1
『イオン・レディ』
新聞記者をしている黄瀬は、そのメッセージの通知を横目に憂鬱な気分になった。言葉としての意味は、内容に似合わず美しいものだ。古代ギリシャ語で美しいアイオライトの語源を使用した『スミレのお嬢様』。その本当の意味は、今黄瀬の目の前に襲来した。
「黄瀬! 今日の新聞の見出しのこの不思議な空き巣事件について調査するわ! 付いてきて!」
「こんにちは、杏央さま。生憎、俺はその事件について調べてないので書いた本人を紹介しますね」
訳「暇じゃないから押し付けよう」
「嫌! 私は黄瀬が良いです」
助けを求めようと杏央の付き人兼護衛である水碧を見るが、いつも通り彼女は涼しい顔をするだけだった。
杏央はとあるお方の娘であり、日本では知らぬ者がいない有名なお嬢様だった。杏央の父親と仕事の関係で知り合ってから、黄瀬は杏央に懐かれてしまった。あの事件はどうなのだ、この事件はと探偵ごっこに付き合わされたものである。
勿論始めの頃は、父親も執事もメイドも、もちろん水碧までもが「黄瀬は仕事で来ているだけで忙しいのだから」と助け舟を出してくれていた。杏央が拗ねると面倒くさいので、みんなそれとなく用事を頼んでくれたりしていたのだ。
だがそれも、杏央が高校生にもなると終わりを迎えた。幼い頃から探偵ごっこをするような子だ。様々なミステリー小説や探偵小説を読み漁り、未解決事件の考察本まで手を出した杏央は知恵が付いた。
つまりは周囲の人間の『やさしい嘘』に気がついて黄瀬や警察の人間たちに突撃するようになった。
それからの水碧は行動が早かった。杏央が突撃する人だけを集めたグループチャットを作り、事前に連絡するようにしたのだ。突撃、だけど突撃じゃない。そして万が一、杏央に内容を見られても分からないように隠語を作った。それが『イオン・レディ』。意味はお察しの通り『杏央さま襲来』だ。
「今日は婚約者殿とデートの日では? なぜこんな所にいるんです?」
「うっ……。そ、それは」
「数日前に来た時にボヤいてましたね、そろそろ集合時間だなあ」
「黄瀬! ず、ずるいわよ!」
突撃してくる人に言われたくはない。
「はーい、お迎えに来てもらいましょうね。よし、これでいいや。何が不満なんですか? 同性の俺から見てもあの人程杏央さまを理解してる人はいないでしょう」
「……だって、だってえ」
「なんです?」
いつもの威勢のいい杏央の声が、どんどん小さくなる。忙しく動き回る新聞社ではまったく声が聞こえず、黄瀬は杏央に顔を寄せた。
「ち、ちかい!」
「あー、すいませんね。おっさんが近づいて」
何故か頬から耳まで赤く染まった杏央から離れてやる。このお嬢様は昔からこうだ。少しでも黄瀬が顔を寄せると、決まってこうなる。そろそろだろうな。
「用事を思い出したわ。これで失礼します」
「はいはい」
これもお決まりの台詞だ。水碧が一礼して、杏央の後をついて行く。
「黄瀬先輩も、罪な人ですね」
「はあ?」
斜め前の席にいる後輩が、呆れたような顔をしている。周りの人達も何故だか後輩の言葉に頷くではないか。




