壊れた 美紗
呼んでも揺さぶっても反応が無かったという貴文の言葉を信じるなら、美紗に電話をかけてもきっと取らない。
ならば……と、ジンくんの携帯にかけたけれど。どうやら彼は電源を切っているらしい。
貴文は怯えきっているから、今からもう一度美紗の所へ行かせるのもかわいそうだし。かと言って、二年近く行っていない私が一人で行けば多分、道に迷う。
こんなとき、方向音痴の自分が恨めしい。
じりじりしながら、達也さんの帰りを待つ。
夕方、暗くなる前に帰ってきた彼に、事情を話すと唸りながら、どこかへメールを打っていた。
重苦しい雰囲気の中で、夕食の支度をして。
彼の帰宅から、三十分ほど経った頃。達也さんの携帯が着信を告げた。
〔忙しいところ、悪いな。ジンと連絡を取りたいんだが、今、そこにいるか?〕
〔なんだ、それ?〕
そんな事を言いながら、ソファーにドスンと腰を下ろす。普段の彼の仕草からは考えられないほど、荒々しい行動だった。
〔わかった。ありがとうな〕
そう言って電話を切った達也さんが、私の顔を見上げてきた。
「ジンの声がでなくなったらしい」
電話の相手は、もう一人の後輩の亮くんだった。
一週間ほど前に声が出なくなったジンくんは、大学病院に入院してオペを受けたらしい。ジンくんは、亮くんに”だけ”短い文面のメールでそんな内容の連絡をよこした。
「亮が言うには、ジンのやつ、美紗ちゃんには書き置きひとつ残さずに黙って家を出たんだと。だから美紗ちゃんは、亮から事情を聞くまでは何があったか知るすべも無かったらしい」
「そんな……」
『仁さんになら、傷つけられても許せるから』
同居を始めるとき、実家の母にそう言った美紗。
そんな子に、なんて傷をつけたのよ。
ひどい、ひどい、ひどいひどいひどい……
酷い、酷い、酷い酷い酷い酷い……
非道い、非道い、非道い非道い非道い……。
実家の両親よりも、ジンくんのそばに居る方がリラックスしていた美紗。
同居からずっと、あの家で”いい顔”で笑っていた美紗。
その子が、
あの家で、
一人ぼっちで泣いている。
「行かなきゃ。美紗を一人にしておけない」
「行ってどうする?」
「わからない。でも、行かなきゃ。私は”お姉ちゃん”だから」
「沙織。落ち着け」
「行かなきゃ……」
頭の中は、『行かなきゃ』という呪文に塗りこめられたようになっていた。その中で、幼稚園児の美紗がひざを抱えて泣いていた。泣き声も立てずに、丸い頬に涙だけを流して。
「沙織!!」
突然の大声に、目が覚めたときのような錯覚に陥る。
「お前が行って、何をするのか、何ができるのか。それが答えられたら、ついていってやるから。まずそれを考えろ」
その間に、貴文にご飯食わせよう。な?
いつもと変わらぬ、彼の目にひとつ息を吐き出す。
そうだ。
美紗の姉だけど。
貴文の母だ、私は。
もそもそと、夕食を口に運んで、考える。
あの子、ご飯食べたかしら? 元から食の細い子だけど。
夕食の差し入れ、する?
ああ、でも。泣いているときにご飯なんて食べたくないか。
泣いて、いるんだよね。あの子が。
中学生のときから、笑顔以外の表情を失っていた子が。
あの時は。
私が別れ話で、両親も巻き込んでもめていて。その間、学校での仲間はずれを親にも悟らせずに、一ヶ月も抱え込んで……その結果、表情を失った。
”親にも悟らせず”??
中学生が??
機械的に動いていた箸が止まる。
「親に悟らせないような子が、私に見せるか?」
「沙織?」
訝しげな達也さんの声に、われに返った。
「見せるって何を?」
「ちょっと、待って。考えさせて」
お箸を一度おいて、考える。
今日、貴文は行く前に電話を入れていたはず。
「貴文、あなたが朝、連絡を入れたとき美紗はなんて言ってた?」
えーと、と、お箸をかじるようにして、考え出した貴文の手を横から達也さんが、下ろさせる。
「コラ、箸をかじるんじゃない」
「はい」
素直な返事をした貴文は、箸を一旦箸置きに置いて、電話電話とつぶやく。
「うーんと、確か、『良いわよー』て、いつもどおり」
「そう。じゃぁ、泣く前に何があったか思い出せる?」
嫌そうに顔をしかめた息子に、酷なことを訊いたかと心が痛む。
「本から、紙が落ちた」
「紙?」
「何枚か、ヒラヒラって。本のページが落ちたのかな?」
「で、泣いたのね?」
「うん」
紙、がキーで。それまでは貴文にとってはいつものミサ姉だったわけだ。
ジンくんが家を出て、音信不通のままで一週間。それでも貴文には、いつもの”ミサ姉の顔”を見せようとしていた、のよね。
これ、私が行ったら。あの子、”いつもの顔”を見せようとするんじゃない?
『美紗は、強情だから。自分の心が動かなかったら変わらないわ』
昔、母がそんな事を言っていたように思う。それが正しいなら……今、美紗の動いている感情を封じるのはダメな気がする。
「達也さん」
「どうした?」
「美紗の所は行かない」
「そうか」
「うん。あの子が何か言ってくるのを待つことにする」
貴文の前で泣いた自覚があるなら。あの子は何か必ずフォローを入れてくる。
貴文が生まれてすぐの頃。
『十代の子に、”叔母さん”はかわいそう』だと、”美紗お姉ちゃん”と周りが呼んだ時の、くすぐったそうに笑った美紗の顔。唯一の年下の親戚である貴文をあの子なりにかわいがっていたし、”ミサ姉”と呼ばれることを喜んでいた子だから。
あなたは、壊れないって。壊れてないってお姉ちゃんは信じるから。
元気になったら、電話しておいで。
結局、美紗が連絡をしてきたのは九月になってからだった。
【明日、お邪魔してもいいですか?】
そんな、簡単なメールが土曜日に届いた。
「こんにちは」
何も無かったかのような顔で現れた美紗に、私の横にいた貴文が後じさりした。うわ、来た、とつぶやいたのが聞こえた。
お茶を入れて、台所で向かい合って座る。貴文は子供部屋ではなく、隣のリビングに逃げた。達也さんは、”人見知り”な美紗に気を使って、外出をしている。
さて。どう話を向けたものかしらね
束の間、考えている隙にテレビの音が聞こえてきた。貴文がつけたらしい。
話の邪魔、と叱るために立ち上がろうとしたところで、美紗が弾かれたように席を立った。
美紗の後を追うように、リビングに入る。
美紗が……泣いていた。
テレビにすがりつくようにして、涙を流す妹の口から言葉が零れ落ちる。
「よかった、よかった、うたえてる、よかった」
壊れたレコードのように繰り返しながら、途切れることなく涙を流す姿を、部屋の入り口の壁にもたれて眺めていた。この子、こんな顔で泣く子だったんだな、なんて思いながら。
貴文はどうしているのかと、ソファーに視線をやる。
呆然、とした顔が私と目が合った瞬間に、口を開こうとした。
人差し指を立てて、口元に当てる。
『今は、お話しする時間じゃないですよ』何度も小さかった貴文に諭したときのジェスチャーに、息子の口が閉まった。
黙って、美紗が泣き止むのを待った。
「ごめんね、お姉ちゃんもタカも。驚かせて」
いつもどおりの笑顔で笑ってみせる美紗に、お茶を淹れなおす。貴文も恐る恐るではあったけど、テレビを消してダイニングテーブルについた。
美紗の説明によると。
声が出なくなったジンくんは、パニックを起こして家出をした。貴文の言っていた”本から落ちた紙”が、実は彼の書き置きだったらしい。昔から英語の苦手な美紗にとって、英語で書かれた手紙は、読むのに相当時間がかかったという。本人はおかげで落ち着いたとか言って笑っているけど。
結果的に、ジンくんは七月の初めに戻ってきたものの、声が変わってしまった。さっき美紗が泣いたのは、声の変わってからのジンくんの歌声でCMが流れていたせいらしい。
「で、どうするの?」
漠然とした私の問いかけに、
「どうもしない」
美紗は、あっさりと答えた。
「もともと、私はJINのファンだったわけだけど。そんなこと関係なしに、私はこの先も仁さんのそばにいる。織音籠のJINでなくっても、仁さんは仁さんだから」
「そっかぁ」
「うん。決めたの」
心が動いたのか。
何年ぶりかで、美紗が私の目をまっすぐに見てきた。
その目を、同じように見返す。
自分の心に恥じるところが無ければ
誰にも恥じるところは無い。
昔習った、拳法の教えが心に浮かんだ。
美紗の黒目がちの目は、あの教えを体現しているようだった。




