先人の記録
その日の目覚めはあまりよくなかった。
見たくもない他人の悲しい記憶の夢を見てしまったので当然だ。
なるべくそのことを面に出さないようにしていたのだが、早速、迎えに来たターフィルに「お加減が悪いのですか?」と訊かれてしまった。
ファアルにも体調を心配され、今日は襲撃がなかったので鍛練場にいた戦士たちにも気遣われた。
彼らには人の痛みを察知するセンサーでもついているのだろうか。優しすぎて涙が出そうだ。
そして、アサドには鍛練場から追い出された。
「いや、その、体は元気だから」
「そんな辛気臭い顔では戦士たちの士気が下がる。お前は聖女なのだぞ」
「……ごもっともだけど」
口籠る彼女にそれ以上何も言わず、アサドは近くに控えていた従者に何かを持ってくるように命じた。
準備をしてあったのか、それはすぐ用意されて、香代に差し出された。
分厚い革張りの本と、紙を糸で綴じて本らしく体裁を整えたもの、それから紙束。唐突なことに首を傾げた。
「これは?」
「おそらく歴代の聖女様や聖人様が記されたと思しき書物だ。王宮の書庫の奥で見つかった。俺たちでは読めぬ言葉で書かれている」
「ほんと⁉︎」
頼んでいたものだ。丈夫な皮張りの本を手に取って開いてみると、確かに日本語が書かれている。日付が書かれているので日記かもしれない。
思わず見入る香代から本を取り上げてアサドは従者に渡すと部屋へ運ぶよう命じた。
「これを読めるのは香代だけだ。なので今からその書物の解読を命じる。今日は部屋でそれを読んでいろ」
「いや、夜になってからでも……」
「いいからさっさと部屋に戻れ! アルナブが茶と菓子を用意して待っているぞ!」
口調は荒いが要するに茶を飲んでゆっくり休めということである。
アサドはこのように遠回しに優しい。素直ではない王子を戦士たちは慕っているし、国王夫妻は微笑ましく見守っている。
この優しさをファアルに直接発揮できればいいのだが、こっそりやるのでファアルは匿名の優しさによく首を傾げている。
本はさっさと部屋へ運ばれてしまったし、アサドに追い立てられたので、言われた通りに部屋に戻ることにした。
本当にアルナブは茶の支度をして待っていた。
バドルでよく飲まれるのは、淡い黄色のジャスミン茶に似た花茶だ。味はさっぱりしていてとても飲みやすく、爽やかな香りがする。
小さめのグラスに注がれて出てくるので温度は温めだ。アルナブが言うには熱湯で淹れると渋みやえぐみが強くなってしまうらしい。少し緑茶に似ている。
いつもの長椅子で、座り心地がいいようにクッションを調整してから聖女たちが残した資料を手に取る。
まず、確実に一番年代が古いと思われる紙束から目を通す。
(……どうしよう。読めない……)
いきなり躓いた。
日本語で書かれているが、旧仮名遣いなのだ。まったく想定外だったが、初代聖女は明治か大正の生まれなのだろう。
それに古くて虫食いもあるし、筆記具の問題か字が角張っている。
幸い文章は口語に近く、香代でも理解できそうだった。
初代聖女の名は蕗子。おそらく大正あたりの生まれで、女学生だったらしい。
勝気な性格で、薙刀を嗜んでいたようだ。
ふと自分の衣装を見て、合点がいった。
聖女専用衣装のモデルは袴だ。この透けた巻きスカートは行燈袴が元になっているのだろう。
なんで透けたり、中の着物が膝丈になったのかは香代にはさっぱり見当がつかないが、過去のバドルの人々は袴を日常着だと思って真似たものを作ったのかもしれない。
紙束には手記のような、日記のようなことが書かれていた。
ライラの提案に戸惑いながらも協力したことや、文化がかけ離れたバドルの人々に驚愕したこと。
長旅の苦労や、何気ない日常についても綴られている。
勇者は同じ年頃の女性で、とても強かったらしい。「お姉様」と呼んで慕っていることが読み取れた。
その中で注目したのは旅の目的地がソレイユだったことだ。
バドルを囲むようにある他国のうち、北西部にある国である。
始めの魔王が出現したのはバドルではなかったのだ。
残念ながら初代聖女たちが魔王の元に辿り着く前に、当のソレイユのパーティが魔王を倒してしまった。そのため、彼女たちは旅の途中で引き返したらしい。
彼女はバドルに帰ってくるとすぐに日本へ帰還した。滞在期間は半年ほどだ。
最後のページには優しいバドルの人々への感謝の思いが繰り返し綴られている。
読み取れなかったり、意味がわからない部分もあったが、重要な情報はだいたい読み取れた気がする。
次に古そうな糸で綴じた紙束を開く。
幸い今度は旧仮名遣いではなかった。それでも言葉遣いが古く感じるのでそれなりに昔の人なのだろう。
二代目は聖女ではなく聖人だった。名前は隆之。北の地に霊廟があるこちらに残った日本人だ。
彼は日本では結核を患っていて、サナトリウムで療養していたところを召喚されたらしい。
結核はライラがさっと治してくれて、たくさん感謝の言葉が綴られている。
病人を召喚するとはふざけているのだろうか。
彼はかなり病状が重く、ライラに治して貰う前はベッドから起きることすらできなかったそうだ。
そんな重病人なので、病が治ったからとすぐ元気に動き回れるわけがない。しばらくリハビリの毎日をすごす。
勇者は普通の健康な青年で、同じ年頃のふたりは意気投合して、仲良くなった。勇者はリハビリにもよく付き合ってくれたそうだ。
そのときには魔王の拠点はバドルになっていた。
目的地は目の前なのに出発できない苦しい心情が綴られている。
最終的に、旅に出られるほど回復する前に魔王は倒されてしまった。
異変はその直後から始まる。
魔王が倒されたのに、魔物がいなくならなかったのだ。
聞いていた話と違うとライラに魔物のことを訊いたら積極的に魔王討伐に動かなかったペナルティだと主神に通告されたらしい。
確かにそのときのバドルは旅に出られなかった。
でもそれは主神が重病人を召喚するからだ。昔の日本は結核患者が多かったが、健康な人間もちゃんといた。
せめてそこから選んでいてくれたら旅に出るくらいはできたはずだ。
悪意を感じる人選に、パワハラめいた行い。そろそろ香代の主神への不信感が高騰しそうだ。
彼はペナルティの責任を感じてこちらに残ることを決意した。
元の世界で、家族仲はあまりよくなく、未練はあまりなかったようだ。
優秀な兄と比べられ、何かと叱責された。そして結核にかかってからは打ち捨てられるようにサナトリウムに送られて愛想が尽きていたらしい。
日記は魔物退治に明け暮れる日々をすごす中で、勇者から妹を紹介されたというところで終わっている。
とてもかわいい、親しくなるにはどうしたらいいのだろうという言葉で終わっている。
今は何も考えず、次の革張りの本を手にした。香代が貰ったノートに似ているが、紙にざらつきがあり、質は落ちる。
今度の日記は字に戸惑った。子供のような拙い文字で間違いが多く、最初とは違った意味で読みづらい。
特に年代を感じさせる文言はなかったが、おそらく初代、二代目よりかは香代に近い時代の生まれだろうとは感じた。
三代目は九歳の少女だ。名前はこのみ。西に霊廟がある聖女だ。
彼女は冬の夜に躾の一環で家から締め出されていたときに召喚されたらしい。
香代からすると行き過ぎた躾だ。その後もチラチラと虐待を匂わせる文言が頻出する。
そんな育ちにも関わらず、彼女は周りの大人に懐き、聖女としての役目を果たそうと努力していたらしい。
しかし、彼女はまだ子供で、その上、勇者に選ばれたのも同じ年頃の少年だったのだ。
目的地は目の前にあったが、子供ふたりを連れての旅立ちは困難を極めた。
補佐についた大人も主役の子供たちも努力はした。しかし、努力だけではどうにもならないものがある。
今回も魔王どころか街から出ることもままならないうちに他の国が魔王を倒してしまった。
またしてもペナルティで魔物が残り、三代目もバドルのこれからを心配してこちらに残ることを決めた。
幼いこともあるが、両親とは比べものにならないくらい優しいバドルの人々を本当の家族のように慕っていたため、躊躇いはなかったようだ。
それに、どうやら彼女は幼い恋をしていたらしい。
相手は明確にされていないが、最後はその『誰か』の役に立ちたい、という言葉が記されていた。
すべての日記を読み終わってため息を吐く。
顔を上げると窓の外はとっぷりと日が暮れている。かなり時間が経っていたようだ。
アルナブに促され何度か休憩していたが、集中していたのであまり時間を意識していなかった。
ずっと同じ姿勢ばかりしていたので体が固まっている。立ち上がり伸びをしてから、ついでにサイドテーブルから彼女のノートを取り出した。
再びベンチに戻り、頭の中を整理するために思ったことを書き出していく。
まず、一回目の試練と二回目以降の違い。
何故二回目からは魔王の城をバドルに固定してしまったのか。
次に、魔物について。
試練に不真面目だったからとペナルティがあるのはまだわかる。しかし、後出しにするのは如何なものか。
そういうことは事前に通達しておくべきだ。
結構重いペナルティなので余計理不尽に感じる。
それから勇者や異世界人の人選。
最初の聖女は女学校に通っていたあたりからお嬢様ではないかと予想できる。
しかし、勝気な性格で、体も健康で武道の嗜みがあった。魔王討伐に最適な人材というほどではないが、過酷な旅に耐えうる能力を備えていた。
勇者も女性だが、戦闘能力に長けていたとうかがえる。
その後の異世界人の人選は解せない。
ひとりは末期の結核患者で、もうひとりは肉体的にも精神的にも脆弱な子供だ。
元々ラスボス直前ということで厳しい戦場であることは確かだが、そもそも弱った人間であることで、戦場に立つことすら時間が掛かる有様になっている。
勇者も二代目まではいいが、三代目では子供と非力だ。
やっぱり、恣意的なものを感じる。
その怪しいことがジュルネが主神になったあとから起こっているのだ。
ライラに対する嫌がらせか、それともバドルという国が気に食わないのか。そう疑ってしまう。
(もう一度、ライラと話してみる必要がある)
魔王を倒すことには関係ない事柄かもしれないが、もやもやするし、もし本当にジュルネがライラやバドルに対して一物を抱えていたら、今後どんな妨害をされるかわからない。
人間の香代には何もできないが、わかっていれば覚悟ができる。
夜も更けたので、アルナブを下がらせ、自分で着替えてベッドに入る。
薄暗い天蓋を見上げ、描かれた黒い鳥を睨みつけた。
今日こそはあの場所に招いて、詳しい話をしてほしい。
そう念じるうちに気疲れしていたのか、すとん、と深い眠りに落ちていた。