第16話 そこのあなた、止まりなさい!
欲望はすべて消えずにそこに残っていた。
あくまで肉塊として、彼はいまだにそこへ打ち捨てられていたのである。
人々が近寄らぬように監視カメラや柵が設置されているが、肝心の遺骸については触れられていなかった。
力の残滓が影響を及ぼす可能性があるため、現状下手に手を出せないでいた。
誰もネトリーノに触れたがらない、というのも、あるだろうが。
そんな彼の遺骸のある場所へ、近寄ろうとしている天使がひとり。
いや、彼女はいま天使として行動していない。
負の力を使って自らが宿す天使の気配を打ち消して、監視カメラを一思いに叩き壊してしまう。
なにかが動いている、というくらいなら感づかれてもいいのだ。
いまは、ひとつの行程を目標としているだけなのだから。
黒い髪に、真っ白なまつ毛、そして金色の瞳をした少女──黒羽さやは、遺骸のちかくに屈み込むと、手をかざした。
自らが倒した相手に、ふたたび負の力を分け与えるのだ。
彼に少女の敵だけでなく、今度はほかの役割も与えてやろう。
死せる男のみでなく、もっと可憐でなければ。
多量の闇の力が動き、よって天使たちにもなにかしら起きていると気づかれる。
いま見つかっては面倒だ。
彼女は頃合いを見て、柵の中から抜け出して、その場から遠ざかっていった。
まだ誰も、その本性には気づけていない。
ゆえに彼女はまだ、エンジェル・ファニーである。
◇
らびぃがネトリーノ撃破地点周辺に不審なエネルギーの流れをとらえ、めるくは現地へ急行した。
未知なる敵の出現か。
彼の影が引き起こしたゲレツナー発生現象か。
さまざまな可能性を疑いながら到着する。
すでに柵の中にはなにも残っておらず、なにかが起きていることは明白だった。
しかしながら、ゲレツナーは発生していない。
敵の気配もない。
いや、まったくないというわけではない。
付近を逃げ惑うように移動する、微弱なものがひとつだけ。
らびぃに詳細な位置をたずね、めるくは動き出す。
その正体を確かめなければいけないのだ。
もしかすると、死体を持ち出して、それを元にして新たな敵を生み出そうとする輩であるかもしれない。
いま止められなければ、苦しい戦いを強いられることは想像に難くない。
らびぃと通信を保ち、誘導を頼みながら、その反応へと接近していった。
動きの速くない相手だ、すぐに追い付きその姿が見えてくる。
茶髪で長くふわふわした髪をもち、背丈はらびぃよりも小さいくらいだ。
着ている水色のジャケットは大人用であるのか大きすぎるほどである。
振り向いた瞬間に見えた瞳は左右で異なる色の輝きをもっており、薄紅色と藤色のようだ。
骸を持ち去った相手とは思えないが、話を聞く必要性はある。
「そこのあなた、止まっていただけませんか?」
声をかけたところ、向こうはもう一度振り向いてくれた。
めるくと目が合うと、げっ、と声を漏らす。
「っく、こっちだってわけわかんないのに捕まってたまるかよ!」
口調には覚えがある。気がする。
思い出したくもない心当たりだった。
逃げ続ける謎の少女のことは追い続けるしかない。
めるくは次第に距離を詰めていく。
焦る相手がついにつまずいて転び、それを組み伏せることに成功した。
「っ、離せ! 俺は受けじゃねえ!」
「……なにを言っているんですか、あなたは」
少女はきょとんとし、幼い声を震わせながら首をかしげた。
「なにって、おまえ、俺がエーロドージアだって気づいてたから追ってきてたんじゃ」
「おや、そうなんですか。では早急に撃滅を」
「ストーップ! ストップ! 俺だってなにがなんだかわかってないんだよ!」
思い出したくもない心当たりは、本当にそうであるようだ。
彼女は恐らくネトリーノである。
いまその呼称が正しいかは定かではないが、少なくとも彼の精神性を受け継いだ少女であるのだろう。
「ともあれ。あなたを拘束させていただきます。下手に抵抗の意思を見せればどうなるかは、わかっていると思いますが」
めるくは彼女を利用できる可能性を捨てないほうがよいと判断した。
エーロドージアの力については、まだ天使には知らされていない部分が大きい。
天使の、そして訓練生たちの犠牲を減らしていけるのなら、たとえあのネトリーノでも利用したい。
それに、この少女はまだ動きもぎこちなく、こめられる力もおそらく同年代の一般人より弱い。
この身体になって、弱体化しているのだろう。
また、彼女の言葉を信じるのなら、その力には底が見えていた。
めるくが追いかけてくるのを、自分を捕まえるためだと思っていたのなら、全力で逃亡するだろう。
それなのに、容易に追い付くことができたし、しかもすぐ転んでいた。
ネトリーノが弱っているふりをできるほど頭脳派でないことはわかっている。
拘束してしまえば、ゲレツナーを出されるほかに脱出されることはないだろう。
もっとも、そのゲレツナーを出せるだけの力が残っているかも疑わしいが。
「っく、わかったよ」
めるくに押さえつけられ、ばたばたともがいていた彼女は抵抗をやめた。
生憎と拘束具の持ち合わせはなかったので、本部に連絡する。
「めるくさん、いろいろ持ってきました!」
やってきたのはよぞらとこむぎだった。
届いたロープと手錠は少女ひとりに対しては過剰である気もするが、相手はエーロドージアだ。
念には念を入れて、拘束を幾重にも施していく。
「おまえら、かわいそうだとか思わないのか」
「……女の子の首を絞めて無理やり汚した奴に言われたくなんてないです」
よぞらはそういって、ロープをかませて口を開けないようにした。
向けられる怨みの目もまた隠されて、彼女の素肌を見ることすら難しい。
拘束された少女はまるでミノにこもるみのむしのようだった。
「ねぇ、めるくちゃん」
「何でしょうか」
「殺そうと、思った?」
こむぎの問いの奥にある意味を、めるくは考えた。
ネトリーノであった彼女に対して、敵意を抱かないわけはない。
相手が人々を脅かすエーロドージアであるからだ。
それとは違う殺意は、天使にはふさわしくない。
けれど、もし抱くのだとしたら、理由として思い浮かぶのはひとつだけだ。
めるくとまー子のほかにもうひとり、一緒に天使になって、肩を並べて戦っていた少女のことだ。
名前は文ひづき。忘れるはずははい。
エーロドージアの手によっていなくなってしまったであろうひづき。
彼女が望んでいるのなら、なるほど今すぐにでもこの少女を殺すべきかもしれない。
敵を滅ぼしたとして、文句を言うものなどいるはずがない。
「思いましたよ」
めるくが答えられるのは、それだけだった。
◇
先日のクシュシュの襲撃によって、天界社の防護壁は使えなくなっている。
よって、天界社へ運び込んでも、今なら侵入されてしまう可能性は大いにある。
本社へと連れ込むのは、むしろ管制室や設備の担う役割を考えると危険だ。
よぞら、こむぎ、めるくの三人のみで、防護壁が健在である研究所まで輸送する。
らびぃもまきなも、新人ながら三人組も本社にいる。
向こうは大丈夫だ。
少人数で迅速に行動するとして、ふたりに指示を伝えた。
──が。それはこのとき、間違った選択肢であった。
縄のかたまりにしか見えない少女を運んで駆けるなか、行く手を触手が阻み、背後からは濃厚な血の匂いが漂ってきたのである。
「まさか勢揃いとは。それほどに彼女が必要ですか」
めるくはエンジェル・クリアとなって身構える。
追って、トゥインクル、ブルームもまた戦う姿勢をとった。
前方にはクシュシュ。後方にはバラバローズ。それぞれに備える。
めるくの言葉には応えないまま、茨をまとった少女と、外套に身を包んだ少女が姿を現した。
「トゥインクル、先へ行ってください。私たちで押さえます」
「はいっ!」
クリアはあくまでも、敵を増やさないことを優先した。
弱っている相手が力を取り戻してしまう、最悪の事態だけは避けなければならない。
バラバローズがすでに攻撃をはじめている中、トゥインクルが駆けるのを見届け、そして茨を迎撃する。
クリアの背後では銃声と体液の飛び散るような音がしている。
ブルームの側も始まったのだろう。
そちらの状況も確認したいが、バラバローズに隙を見せれば間違いなく傷を負う。
目の前に集中しなければ。
バラバローズはクリアによって指を斬られていたが、バールを振るう動きに影響はみられない。
確かな殺意と快楽だけがそこにある。
クリアを傷つけたときのことを想像して、背筋を凍らせる笑みを浮かべている。
「あ、そうだ。さっきの質問、答えてあげる」
剣とバールが交差した瞬間に囁かれる。
「それはね。わたしがバラバラにしてあげたいから。あなたたちに殺されたらがっかりしちゃう」
ふざけた答えだった。
エーロドージアは人類の敵であるが、それでも組織となっているはずだ。
仲間という認識はそこにないのだろうか。
たった一瞬だけ心にあって、すぐに消えていく感情であっても。
ほんの少しの迷いが、バラバローズの猛攻によって大きな隙へと広げられていく。
勢いの増してくる攻撃に追いきれなくなって、クリアの剣は押されはじめていた。
「……あれ。思ってたのと違う」
突然、クリアの腹を鈍い痛みが走った。
凶器をふるいながら、蹴りを繰り出してきたのだ。
意識の外からやってきた一撃に成す術もなく吹き飛ばされ、できることはとっさに受け身をとるくらいだった。
「ほんとはここであなたともしたいんだけど。今はがまんしなきゃダメだね。あーあ、毒婦サマに言われなきゃ、ネトリーノの奴なんてどうでもいいのに」
クリアを蹂躙する時間のないことを嘆いているのだろうか。
先程と言い分が異なっている。
もし本当に、この嘆きのほうが真実だとするのなら、それは敵を知る一歩となるだろうか。
クリアは考えながら、バラバローズを追うため立ち上がった。
トゥインクルのもとへ行かせてはならない。
ネトリーノが解放され、ふたりを相手にして敗北すれば、真っ先に欲望の餌食となるのはトゥインクルになってしまう。
ひづきのように、自分の隣からいなくなる者が現れることだけは、めるくが心の底から恐れていることだった。




