第6話 放課後、春風と残り香の帰り道
放課後の教室には、昼休みとはまた違う種類のゆるさがある。
一日の授業を終えた解放感。部活へ向かうやつの高揚。寄り道の予定を立てるやつらの浮ついた声。机の中を探る音、椅子を引く音、鞄のファスナー。そういうものが、夕方の光の中で少しずつほどけていく。
俺――柊真央は、最後のホームルームが終わると同時に、今日も小さく息を吐いた。
窓の外はもう、昼より少しやわらかい色をしている。春の午後の終わり。校庭に落ちる日差しはまだ明るいのに、空気にはわずかに「帰る時間」の匂いが混ざり始めていた。
「真央、今日どうする?」
斜め後ろから蓮が声をかけてくる。
「どうするって何が」
「駅前ちょっと寄ってく? 新しくできたアイス屋」
「平日からそんな寄り道する元気ない」
「青春に消極的だなおまえ」
「おまえが元気すぎるんだよ」
俺が鞄を持ち上げると、蓮は「じゃあ今日は諦めるか」と肩をすくめた。そこへ前方の席から数人の男子が声をかけてきて、蓮はすぐそっちへ引っ張られていく。
助かった、と内心で思う。
こいつが近くにいると、会話のたびに余計な茶化しが入る。ない方が楽だ。
そう思ったのも束の間だった。
「柊くん」
後ろから飛んできた声に、俺は振り向く。
朝倉ひよりが立っていた。
今日もやっぱり、当たり前みたいにそこにいる。
「……何」
「帰る?」
「帰るけど」
「そっか」
それだけ言って、ひよりは妙に歯切れ悪く笑った。
いつもなら「じゃあ一緒に行こ」と勢いで来そうなところなのに、今日は少しだけ様子が違う。昨日の昼休みのことをまだ少し引きずっているのかもしれない。白瀬凛香に「距離が近すぎる」と言われて、多少なりとも意識したのだろう。
それはそれで、なぜか少し調子が狂う。
「……朝倉も帰るんだろ」
「え?」
「帰らないなら教室に住め」
「何それ」
ひよりが吹き出した。
「帰るよ」
「じゃあ行けばいいだろ」
「……一緒でもいいの?」
その聞き方が、少しだけ予想外だった。
前なら確認なんてしなかったはずだ。隣に来て、当然のように一緒に歩き出していた。なのに今日は、一応こちらの反応を見るみたいに尋ねてくる。
昨日の一件、ちゃんと気にしてるんだな。
「だめとは言ってない」
「じゃあ、いいってこと?」
「……そう受け取っとけ」
「よかった」
その「よかった」が、いつもより少しだけ静かだった。
俺たちは並んで教室を出た。
廊下には部活へ向かう生徒たちの足音が響いている。窓際を通るたびに、夕方の風が少しだけ吹き込んでくる。昼の熱が抜け始めた校舎は、朝とも昼とも違う匂いをしていた。ワックスの床、日差しの残り、外の土、遠くのグラウンドの砂。
そして、その全部の中に、隣を歩く朝倉ひよりの気配が混ざっている。
今日のひよりは、教室にいた時より少しだけ力が抜けて見えた。授業も終わって、帰るだけになったからだろう。呼吸が楽そうだし、肩にも余計な緊張がない。
たぶん、このくらいの空気がこいつの素に近い。
「ねえ」
「何」
「今日、蓮くんいないと静かだね」
「いつもあいつがうるさいだけだろ」
「確かに」
「否定しないんだな」
「だってほんとだし」
ひよりは笑った。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。校門を一歩越えたところで、ひよりがちらっと俺を見た。
「柊くんって、駅の方?」
「いや、逆」
「あ、じゃあ……」
ひよりの顔に、一瞬だけ迷う色が差した。
「朝倉は?」
「私も逆」
「……同じじゃん」
「うん、同じ」
なぜか少し嬉しそうだ。
たぶん今まで、お互いにそこを確認していなかっただけなのだろう。学校では近くにいても、帰り道まで同じとは限らない。だが、こうして並んで歩き出したということは、少なくとも途中までは一緒だ。
春の夕方の道は、朝より静かだった。
登校時間みたいな緊張はなく、日差しも少し丸くなっている。住宅街の庭先からは洗濯物の匂いがして、どこか遠くで犬が吠えている。道端の花壇の花が、夕方の光に照らされてやけに鮮やかだ。
そして風が吹くたび、ひよりの髪が少しだけ揺れる。
「なんか変だね」
ひよりが言った。
「何が」
「学校で会うのと、外で一緒に帰るの」
「そうか?」
「そうだよ。ちょっとだけ、違う感じしない?」
「……まあ」
それは少しわかる。
制服で並んで歩いているのに、教室の中より距離が近く感じる瞬間がある。逆に、周りの目が少ない分だけ変に意識しなくて済むところもある。どっちにしろ落ち着かないことには変わりない。
「柊くん、寄り道とかしないの?」
「基本しない」
「真面目」
「普通」
「私はたまにコンビニ寄っちゃう」
「何買うんだよ」
「アイスとか、グミとか」
「小学生か」
「失礼だなあ。高校生ですけど」
「見た目はな」
「それどういう意味!?」
ひよりがわざとらしく抗議する。
そんな他愛もないやりとりをしながら歩いていると、不思議と会話は途切れなかった。こいつはたぶん、話題そのものより「間を空けない」ことがうまいのだと思う。沈黙を怖がっているというより、相手が一人にならないように自然と埋めるタイプだ。
でもそのせいで、ふとした時に本音が混ざる。
「……今日ね」
ひよりが、少しだけ声の調子を変えた。
「白瀬さん、やっぱりちょっと怒ってたかな」
「昨日のことか」
「うん」
昨日の昼休み。距離が近すぎる、と白瀬凛香に言われたこと。あれを気にしていたのだろう。今日の教室でのひよりは、普段よりほんの少しだけ俺との間合いを測っているように見えた。
「別に怒ってたっていうか」
「うん」
「白瀬はそういうの気になるタイプなんだろ」
「真面目そうだもんね」
「おまえと真逆」
「ひどい」
そう言って笑ったが、そのあとひよりは少しだけ俯いた。
「私さ」
「何」
「人と仲良くなるの、ほんとはあんまり得意じゃないんだ」
意外な言葉だった。
思わず横を見る。
ひよりは春の風に前髪を揺らしながら、まっすぐ前を見て歩いていた。笑っているわけでも、しょげているわけでもない。ただ、少しだけ言いにくいことを口にしている時の顔だ。
「……そうは見えないけど」
「よく言われる」
「実際、誰とでも話してるだろ」
「話すのはできるよ」
「違いあるのか」
「あるよ。全然ある」
ひよりは小さく笑って、鞄の肩紐を握り直した。
「話しかけるのは勢いでできるの。でも、そのあと“変じゃなかったかな”って毎回考えちゃうし、近すぎたかなとか、うるさくなかったかなとか、後から気にする」
「……」
「だから、得意って感じじゃない」
その言い方が妙に本音っぽくて、俺は返事に少し詰まった。
こいつは明るい。距離も近い。無防備に見える。だからもっと「人付き合いに困らない側の人間」だと思っていた。だが実際は、勢いで踏み込んだあとにちゃんと不安になっているらしい。
昨日の「私、近かったらごめんね」も、たぶんその延長なのだろう。
「柊くんは?」
ひよりが聞いてきた。
「何が」
「そういうの、平気そう」
「何も平気じゃない」
「え、そうなの?」
「そう見えるだけだ」
「へえ……」
ひよりが少し驚いた顔をする。
「だって柊くん、いつも落ち着いてるし」
「落ち着いてるように見せてるだけ」
「見せてるの?」
「見せてる」
「大変だね」
「おまえが言うか」
そう返すと、ひよりはくすっと笑った。
その笑い方で、さっきまで少しだけ尖っていた空気が和らぐ。たぶんこいつも、自分で少し身構えていたのだろう。真面目な話に入りすぎると、どこまで言っていいかわからなくなるタイプなのかもしれない。
しばらく歩く。
道の角を曲がると、風が正面から吹いてきた。
ひよりの髪がふわっと後ろへ流れ、制服のスカートの裾がわずかに揺れる。昼の熱が抜け始めた夕方の風は、少しだけ乾いていて心地いい。
その風に混じって、やわらかい匂いがした。
授業を終えたあとの、ほんの少しだけ疲れた空気。春の外気。制服の布に残る日中の温度。それから、極々わずかな、体温の余韻みたいな気配。
朝や昼ほど強くはない。むしろ風で薄まっている分、残り香みたいに感じる。
……こういうのが、一番困る。
「どうしたの?」
「何が」
「今、ちょっと黙った」
「おまえがよく喋るから、俺が黙る時間が目立つだけだ」
「何それ」
「事実だろ」
「まあ、否定はできないけど」
ひよりはまた笑った。
そのあと、少しだけ歩幅を緩めて俺の横へぴたりと並ぶ。肩が触れるほどではない。けれど、いつもより少しだけ近い。
「でも、よかった」
「何が」
「柊くんが、思ったより喋ってくれる人で」
「どんなイメージだったんだよ」
「もっと、ずっと無口で怖い人かと思ってた」
「最悪だな」
「でも今は違う」
「今は?」
「ちゃんと優しい人かもって思ってる」
「……買いかぶりだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
そう言いながら、内心は少しだけ落ち着かなかった。
真正面からそういうことを言われると、反応に困る。
しかもこいつは、たぶん褒めようとして言っているだけで、それがどれだけ強いか自覚していない。
そういう無自覚さが、本当に厄介だ。
やがて、大きめの交差点が見えてきた。
「私、こっち」
ひよりが指差す。
「俺はまっすぐ」
「そっか」
ここで別れるらしい。
なぜか、その事実に少しだけ拍子抜けした。もう少し同じ方向だと思っていたわけでもないのに、こうして実際に分かれ道に立つと変な感じがする。
「じゃあ、また明日ね」
「……ああ」
ひよりは一歩、曲がる方へ踏み出して、それから何か思い出したみたいに振り返った。
「あ、そうだ」
「何だよ」
「今日、一緒に帰ってくれてありがと」
「方向同じだっただけだろ」
「それでも」
そう言って、ひよりは少しだけ目を細めた。
「なんか、安心した」
その一言を残して、ひよりは手を振り、小走りに曲がり角の向こうへ消えていった。
ひとりになった道で、俺は少しだけ立ち止まる。
春の風が吹く。さっきまで隣にいた気配は、もうない。
なのに、頭の中にはまだ残っている。声も、表情も、夕方の風に薄まったあとのやわらかい残り香も。
「……安心した、か」
小さく呟いてから、俺は歩き出した。
朝倉ひよりは、思っていたよりずっと単純じゃない。明るくて、近くて、無防備で、でもその裏でちゃんと気にしていて、たぶん自分でも不器用だ。
そして俺は、そんなことに気づくたびに、前より少しだけあいつを意識してしまっている。
それが面倒で、しんどくて――たぶん少しだけ、悪くなかった。




