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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第7話 体育のあと、たぶん俺の理性は試されている

 体育のある日は、朝から少しだけ憂鬱だ。


 理由は単純で、俺――柊真央にとって、体育という授業は色々な意味で情報量が多すぎるからである。


 走る。動く。息が上がる。汗をかく。教室の空気が変わる。制服では隠れていた体温の変化が一気に表に出る。しかもそれがクラス単位で発生するのだから、嗅覚の鋭い俺にはたまったものではない。


 今日の四時間目、体育。


 朝の時点で時間割を見た瞬間から、俺の心はずっと重かった。


「顔、死んでるぞ」


 一時間目が始まる前、いつものように斜め後ろから蓮が声をかけてきた。


「まだ死んでない」

「いや、だいぶ瀕死」

「体育があるからだよ」

「運動嫌いだったっけ、おまえ」

「運動は普通」

「じゃあ何だよ」

「……空気がしんどい」

「あー」


 蓮はそこで妙に納得した顔になった。


 こいつには一応、俺が人より匂いに敏感だということまでは話してある。詳しいことまでは言っていないが、「人が多くて熱気のある場所は苦手」くらいの認識は共有済みだ。


「まあ、今日は晴れてるし、外でやるならまだマシじゃね?」

「外の方が風あるぶんマシかもな」

「だろ?」

「でも結局戻ってくるのは教室だろ」

「そこまで考えてるの、もう才能だよ」

「嫌な才能だよ」


 会話の途中で、後ろから声がした。


「何の話してるの?」


 朝倉ひよりだ。


 今日も今日とて、当然のように俺たちの会話圏内へ入ってくる。もはや朝のルーティンみたいなものだ。


「真央が体育で死ぬって話」

「言い方」

「え、柊くん体育苦手なの?」

「苦手っていうか……」

「こいつ、顔に出ないだけでいろいろ繊細だから」

「蓮、おまえ後で覚えとけよ」

「ひど」


 ひよりは笑いながら俺の机の横に立った。


「でも私もちょっとやだなあ」

「おまえもか」

「うん。今日、体力テストの続きでしょ?」

「たぶん」

「走るのは別にいいんだけど……」


 そこまで言って、ひよりが少しだけ言葉を切る。


 ほんの一瞬だけ、制服の袖口を指先で整えるみたいに触れた。


 俺はそれを見逃さなかった。


 この前、制汗シートの件を偶然見てしまってから、ひよりのそういう細かい仕草が前より目につくようになっている。いや、正確には「目」だけじゃない。空気の変わり方ごと、意識してしまうようになった。


「……何だよ」

「え?」

「続き」

「あ、えっと……その、走ったあと、暑いの苦手で」

「ふーん」

「なに、その薄い反応」

「別に」

「絶対なんか察してる顔してる」

「気のせいだろ」

「怪しいなあ」


 ひよりはそう言って笑ったが、その笑い方にはほんの少しだけ気恥ずかしさが混じっていた。


 たぶんこの子は、自分でも自覚しているのだろう。体育のあと、自分が少し汗っかきになることを。だからさっき、一瞬だけ言葉を濁した。


 それがわかった瞬間、俺の方が落ち着かなくなる。


 頼むから、朝の時点で意識させるな。


 四時間目の体育は、外での短距離走と簡単な体力測定だった。


 春とはいえ、昼前のグラウンドは思ったより日差しが強い。空はきれいに晴れていて、風もそこそこあるが、走れば普通に暑い。クラス全体がジャージ姿でグラウンドに散って、教師の笛の音に合わせて列を作ったり走ったりしている。


 ジャージ姿のひよりは、制服の時より少しだけ幼く見えた。


 紺のジャージに白いライン。髪はいつもより高い位置で軽く結んでいる。そんな大した変化じゃないのに、妙に目に入るから困る。


「柊くん、足速そう」

「普通」

「またそれ」

「おまえは?」

「どうだろ。遅くはないと思うけど」

「曖昧だな」

「速いって言って遅かったら恥ずかしいじゃん」

「今さら恥ずかしがることあるのか」

「あるよ!?」


 そこで教師に呼ばれ、俺たちはそれぞれの列へ散った。


 走ること自体は嫌いじゃない。むしろ無心で体を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。問題はそのあとだった。


 何本か流しで走って、タイムを測って、記録を書いて、ようやく授業の終わりが見えてきた頃には、クラス全体にうっすら熱がこもっていた。風があるとはいえ、動いた後の体は正直だ。みんな少しずつ息が上がっているし、話し声もいつもより高い。


 俺も額に浮いた汗を手の甲で拭った。


 その時、少し離れたところで、ひよりがジャージの襟元をぱたぱたとあおいでいるのが見えた。


 やっぱり暑そうだ。


 そして、わずかに落ち着かない動きも見える。首元を気にする。袖口を触る。髪を直す。たぶん、自分の状態を少しでも整えようとしている。


 見なければいいのに、見えると気づいてしまう。


 授業が終わり、教室へ戻るために移動が始まった。


 体育のあとの廊下は、普段よりさらにしんどい。ジャージ姿の集団、運動後の熱気、開け放たれた窓から入る風、床のワックス。そこに「早く教室戻って着替えたい」という全員の焦りまで混ざる。


 俺はなるべく呼吸を整えながら歩いた。


 教室へ戻り、男女で順番に手早く着替える。


 その短い時間が過ぎたあと――問題の、本当の地獄がやってくる。


 体育のあとに制服へ戻った教室。


 走って熱を持った体が、まだ完全には落ち着いていない。着替えたばかりのシャツ、少し急いだ呼吸、窓から入る春風、机と椅子の木の匂い。全部が混ざって、教室の空気が普段よりひどく近い。


「っ……」


 思わず小さく息が止まりそうになる。


 やばい。今日は思ったよりきつい。


「柊くん、ちょっと暑いね」


 その声がした時点で、もうだいぶまずかった。


 振り向くと、ひよりが制服姿で立っていた。


 リボンを整えたばかりなのか、指先がまだ胸元にある。頬はわずかに赤く、髪も少しだけ乱れている。走ったあとの熱がまだ残っているのだろう。いつもより呼吸も浅い。


 そして当然のように、近い。


「……近い」

「え?」

「いや、暑いならもうちょい離れろ」

「何それ」


 ひよりは笑いながら、でも一応半歩だけ下がった。


 半歩じゃ足りない。だがこれ以上言うと、こっちが意識しすぎているみたいで嫌だ。


「ほんとに顔やばいよ?」

「おまえのせいでもある」

「えっ、何で!?」

「……何でもない」


 その時点で、ひよりはたぶん半分くらい察したのかもしれない。


 ほんの少しだけ目を丸くして、それから、いつもより小さい声で言った。


「……もしかして、体育のあと苦手?」

「まあ」

「そっか」


 その「そっか」が、少しだけ静かだった。


 ひよりは俺の机の横に立ったまま、数秒だけ何か考えるように視線を落とす。それから、ふっと苦笑した。


「私もさ」

「何が」

「体育のあと、あんまり得意じゃないんだよね」


 知ってる、と言いかけて飲み込む。


「暑いし」

「そうだな」

「すぐ汗かいちゃうし」

「……」

「だから、ちょっとだけ憂うつ」


 そこまで言ってから、ひよりはわざとらしく軽く笑った。


「ま、運動は嫌いじゃないんだけど」


 その笑い方が、少しだけ自嘲っぽかった。


 俺は机に置いていたノートへ視線を落とす。そうしないと、まともに顔を見ていられない気がした。


 ひよりが自分からそこまで言うのは珍しい。


 たぶん、俺にだけなら少し言ってもいいと思ったのかもしれない。制汗シートの一件があったからか、それとも前から少しずつそうだったのかはわからない。


 だが、その「俺にだけ」が、妙に重い。


「……朝倉」

「うん?」

「別に、そんな気にすることでもないだろ」

「え?」

「汗かくのなんて、運動したら普通だし」

「……」

「おまえだけじゃない」


 我ながら、びっくりするほど気の利かない言い方だった。


 もっとこう、「変じゃない」とか「気にしなくていい」とか、言いようはいくらでもあっただろうに。なのに俺の口から出るのは、いつも少しだけズレた正論みたいなものばかりだ。


 でも、ひよりはすぐには笑わなかった。


 少しだけ目を伏せて、それから本当に小さく笑う。


「ありがと」

「……別に」

「でも、そういうふうに言ってくれるの、ちょっと助かる」


 その言葉で、胸の奥が妙にざわついた。


 助かる、か。


 そんなに大したことは言っていない。むしろ不器用すぎて、伝わっているのかすら怪しいと思っていた。なのに、それでも「助かる」と言われると、こっちの方が困る。


「おまえら、また近いぞ」


 不意に、後ろから涼しい声がした。


 振り返ると、白瀬凛香が立っていた。


 今日も制服の乱れひとつなく、髪もきれいに整っている。体育のあとだというのに、この人はどうしてこんなに隙がないのか。


 白瀬は俺とひよりを交互に見て、淡々と言った。


「教室の通路を塞がないでください」

「あ、ごめん」

 ひよりが慌てて半歩横へずれる。

「……すみません」

 俺も言う。

「謝ることではありません。ただ、相変わらず距離感が独特だと思っただけです」


 その言い方は、前より少しだけ棘がやわらかい……ような気がしないでもない。いや、気のせいかもしれない。


 白瀬はそのまま通り過ぎようとして、ふと足を止めた。


「朝倉さん」

「え?」

「暑いなら、窓際の方が少し風が入りますよ」

「……あ、ありがとう」

「別に」


 言い捨てるようにして去っていく。


 ひよりがぽかんとその背中を見送っている。


「白瀬さん、怖いのか優しいのかわかんないね」

「両方なんだろ」

「柊くんもたまにそういうとこあるよ」

「一緒にするな」

「えー、ちょっと似てるかも」

「どこが」

「言葉が足りないとこ」

「……」


 否定しづらいことを言うな。


 五時間目が始まる直前、ひよりは自分の席へ戻る前に、もう一度だけこちらを見た。


「ねえ」

「何」

「さっきの」

「どれだよ」

「汗かくの普通ってやつ」

「……ああ」

「ちょっとだけ、嬉しかった」


 言い終わる前にチャイムが鳴った。


 ひよりはそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。


 俺はその背中を見ながら、深く息を吐いた。


 体育のあとの教室。

 少し暑くて、少し気だるくて、空気が近い。

 その中で朝倉ひよりが自分のことを少しだけ打ち明けてきた。


 それが何を意味するのか、まだわからない。


 ただひとつだけ確かなのは――


 今日の俺の理性は、たぶん最初から最後まで試されっぱなしだった、ということだった。

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