第4節:救済の反転
視界が、『赤』に染まりました。テオの小さな体から溢れ出す、命そのものの色。徴収官は興味を失ったように剣を払い、震える村人たちへ冷たい視線を戻しています。
――動け。――動け、動け、動け。
私の内側で、何かが激しく脈打ち始めました。右腕が、焼けるように熱い。脳裏に、知らないはずの記憶が、濁流となって流れ込んできます。
「色彩回帰……!」
唇が、無意識にその言葉を紡いでいました。広場の中央へ駆け寄り、テオの体に触れた私の指先から、眩いばかりの『赤』が溢れ出します。それは徴収官の暴力的な赤とは違う、温かくて、けれどあまりに濃度が高い、命の原液。
光がテオの傷口を包み込み、引き裂かれた衣服の隙間で、抉れた肉体を無理やり縫い合わせていきます。地面にこぼれた血が逆流するように少年の体へと戻り、失われていた色が――いいえ、「ありすぎる」色が、彼の頬に焼き付きました。
それと同時でした。
テオに触れている私の指先から、急速に「色」が失われていったのは。
まるで水に溶ける絵の具のように、私の肌の色が抜け落ち、骨の輪郭がうっすらと透けて見えるほどに透明になっていく……。命を注ぎ込んだ代償として、私という存在そのものが、希薄な幽霊のように漂白されていくのです。
灰色の世界の中で、テオの頬だけが目が痛くなるほど鮮烈な朱に染まり、私の手だけが凍りついたように透き通っている。それは「治癒」というにはあまりに暴力的で、美しいというよりは、恐ろしい光景でした。
……しん、と。世界から音が消えたような、静寂が訪れました。テオの指が、ぴくりと動きます。
「……マ、シロ……?」
彼は弱々しく、けれど確かに息をしていました。私は、崩れ落ちるように彼を抱きしめます。よかった。間に合った。村人たちからも、奇跡を目の当たりにした安堵の吐息が漏れました。
テオの瞳が、私の顔を映して揺れています。彼は私の腕の中で、微かに口の端を持ち上げ――いつものように強がって笑おうとしました。
「へへ……泣くなよ、ブサイクだな……」
その温もりを、私は一生忘れないでしょう。
――けれど、その直後でした。
テオの瞳が、限界まで見開かれました。
「やめろ、来ないで……ッ! 赤い、赤が多すぎる! 母さんが、手が、サラサラになってッ!!」
テオが私の腕を振りほどき、自分の頭を掻きむしりながら叫び声を上げました。
彼が見ているのは、私ではありません。
塔への上納が絶たれ、飢えと渇きに狂った大人たちが、互いの『色』を奪い合った夜。僅かな血の赤を求めて獣のように這いずり回る隣人たちと、彼らから自分を庇い、最後の色を吸い尽くされた母親の最期。
自分を抱きしめてくれた温かい腕が、みるみるうちに血の気を失い、ひび割れ、最後は乾いた砂となって指の間からこぼれ落ちていく、あの絶対的な喪失の感触。
色彩を取り戻してしまった彼の眼球には今、鮮烈すぎる「他者の殺意(赤)」と「愛する者の砂化(死)」が、悪夢のような解像度で突き刺さっている。
蘇った鮮烈な恐怖と絶望が、少年の小さな脳髄を焼き尽くしていく。私が戻したのは、命だけではありませんでした。モノクロの「忘却」という名の救済すらも、無理やり剥ぎ取ってしまったのです。
「……見ろ、あの腕を!」
「アイツだ、アイツがテオに呪いをかけたんだ!」
誰かの悲鳴に、私はハッとして自分の右腕を見ました。透き通ってしまった白い肌の下を、どす黒い異物が這い回っていました。血管に沿って走るその黒い結晶は、まるで私の命を吸い上げて咲こうとする、死の花のつぼみのようでした。
ドスッ。鈍い音と共に、私の肩に衝撃が走りました。足元に、投げつけられた石が転がります。
誰かが息を呑みました。
誰かが目を逸らしました。
生き返ったテオの絶叫が輝く広場で、村人たちの眼差しが、恐怖から明確な「敵意」へと変わっていくのを、私は肌で感じました。
「……蘇らせた、のに」
そう呟いた誰かの声が、私の耳に刺さります。私が触れたテオの頬に、さっきまで無かった不自然な“色”が焼き付いているのを、みんなが見てしまっていた。生き返った証拠。――同時に、私が何かをしたという、証拠。
「……魔女だ」
「……殺せ」
ついに、誰かが呟きました。
「魔女を殺せ! 呪いが伝染るぞ!」
殺意の波が、一気に膨れ上がります。ここにいてはいけない。




