン」
私は涙を拭いました。もう、泣いている時間すらありません。
燃え広がる炎を背に、私は工房の隅にある「搬送台」を蹴り出しました。
かつて重い鉱石を運んだであろう、鉄の車輪がついた古びた台車。
膝をついて停止した今のアイゼンなら、なんとか乗せられるかもしれない。
私は倒れ込むようにして金属の棒を差し込み、梃子の原理で彼の身体を持ち上げようとしました。
「ぐ、うぅ……っ!」
私の細腕では到底無理な重さ。
全身全霊で体重をかけますが、びくともしません。
熱気が背中を焦がします。もう時間がない。
「……お願い、動いて」
私は歯を食いしばり、爪が割れるほど金属棒を握りしめました。
膝が笑い、腕が震え、視界が滲みます。
それでも。
それでも、私は――
「動けっ……!!」
喉が裂けるような叫びと共に、全体重を、魂ごと、棒に叩きつけました。
ギギギ……ッ!
何かが軋む音。
重たい鋼鉄の身体が、わずかに浮きました。
少しずつ、少しずつ、台車の方へずらしていく。
半分ほどはみ出していますが、重心は乗りました。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
肩で荒い息をつきながら、私は裏口――灰砂漠へと続く扉に手をかけました。
錆びつく蝶番が悲鳴を上げ、夜の冷たい風が吹き込んできます。
その先にあるのは、草木一本生えない死の荒野。
けれど、月明かりに照らされたその道は、ほんのわずかな「下り坂」になっていました。
かつて鉱石をトロッコで運んだ、古い輸送路の名残です。
(これなら、いけるかも……)
私は台車の前面に取り付けられた革製の引き紐を肩にかけ、前へ向き直りました。
革が肉に食い込む痛みを無視して、地面を蹴ります。
全身の体重を前に倒し、倒れ込むようにして引く。
ガタガタと車輪が鳴り、金属の巨体がどうにか動き出しました。
下り坂という重力が味方をしてくれても、それでも、鉛のように重い。
これが、私の背負う罪の重さなのかもしれません。
背後で燃え盛る我が家の熱気を感じながら、私は闇の中へと踏み出します。
水も、食料も、頼れる人もいない。
けれど、行くあてなど、他にはありませんでした。
村へ戻ることも、他の街を探すことも――私は、考えなかった。考えられなかった。
なぜだかは分かりません。
ただ、この道を間違えたら、二度と戻れない気がしたのです。
ゴウゴウと燃え盛る炎が、私の影を砂漠に長く伸ばしていました。
振り返らなかったのではありません。振り返れなかったのです。
その影の先。
何も見えない灰色の闇へ向かって、私は軋む車輪を転がし続けました。
――それが、「もう二度と戻れない道」だったと知るのは、もう少し後のことでした。
第1章 「灰色の揺り籠」 完




