第1節:赤い雨と、塔の影
空から降ってくるのは、恵みの雨ではありませんでした。
舌に触れたのは、乾いた鉄錆の味。
見上げると、厚い鉛色の雲の隙間から、サラサラと音を立てて『赤い灰』が舞い落ちていました。
それは私の銀髪を赤黒く染め、カラカラに乾いた唇をさらに荒れさせていきます。
足元の瓦礫は、もう何時間、同じ景色のままだったでしょうか。
かつて、ここには街があったはずです。
「……はぁっ、はぁっ……重い、ね。アイゼン」
私は、アイゼンを乗せた鉄の台車を引く革紐を、もう一度握り直しました。
擦り切れた手のひらの皮が剥け、じわりと血が滲みます。
重い。
2メートルを優に超える鉄の巨体は、一歩進むごとに車輪を軋ませ、私を地面に縫い付けようとします。
振り返っても、錆びついた彼の甲冑は、ピクリとも動きません。
それでも私は、彼を置いていくことなんてできなかった。
この痛々しい重さだけが、私が正気を保つための唯一の『愛』だったから。
これ以上、赤い灰を浴びてはアイゼンの装甲が傷んでしまう。
私は息を整えながら、近くにあった崩れかけの石造りの建物――かつて教会か何かだった場所――へと、アイゼンの台車を引き入れました。
その、暗がりの中でした。
ガタン、と。奥の瓦礫の山から、小さな音がしました。
「……っ!」
私は咄嗟に身構え、息を殺しました。
野犬でしょうか。それとも、まだ村の追手が……?
張り詰めた沈黙の中、暗闇の奥から、何かがこちらをじっと見ている気配がします。
(……逃げなきゃ)
けれど、疲れ果てた足はもう動きません。
私は覚悟を決めて、赤い灰を被ったフードをバサリと脱ぎ捨てました。
瞬間、雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、私の姿を照らし出しました。
闇に浮かび上がる銀色の髪。そして、透けるほど白い肌。
それはこの汚れた灰色の世界で、あまりに異質な色彩でした。
「……あ」
暗闇から、ため息のような声が漏れました。
気配が動きます。警戒していた「敵」は、ふらふらと吸い寄せられるように、私の目の前へと姿を現しました。
そこに立っていたのは、一人の小さな女の子でした。
大きな黄金色の瞳。
その瞳と目が合った瞬間、ドクン、と私の心臓が奇妙な音を立てました。
不揃いに切りそろえられた銀灰色のボブヘア。
その横髪には、ガラクタの山で拾ったであろう、色褪せた赤いリボンの切れ端が、不器用な結び目で留められていました。
泥だらけの頬。大きすぎるボロボロのシャツから伸びた、痩せた手足。
黄金色の瞳をしたその子は、おっかなびっくりといった様子で、けれど私の姿からどうしても目を離せないようで、ぽかんと口を開けていました。
(……見られた)
私は反射的に、右腕の『黒い痣』を隠そうとしました。
また「化け物」と呼ばれる。石を投げられる。身体が強張ります。
けれど、少女の口から紡がれたのは、予想もしない言葉でした。
「……きれい」
「え……?」
「おねえちゃん、まっしろ。……お月さま、みたい」
少女の瞳には、恐怖など微塵もありませんでした。
この灰色の世界で、誰もが「不吉だ」と忌み嫌った私の銀髪と白い肌。
それを彼女は、まるで宝物でも見つけたかのように、うっとりと見つめていたのです。
警戒心よりも、好奇心が勝ってしまった野良猫のように。
彼女は自分から一歩、私に近づいてきました。
「わたし、黄金。……みんなは、リアって呼ぶの」
「リアね、ここで『塔の落とし物』をあつめてるの。……おねえちゃんも、食べる?」
泥のついた小さな手のひらが、私に差し出されました。
そこに乗っていたのは、しなびた赤い木の実。
――いいえ、それは木の実というより、赤く結晶化した「何か」に見えました。
――ドクン、と。私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねました。
(……ああ。なんで、笑うの)
五、六歳ほどの、小さな体。いつも擦りむいている両膝。
何も持っていないくせに、私を気遣う無邪気な声が、あの日のテオと重なったのです。
いいえ――私が勝手に、重ねてしまったのかもしれません。
また、私のせいで殺してしまうかもしれない。そんな恐怖で指先が震えます。
けれど、同時に、どうしようもない衝動が私を支配しました。
「……ありがとう、リア。……私は、マシロっていうの」
震える手で、私は彼女から木の実を受け取っていました。
「ましろおねえちゃん! えへへ」
リアは嬉しそうに笑うと、衣服についた赤い灰を払いながら、壊れた天井を見上げました。
「リアね、この『あかいの』、ぜんぶ集めてるの。おとうさんと、おかあさんが言ってたの。これはね、『塔』が『はきだした息』なんだって」
リアは、無垢な声で言いました。まるで、素敵なおとぎ話でも語るように。
「おねえちゃん、知ってた? この世界の色は、ぜんぶ、『塔』のものなんだよ。……勝手に色を持ってる人がいると、『塔』のえらい人が来て、怒られちゃうんだって。だから、おとうさんたちも、色を返しに行ったの」
――色を、返しに行った?
その言葉の響きは、幼い子供のしつけのようでした。
けれど、この退廃した世界で、支配者が『色』を取り上げに来るという意味が、そんな生易しいものであるはずがありません。
ゾクリ、と。乾いた風とは違う、嫌な寒気が私の背筋を駆け抜けました。
「……アイゼン」
私はすがるように、冷たい鉄の巨体に背中を預けました。
もちろん、彼は何も答えてはくれません。
それでも、ここに留まるわけにはいかなかったのです。




