複雑な心
まさか。
彼は背中から制止する声を聞きながら大神殿の中を走っていた。走っていたと言うよりは速足で歩いていたという方が正してかも知れないが。兎も角、彼は急いでいた。時折傾きそうになる身体を必死に支えながら。意識が遠のく頭を叱咤しながら。弱った身体を無理やり動かしその場所へ向かう。
「待ってください。そのお体では――たとえ低級だとしても戦う事など到底認められません」
追いかけてきたのは侍従。神官の恰好をしているが国の文官である。
「……神殿内に怨妖が出たなら由々しき事態です。此処を統べる私が行かなくてどうするんですか? それに戦えるものも、浄化できる神官もほとんどいないでしょう?」
二年前より他国ほどではないが、この国にもジワリと怨妖の数が増え始めた。絶対数も増えているが、それよりも辛かったのは、戦闘力が底上げされていると言う事だった。
所詮戦いをしてこなかった平和な国。それほど兵力は強くなく、兵士も神官も無残に倒れていく。おまけに各国にも派遣されているために今や人手不足。この国の聖王――アドラーは何とか食い止めようと増幅装置まで持ち出し、出来る限り魔術と浄化を使いつつこの国の怨妖を退けていた。血を吐いてでも――。おかげで国内では犠牲者は少なく皆普通の生活を送っていた。
それでも、アドラーだって聖王と言えど万能ではない。基本的には人間と変わらないのだ。
取りこぼすことはある。それが大神殿と言うのは由々しき事態で在った。
「世界の終わりかもね」
アドラーは自嘲気味に呟いてから、丁度王宮と大神殿に繋がる渡り廊下で足を止めていた。
開かれた廊下の両側には美しい、光に溢れた庭。そこは一片の濁りも無いように思われ、美しい花々が咲き乱れ、蝶がのんびりと浮遊していた。
アドラーはこの光景を見るのが好きだ。『むかし』から。何も変わらない光景に一人の少女を見出して泣きそうになる。
服の中に忍ばせていたペンダントをぐっと握ると侍従を見た。
「中の回廊だったね」
「はい。報告によるとここのはずですが……聖女様もいらっしゃると――」
「へぇ」
アドラーは特に興味もなくそう言った。仮にも夫婦である。仲がいいと聞いていた侍従は眉を跳ねる。尤も、二人で一緒にと言う光景は豊穣祭以外で見たことはないが。
勘なのか、ただ思いついただけなのか、向かって右の庭に足を踏み入れるアドラーの鼻に微かな『腐臭』が過った気がした。アドラーはぱっと顔を上げるとずんずん進んでいく。その主の背中を慌てて侍従が付いていった。ちなみに侍従はアドラーの護衛でもなんでもない。ただの文官であるため、弱っているアドラーよりは少しだけ体力が上回る程度である。
そんな二人がぜいぜいと息を切らして付いた先にその四阿は在った。
小さくて白いこじんまりとした四阿に、美しい人が背を伸ばし、物憂げな表情でお茶を嗜んでいる姿はまさしく絵画そのものである。
蜜色の髪がふわりと揺れ、こちらに気付いた同色の美しい光をたたえた双眸は嬉しいと言わんばかりに輝いた。
隣にいた侍従がこくんと息の飲む音が聞こえて、アドラーは彼を下がらせる。誰もが魅了される聖女ロゼリアは今日も薔薇のように美しかった。
ただし。アドラーの心は何時まで経っても冷え切ったまま。いつかは恋に落ちると言われてもそのいつかは永遠に来ないようだ。
ただ。近くによると頭痛も吐き気もすべて消えていく感覚に『慣れること』が出来なかった。ただ、ただ。
きもちわるい。
ほとんど無意識に――あるいは癖のようにペンダントを再び握りしめていた。その様子をじっと聖女は見つめ、可憐な口を開いていた。
表面上には絵になる美しい二人で在る。
「あら、ご機嫌麗しく。探しに来てくれたのですか?」
「怨妖が出たと聞いて。大丈夫でしたか?」
笑顔を張り付けながら視線を巡らす。
美しい庭園。似つかわしくない巨体はぐたりと倒れていた。蛸殴りにされたようである。ただ絶命はしていなく、白目を剥いてぴくぴくと痙攣をしていた。
――だれが。
もちろんと言うべきか聖女にはそんな力は持っていない。神官もそうだけれど基本護られるだけの女性だ。それが当然だあると考えている節がある。ちらりと目を聖女に目を向けるが怖がる素振りもなく、平然としているのが気にかかった。
「ええ」
「すみません気を付けていたのですが」
とりあえずと一歩を踏み出し、魔術で止めた後で浄化をすると害にもなりそうもない小さな猪がぐったりと横たわっていた。もはや動くことは無いだろう。
――アドラーは何とも言えない気持ちで祈りを捧げる。このままではいいとは思わない。だけれど元から正そうと思わない自分が嫌だ。
何もなかったことには出来るはずなのに。
結局大罪人であることはきっと『繰り返しても』変わらないのだろう。自嘲気味に口元を歪める。
「……どなたかいらしていたんですか?」
ふわりと鼻を掠める香りは嗅ぎなれた腐臭でもない――花の香りのような甘い蜜。花は多くあれど、アドラーはこの花の香りを知っている。
ふわりと蜜色の髪が風に舞った気がした。
「シャロ?」
『どうしたの? アドラー』
いつかの記憶が鮮やかに蘇る。嬉しそうに細められた目。柔らかな笑みが彼女から零れ落ちて。幸せだけが満ちている。
思わず伸ばした手には無情にも何も触れることは無かった。
なにも、ない。
後ろ髪を引かれる思いでアドラーは聖女に目を戻す。
「……通りがかりの神官様が倒してくださいましたの」
何とも嘘くさい話だ。武闘派の神官は僅かですべてアドラーの顔見知りであるが、それらは今この国にはいない。
そう。とだけアドラーは言った。問い詰めた所でアドラーに話はしないだろう。そんなアドラーを見て、聖女は再び物憂げに庭に目を遣る。
「何時までこんなことが続くのでしょうか?」
何時まで――。と言う言葉にアドラーは目を伏せていた。
世界は混乱に陥っている。フィゼルからの侵攻は留まることを知らない。小さな国はそれこそ滅ぼされるまで蹂躙されていくと聞く。慈悲も懇願も取引も何もない。ただ、淡々と滅びが浸食していくようであった。
滅ぶまで。と言われている気がする。
また世界は滅ぶのだろうか。虚しさを抱えたままゆらりとアドラーは掌を見つめた。
「フィゼルの王を止めれば――あるいは」
止める。それはそのままの意味ではない。今では誰も彼も世界に住まうものはフィゼルの王。その命を狙っていた。当然のように成功したものはいない。今ではフィゼルの国全体が怨妖の巣窟のようなものだと聞いている。中々それは難しい事だ。
もちろんこの国からも指示は出していているのではあるが。どの国からも朗報――そう言っていいだろう――は未だ無い。
もっとも。止めたところでこの流れが変わるとは思えなかった。
掴んだ空気は何も残すこともなく、掌から消えていってしまう。
「封印を消せばいいのでは? 私聞きましたのよ。代々の聖王がそれを悲願にしていると」
ゆらりとアドラーは聖女を見つめた。少しだけ歪で暗い目をしていることに聖女は些か目を瞠る。いつだって穏やかで優しく、明るい双眸をしていたから。普段のアドラーとはどことなく違う雰囲気を覚えていた。
にこりとアドラーは微笑んでいた。いつものように張り付けた笑み。
「――悲願にしていたわけではないよ。先代達にはどうだっていいことだからね。はっきり言って重要じゃない。まあ、生きるついでに僕に渡すために探していた。それだけのことだよ」
「なぜ?」
「だって、すべて僕が責任を取らなきゃいけないから。この世界はね。ここで詰む。それを変えるためには――」
聖女は『だって』の意味が分からなかった。でも、詰む事だけは理解する。だが、それは聖女に取っては重要では無い。そのためにここに居るわけではいないのだから。
さあっと風が吹いていく。それがアドラーの黒い髪を軽く巻き上げていた。それを押さえることもなく、アドラーは蒼穹に目を向ける。
「シャロが僕を殺せばいいんだ」
ぽつりと零した声は静かに空間に伝播して消えていった。




