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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第10話 雨の日の教室は、たぶん反則だ

 朝から降っていた雨は、昼を過ぎても止む気配がなかった。


 春の雨は、冬みたいに刺すような冷たさはないくせに、気分だけをじわじわ湿らせてくる。窓ガラスを細かく叩く音も、廊下に持ち込まれた水気を含んだ空気も、どこか輪郭が曖昧で、学校全体が少しだけぼんやりした箱みたいになっていた。


 俺――柊真央は、窓際の席で頬杖をつきながら、ぼんやりと雨粒の流れを目で追っていた。


 教室の中も、いつもと少し違う匂いがしている。


 濡れた傘。湿った制服。外から入ってきた雨の匂い。床に残った水気とワックス。そこに人の体温が混ざって、空気の密度が普段よりわずかに近い。晴れた日みたいに軽く風で逃げていかないぶん、教室の中にいろんなものが留まりやすい。


 ……こういう日は、あまり良くない。


 俺の鼻にとっても。

 たぶん、朝倉ひよりにとっても。


「今日ずっと雨だねえ」


 四時間目が終わったあと、後ろからそんな声が聞こえた。


 振り向くと、ひよりが窓の外を見上げている。今日は髪の毛先がいつもより少しだけまとまって見えた。湿気のせいだろう。ブレザーの肩のあたりにも、登校時に少し濡れた名残がもう完全には消えていない。


「梅雨でもないのに、すごい降り方」

「春でも普通に降るだろ」

「そうだけど、何かこう……ずっと空が近い感じしない?」

「詩人か」

「何それひどい」

「急にセンチなこと言うからだろ」

「雨の日ってちょっとそうならない?」

「ならない」

「なってよ」

「無茶言うな」


 ひよりはふふっと笑った。


 その笑い方が、今日の湿った空気の中だと妙にやわらかく聞こえる。


 やめてほしい。


 雨の日は、距離も音も匂いも、全部少しだけ近く感じるから困る。


 放課後になる頃には、教室の空気はさらに重くなっていた。


 外は相変わらず雨。窓の向こうの校庭は白く煙って見える。部活へ行くやつらは面倒そうな顔をしながらも傘を差して出ていき、帰宅組は「やだなー」「靴濡れる」と言いながら支度をしている。


 俺もホームルームが終わるのを待って、鞄へ教科書をしまった。


「真央、今日どうする?」


 蓮が傘を指で回しながら聞いてくる。


「どうするも何も帰る」

「駅前寄る気ゼロだな」

「この雨で寄り道するやつの方が元気すぎる」

「たしかに」


 蓮は笑って、先に教室を出ていった。何人かの男子も一緒だ。


 ひよりは女子のグループと何か話していた。雨だから一緒に帰るとか、途中まで傘を合わせるとか、そういう話かもしれない。俺はそこまで気にしないようにしながら、帰る準備を終える。


 だがその時、担任に呼び止められた。


「柊、ちょっとプリント運ぶの手伝ってくれるか」

「……はい」


 断れる雰囲気ではなかった。


 職員室へ配布物の残りを持っていき、ついでに来週の提出物の説明まで聞かされる。大した時間じゃないはずなのに、雨の日の放課後はやけに長く感じる。


 ようやく解放されて教室の前まで戻ると、中はもうほとんど空だった。


 がらんとしている。


 数分前まで誰かの声や椅子を引く音で満ちていた教室が、今は雨の音ばかりを際立たせていた。


「……帰るか」


 小さく呟いて中へ入る。


 窓は閉まっているが、少しだけ隙間があるのか、湿った風が入り込んでいた。放課後の教室特有の、熱が抜け切らない机や椅子の匂い。そこへ雨の日の湿気が重なって、空気が少しだけ肌にまとわりつく。


 自分の席に鞄を置き、入れ忘れていたノートをしまおうとした、その時だった。


 がら、と後ろのドアが開いた。


 反射的に振り向く。


「あ」


 朝倉ひよりだった。


 廊下から顔を覗かせ、教室に俺しかいないことに気づいたらしい。ほんの一瞬だけ目を見開き、それからいつもの笑顔に近いものを浮かべる。


「……柊くん、まだいたんだ」

「そっちこそ」

「忘れ物。ノート机に入れっぱなしだった」


 そう言いながら、ひよりが教室へ入ってくる。


 傘を差して戻ってきたのだろう。制服の袖口とスカートの裾が少しだけ湿っていた。髪にも細かい水気が残っていて、いつもより色が濃く見える。


 その姿を見た瞬間、教室の空気がまた少し変わった気がした。


 まずい。


 二人きりだ。


 しかも雨の日の放課後の教室で。


 これ、ラブコメとかなら“イベント発生”って言っていいやつじゃないのか。いや、知らないけど。知りたくもないけど。


「先生に捕まってたの?」

 ひよりが自分の席の方へ歩きながら聞いてくる。

「プリント運ぶの手伝わされた」

「うわ、災難」

「そっちは?」

「一回昇降口まで行ったんだけど、ノート忘れたの思い出して」

「間抜けだな」

「今のは自分でも思った」


 ひよりは苦笑しながら席へ着き、机の中を探った。しゃがんでノートを引っ張り出し、それから「よし」と小さく言って立ち上がる。


 その時、窓の外で少し強く雨が打ちつけた。


 ざあっ、と音が大きくなる。


 二人とも、なんとなくそっちを見る。


 雨で白く曇ったガラス。流れ落ちる水筋。灰色の空。誰もいないグラウンド。

 その景色のせいか、教室の中が妙に閉じた空間みたいに感じた。


「……すごいね」


 ひよりが小さく言う。


「帰るのやだな」

「じゃあやむまで待ってればいいだろ」

「柊くんも?」

「俺は帰る」

「即答」

「家が近い」

「私もそんな遠くないけどさあ」


 そう言いながら、ひよりは自分の席に座り直した。


 帰るんじゃないのかよ、と思ったが、口には出さない。


 代わりに俺も、自分の席の方へ腰を下ろした。立ったままだと、なんだか落ち着かなかった。


 雨音が教室の中を満たしている。


 誰もいない放課後、閉じた窓、湿った空気、制服の布地に残るわずかな雨の名残。こういう状況は、良くない。いろんな意味で。


「ねえ」


 ひよりが、少しだけ真面目な声で言った。


「何だよ」

「前にさ」

「前?」

「私、近かったらごめんって言ったじゃん」

「……ああ」


 心臓が、一回だけ妙な跳ね方をした。


 ひよりは窓の外を見たまま、指先でノートの角をなぞっている。


「やっぱり、ちょっと気にしてるんだよね」

「何を」

「距離」


 雨音が、やけに大きく聞こえる。


「白瀬さんにも言われたし」

「……」

「それだけじゃないけど」


 そこでひよりは少しだけ笑った。笑ったが、いつもの軽さはない。


「私、たぶん昔から、人に近づきすぎるんだと思う」

「自覚あるなら直せばいいだろ」

「直そうとしてるよ」

「見えない」

「ひどいなあ」


 その言い方はいつも通りなのに、声の奥だけ少し違った。


 軽くごまかしている。けれど、ほんとはごまかしきれていない。そういう感じだ。


 俺は答えずに、机の上のシャーペンをいじった。


 ひよりは少し黙ってから、またぽつりと続ける。


「あとさ」

「……」

「汗のことも、やっぱり気になるし」


 その一言で、喉の奥が少し詰まる。


 制汗シートのこと。体育のあとに少しだけ打ち明けたこと。昼休みに女子の何気ない一言で表情が揺れたこと。全部が頭の中で繋がった。


「別に、おまえだけじゃないだろ」

「うん。でも、“自分がそうだ”って思うと嫌なんだよね」

「……」

「近いし、汗っかきだし、なんか、相手が嫌じゃないかなって」


 その“嫌じゃないかな”が、思ったよりずっと重かった。


 たぶんこれは、ひよりにとって前からある不安なのだろう。誰かに明確に傷つけられたわけじゃなくても、ずっと自分の中で気にし続けてきた種類のやつ。


 だから雨の日の放課後なんかに、こうしてぽつぽつ出てくる。


「……柊くんってさ」

「何だよ」

「近くにいると、嫌じゃない?」


 その問いで、教室の時間が止まった気がした。


 雨音はしている。窓の向こうでは水が流れている。遠くの廊下から誰かの足音もしたかもしれない。なのに、その一言だけが妙にくっきり落ちてくる。


 嫌じゃないか。


 答えは、簡単なはずだった。


 嫌じゃない。

 むしろ、その逆だ。


 でも、その“逆”をそのまま言ったら、たぶん色々終わる。俺の理性とか、空気とか、今後の距離感とか、そういうものが。


 だからといって、ここで嘘をつくのも違う。


 嫌じゃないどころか、意識しすぎて困っているのだ。汗も、距離も、表情も、空気の変化も。全部こっちの方が勝手に拾ってしまって、毎回落ち着かなくなっている。


 そんなこと言えるわけがない。


「……」

「……」

「……答えづらい?」

 ひよりが少しだけ不安そうに笑う。


 その顔を見た瞬間、余計に逃げ道がなくなった。


 だめだ。ここで曖昧にしたら、ひよりはたぶん変な意味で受け取る。

 かといって、本音を全部出すのも無理だ。


 極限状態だった。


「……嫌じゃない」


 ようやく絞り出した声は、自分でも思ったより低かった。


 ひよりが目を瞬く。


 俺はそのまま、視線を逸らさずに続けようとして――


「むしろ……」


 そこで止まった。


 その先を言ったら、たぶん戻れない。


 ひよりの顔が、みるみる赤くなるのがわかった。


「え」

「……」

「え、えっと、それって」

「……今の忘れろ」

「無理だよ!」


 ひよりは真っ赤なまま、ノートをぎゅっと抱えた。


 耳まで赤い。わかりやすすぎる。こっちまで熱くなるからやめてほしい。


「おまえが聞くからだろ」

「聞いたけど! でも“むしろ”って何!?」

「知らない」

「言ったの柊くんでしょ!?」

「言いかけただけだ」

「一番だめなやつじゃん!」


 雨の日の教室で二人きり。

 湿った空気。少し近い制服の距離。窓を叩く雨音。

 そして、真っ赤になる朝倉ひより。


 反則なのは、たぶんこのシチュエーション全部の方だと思う。


 俺は机の上に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。


 心臓がうるさい。

 隣ではひよりもまだ落ち着かなそうにしている。


 この空気のまま帰るのかと思うと、どう考えてもしんどかった。

 でも同時に、少しだけ――本当に少しだけ、この雨がすぐには止まなければいいのに、と思ってしまった自分もいた。

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