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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第5話 昼休みは距離感バグの時間です

昼休みという時間は、教室の本性が一番よく出る。


 授業中は全員が一応「生徒」の顔をしているし、ホームルーム中はまだ担任の目がある。だが昼休みだけは違う。机をくっつけるやつ、購買へ走るやつ、スマホを見せ合うやつ、黙々と弁当を食うやつ。誰が誰といるのが自然なのかが、わかりやすく形になる時間だ。


 そして高校生活が始まって最初の一週間も終わりに近づいた今、一年三組の昼休みはだいぶ賑やかになっていた。


 俺――柊真央は、自分の席で弁当箱の包みをほどきながら、小さく息を吐いた。


 午前の授業が終わったばかりの教室は、少しだけあたたかい。春の昼の光が窓から差し込み、木の机、制服の布、教科書の紙、いろんなものがやわらかく温まっている。朝の張り詰めた匂いとは違う、少し気の抜けた空気だ。


 このくらいの時間帯になると、みんなの匂いも少し変わる。


 緊張がほぐれたやつ、腹が減っているやつ、授業に疲れてぼんやりしているやつ。昼休みの教室は情報量が多い。正直しんどい。だが、朝よりはまだマシだ。


 問題は、ここ数日でひとつ増えていた。


「柊くん、お昼食べよう」


 後ろから飛んできた声に、俺は弁当箱の蓋を開ける手を止めた。


 朝倉ひよりが、当然のような顔で立っていた。


「……自分の席で食えよ」

「えー、だってここで食べた方が話しやすいし」

「後ろの席だろおまえ」

「じゃあすぐじゃん」

「距離の問題じゃない」

「何の問題?」

「……」


 説明しづらい問題だよ。


 ひよりはそんな俺の内心など知らないまま、すでに自分の弁当袋を持って俺の横へ回り込んできていた。空いていた隣の席のやつが購買へ行ったのを見計らっていたらしい。準備がいいのか何なのか知らないが、行動が早い。


「ここ座るね」

「勝手に決めるな」

「だめ?」

「……」

「黙るってことはいいってことだ」

「違う」

「でも追い返さないじゃん」

「……」


 うるさい。


 結局、ひよりは俺の隣の席に腰を下ろした。


 近い。


 席ひとつ分あるのだから物理的には近すぎるわけではない。だが、こいつの場合は座ってからが問題だ。弁当箱を開ける時も、何か喋る時も、なぜか少しずつこっちへ寄ってくる。たぶん本人は無意識だ。


「わ、ちゃんとしてる」

「何が」

「お弁当。きれい」

「普通だろ」

「いや、なんかバランスいい。玉子焼き入ってる」

「入ってるな」

「お母さんが作ってくれるの?」

「朝はだいたい」

「いいなあ」


 ひよりも自分の弁当を開けた。


 小さめの二段弁当だった。上に小さなおかずがいくつか入っていて、下にはご飯。彩りは明るいが、妙に可愛すぎる感じではない。手作りっぽい。


「朝倉も弁当か」

「うん。うちも朝は基本これ」

「へえ」

「何その薄い反応」

「会話続けてやってるだけありがたく思え」

「え、ひど」


 ひよりは笑いながら、箸でブロッコリーをつまんだ。


 その動きがやけに自然で、隣にいることにも違和感がないように見えるから困る。こっちは全然平常じゃないのに、なんでこうも普通に距離を詰められるんだ。


「おー」


 前方から、聞き慣れた声がした。


「昼も始まってんじゃん」

「始まってない」

「何が」

「おまえの言いたい全部だ」


 藤崎蓮がパンを片手に振り返っていた。


 購買で買ってきたらしい焼きそばパンと牛乳を机に置きながら、こいつは実に楽しそうな顔をしている。


「朝倉さん、毎日ここ来てるよな」

「だって話しやすいし」

「真央、話しやすいタイプじゃないだろ」

「蓮くん失礼じゃない?」

「だよな。もっと言ってやって」

「いや、でもちょっとわかる」

「おい」

「でも慣れるとそんなに怖くないよ?」

「怖いって思われてたのか俺」

「少しだけ?」

「疑問形にするな」


 蓮は腹を抱えて笑っている。いっそ窓から落ちろ。


 その時、近くの席の男子が会話に混ざってきた。


「おまえら仲いいな」

「……」

「……」


 その一言で、空気が一瞬だけ変わった。


 たぶん言った本人に深い意味はない。ただ、ここ数日の様子を見て、素直にそう思っただけなのだろう。だが、言われた側にとってはそうもいかない。


 俺は箸を止めた。


 隣では、ひよりもほんの少しだけ動きを止めていた。


「いやー、真央がこんな早く女子と昼食う仲になるとは思わなかったわ」

「蓮、おまえ今すぐ静かにできるか」

「できない」

「知ってた」


 ひよりは一拍遅れて、「え、そ、そんなことないよ」と笑った。


 だが、その笑い方はいつもよりほんの少しだけ硬い。


 俺にはわかる。


 さっきまでより少し体温が上がっている。照れた時とか、不意に意識した時の、あの微妙な緊張の混ざり方だ。顔に出るほどではない。周りから見れば普通に笑っているだけだろう。だが俺の鼻は、その変化を拾ってしまう。


 ――こいつ、ちゃんと意識してる。


 その事実が妙に胸の奥へ刺さった。


「そんなことないって何だよ」

「え?」

「仲いいの、否定するのか」

「いや、そうじゃなくて……」


 ひよりが困ったように俺を見る。こっちを見るな。そういう時に視線を寄越されると余計に困る。


「普通にクラスメイトってだけで」

「それにしては距離近くない?」

「え」

「朝からずっと喋ってるし」

「そうかな」

「そうだろ」

「……そうかも」


 最後だけ、少し小さくなった。


 その反応を見て、蓮がまた面白がる。


「ほらな、朝倉さんも自覚あるじゃん」

「自覚って何の」

「真央への距離感」

「えっ」

「やめろ蓮」

「だって実際近いだろ。ノート覗き込むし、昼も隣だし」

「それは……」


 ひよりが言い淀む。


 頬に、ほんの少しだけ赤みが差した気がした。


 まずい。

 これ以上茶化されると、普通にしんどい。


「昼飯くらい好きに食わせろよ」

「おっ、真央が珍しく助け舟」

「うるさい」

「朝倉さん、守られてるねえ」

「おまえ本当に黙れ」


 俺が本気で睨むと、さすがの蓮も「はいはい」と肩をすくめてパンへ戻った。だが口元のにやつきは消えていない。あとで絶対何か言ってくる。


 何とか話題が散ったところで、ひよりが小さく息を吐いた。


「……びっくりした」

「おまえ、からかわれ慣れてないのか」

「慣れてないっていうか、こういうので言われるのはちょっと」

「ちょっと何だよ」

「ちょっと恥ずかしい」


 最後だけ小さい。


 思わず箸を持つ手が止まりそうになる。


 ひよりはそれをごまかすように、急に俺の弁当を覗き込んだ。


「あ、それ美味しそう」

「話題変えるの雑だな」

「だってほんとに美味しそうなんだもん。玉子焼き」

「普通の玉子焼きだろ」

「一口いる?」

「は?」


 一瞬、意味がわからなかった。


 ひよりは自分の弁当の方を指していた。小さなハンバーグみたいなおかずを箸でつまみかけていて、そのまま少しだけ動きを止める。


「いや、あの……一口交換、みたいな?」

「いらない」

「早っ」


 即答したのは、反射だ。


 だが断った瞬間、ひよりの表情が「えー」と少しだけ不満そうに揺れたので、妙な罪悪感が出る。


「……いや」

「うん?」

「別に嫌とかじゃない」

「じゃあ何で」

「そういうの、普通に距離近いだろ」

「え」


 そこで初めて、ひより自身もその提案の意味を少し意識したらしい。


 箸を持ったまま固まる。


 それから、じわっと頬が赤くなった。


「あっ、そ、そうだよね!」

「おまえ今気づいたのかよ」

「気づいたよ!」

「遅いだろ」

「だって深く考えてなかったし!」

「考えろ」


 こっちは心臓がもたない。


 ひよりは慌てて箸を自分の弁当箱へ戻し、「今のなし!」と小声で言った。だが、その焦り方があまりにもわかりやすくて、余計に意識してしまう。


 照れてる。

 しかもちゃんと、今のが恥ずかしいことだと理解してから照れてる。


 その変化を、俺はまた匂いで先に知ってしまう。


 ほんの少しだけ高くなる体温。呼吸の浅さ。制服の中にこもる気配の変わり方。たぶん周りからは「ちょっと赤くなってる」くらいにしか見えないだろう。だが俺には、それがやけにはっきりわかる。


 だから困る。


「なあ真央」

「何だよ」

「今の断るの、逆に罪じゃね?」

「うるさい」

「俺なら食う」

「聞いてない」

「朝倉さん、次あったら俺にくれ」

「絶対やだ」

「即答で傷ついた」


 蓮が大げさに胸を押さえた。


 ひよりはそれで少しだけ調子を取り戻したらしく、「蓮くんは何でも食べそうだからだめ」と言い返している。いつもの明るさが戻りつつある。


 その時だった。


「昼休みの席移動は、もう少し節度を守った方がいいと思います」


 冷たい、とまではいかないが、よく通る落ち着いた声が、横から差し込んだ。


 俺とひよりが同時にそちらを見る。


 立っていたのは、ひとりの女子だった。


 黒髪を肩の辺りで整え、制服をきっちり着こなしている。背筋がまっすぐで、雰囲気に妙な清潔感がある。目元は涼しげで、柔らかいというより整っている印象が強い。


 名前は、たしか――白瀬凛香。


 自己紹介の時、妙にきちんとしていたやつだ。学級委員候補みたいだなと思ったのを覚えている。


「え、節度?」


 ひよりが目を丸くする。


 白瀬はその視線を正面から受け止めたまま、淡々と続けた。


「まだ席が完全に固定でもないのに、毎回特定の席に集まるのは、周りの人の邪魔にもなります」

「えっと、ごめんなさい……?」

「謝ってほしいわけではありません。ただ、少し距離が近すぎるのは感心しない、という話です」


 最後の言い方だけ、少しだけ鋭かった。


 教室の何人かが、面白そうにこちらを見ている気配がある。やめろ。見世物じゃない。


「白瀬さんって真面目だねえ」

 蓮が面白がるように言うと、白瀬は一切表情を崩さずに答えた。

「藤崎くんはもう少し周囲を見た方がいいと思います」

「うわ、正論」

「褒めていません」


 強い。


 蓮が一瞬だけ押された。珍しい。


 ひよりはというと、「そんなに近かったかな……」と小さく首をかしげていた。まだわかっていないのか、おまえは。


 白瀬はそれを見て、ほんの少しだけため息をついたように見えた。


「少なくとも、周りからはそう見えています」

「……」

「以上です」


 それだけ言って、自分の席へ戻っていく。


 去り際まで姿勢がきれいで、いかにも“ちゃんとしている人”だった。


「怖っ」

 蓮が小声でつぶやく。

「おまえが言うな」

「でも真央、ああいう真面目系たぶん苦手だろ」

「おまえよりはマシ」

「それ傷つくなあ」

「適当に傷ついてろ」


 ひよりは少しだけしゅんとした顔で、自分の弁当を見下ろしていた。


「私、そんなに変だったかな」

「……気にするなよ」

「でも白瀬さんにああ言われると、ちょっと」

「朝倉さんは悪気ゼロなのがまた強いよなあ」

 蓮が割って入る。

「それフォロー?」

「半分くらい」

「半分だめじゃん」


 ひよりはそう言って笑ったが、頬の赤みはまだ少し残っていた。


 周囲に「仲いいな」と言われて、蓮に茶化されて、白瀬に距離が近いと言われて。さすがにいろいろ重なりすぎたのだろう。いつもの明るさの下に、ちゃんと照れが残っている。


 そのことに気づいた瞬間、俺は少しだけ安心してしまった。


 何に安心したのか、自分でもよくわからない。


 ただ――朝倉ひよりは、誰にでも同じ顔をしているだけじゃないのかもしれない、と、そんなことを思った。


 昼休みの終わりが近づき、弁当箱を片づけ始めるやつが増える。


 ひよりも立ち上がり、自分の席へ戻ろうとして、それから一瞬だけこちらを見た。


「……また来てもいい?」


 声は小さめだった。


 さっきまで散々この席にいたくせに、今さら確認するのか。


「好きにしろ」

「それ、いいって意味?」

「自分で考えろ」

「ずるいなあ」


 ひよりはそう言って笑った。


 でも、その笑い方はさっきまでより少しだけ静かだった。


 俺はその背中を見送りながら、弁当箱を閉じる。


「おまえさ」

 蓮が横から覗き込んでくる。

「何だよ」

「朝倉さん、ちゃんと意識してるじゃん」

「……」

「今気づいた?」

「うるさい」


 否定しなかったせいで、蓮がまたにやつく。


 だが実際、その通りだった。


 朝倉ひよりは、からかわれても本気では困らないようなやつだと思っていた。距離が近いことも、何も考えずにやっているだけだと思っていた。


 けれど違う。


 こいつもちゃんと意識する。

 恥ずかしがるし、照れるし、周りに言われれば赤くなる。


 その事実を知ってしまったせいで、昼休みの教室の空気が、少しだけ前とは違って感じられた。

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