幕間 「碧(あお)き沈黙、水底の司書」
湖の水位が下がり、かつて沈んでいた図書館の上層部が、孤島のように水面に顔を出してから、幾ばくかの時が流れた。
その内部。
割れたガラスのドームに、静かな時間が流れている。
コツ、コツ。
瓦礫の山を歩く音。
かつての絢爛な装束も、塔への盲目的な信仰も、今はもう……ここにはない。
残ったのは、バラバラになった言葉の群れと、それらを正しい棚へ戻さなければならないという、私の奥底に刻まれた「ただ本が好き」というプログラムの残響だけ。
私は、泥にまみれた本を拾い上げ、パンパンと叩いた。
「……汚い」
たった一言。
私は無表情のまま、布で表紙を拭い、銀の針を、古い羊皮紙に突き立てる。
「……壊すのは一瞬。直すのは、永遠。……人間は、コストパフォーマンスが悪い」
呟きは、誰に届くこともなく水面に溶ける。
私が縫い合わせているのは、破れた物語の一部。
そこから漏れ出そうとする淡い青の記憶を、ひと針ずつ、丁寧に封じ込めていく。
私は、ただの「司書」になった。……それも、悪くない。
静寂。それは最も優れた読書環境。
それを、野蛮な足音が踏み荒らす。泥のように濁った色の男たち。
「おい! 誰かいるのか!?」
ドカドカと、乱暴な足音が静寂を破った。
入ってきたのは、街から来た盗掘屋の男たち。
「すげぇ! 本の山だ! これなら燃料になるぞ!」
「紙は高く売れる。全部袋に詰めろ!」
……不快。
言葉を、知識を、ただの「可燃物」としか認識できない短絡的な思考。
彼らが汚れた指を背表紙にかけた瞬間、私の思考よりも先に、指先が分厚い辞書を弾き飛ばしていた。
「痛ってぇ!? なんだ!?」
「……触るな」
「あ? なんだテメェ、ここの管理者気取りか?」
影の中から声を放つ。
私の瞳は、彼らの恐怖を青く、克明に捉えていた。
「……ここは図書館。静粛に。守れないなら……退館を。二度言わせないで」
「ハッ、女一人で何ができる! やっちまえ!」
男がナイフを抜く。
……予測通り。
学習能力のない生き物は、いつだって暴力で物語を閉じようとする。
「……非論理的」
私は動かない。
ただ、床に仕掛けられた旧時代の索引を起動させるだけ。
落とし穴。水没階層への直行便。
悲鳴が遠ざかり、バシャーン!
重苦しい水音が響く。
「……泳いで帰れ」
「……次にここへ来るときは、少しはマシな語彙を持って」
私は穴を覗き込む。
彼らの無様な足掻きは、私の目録には加えないことにした。
足元に、一冊の絵本が落ちていた。
「……『幸福な王子』。……趣味が悪い」
……かつての私が最も忌み嫌った、自己犠牲の物語。
けれど、今は不思議と指先がそれを拒まない。
丁寧に、補修テープでページを繋ぎ合わせる。
……あの「白き魔女」が私に残していった「呪い」のせい?
悲劇ではない結末を、無意識に探している自分がいる。
マシロという魔女に負けたから? 嗜好の変化?
サワサワ……。
風が吹き抜け、ページをめくる。
私は、その本を、指定席――「おすすめコーナー」にそっと置く。
その隣。
白く、真新しい貸出カード。
そこには、一人の名前だけが、私の手によって刻まれている。
『オーレリア』。
私の手によって、一画ずつ、丁寧になぞり書きされたその筆致は――あの日、少女が残していった「拙い署名」と、寸分違わず重なっている。
「……読みにくい。……でも、書き換えるのは、もっと無意味」
私は、カードを深い藍色の棚へ差し戻した。
「……延滞料。高くつく。……早く返しに、来なさい」
私は誰に言うでもなく呟き、また奥の書庫へ足を進める。
風が通り抜け、まだ見ぬ次の章をめくる。
あの少女が背負った「痛み」が、いつか彼女をここへ運んでくる。
その時。私は彼女を、どんな言葉で綴るだろう。……楽しみ。
そう感じている私の心拍数は、以前よりもずっと「人間」に近いリズムを刻んでいた。
幕間 「碧き沈黙、水底の司書」 完




