第4節:泥濘(ぬかるみ)の足跡
パリン、と高い音がしました。
空を覆っていた「無菌の壁」に、亀裂が入った音でした。
物理的な破壊ではありません。
管理者の精神が揺らいだことで、世界を維持できなくなったのです。
ブランシュはその場に膝をつきました。
彼女は自分の手を見つめています。
そこには汚れなどついていないのに、彼女はずっと何かを振り払うように、激しく震えていました。
「……気持ち悪い。……頭の中が、ぐちゃぐちゃする……」
「退いてください。これ以上触れれば、貴方の心まで崩壊します」
私が告げると、ブランシュは弾かれたように顔を上げました。
その目には、初めて「恐怖」の色が浮かんでいました。
私たちが強いからではありません。
私たちが、彼女の理解を超える「不潔で、不可解な生き物」だったからです。
「……例外処理。……関与を、中断します」
ブランシュはよろめきながら立ち上がり、私たちに背を向けました。
それは騎士としての敗北宣言ではなく、汚れから逃れようとする潔癖な防衛本能。
「……行きなさい、イリス。ですが、その『割り切れない毒』は、いずれあなた自身をも蝕むでしょう」
彼女は白い霧の中へ、逃げるように溶けていきました。
後に残ったのは、静まり返った雪原と、頭痛がするほどの複雑な余韻だけ……。
私は力が抜け、その場に座り込みました。
右手の藍色は、まだ静かに明滅しています。
「……へっ。インテリ同士の喧嘩は、地味でいけねえな」
ヴェールさんが雪の上に寝転がりながら、痛そうに、でもどこか清々しそうに笑いました。
風が戻ってきます。
消毒薬の匂いは消え、冷たい土と、錆びた鉄の匂いが鼻をくすぐりました。
「行きましょう。……この先に、最後の色が待っています」
私たちは再び鉄の柩に乗り込みました。
白銀の境界線を越えた先。
そこには、不気味なほど静まり返った、紫紺の夜が広がっていました。
第21章 「白銀の無菌室、割り切れぬ問い」 完




