刺青
帰宅してリビングのドアを開けたら、ユキさんはギターを抱えたままソファで寝ていた。
気持ち良さそうにしているのは可愛いのだけど、さすがにこのままにしておくこともできないので、そっと近づいてギターを拝借しスタンドに置く。
背中と膝に手を回して抱き上げようとしたところで、それは視界に入ってきてしまった。
左足首に刻まれた、刺青。
一匹の龍が、ぐるりと足首を巡っているウロボロス。
あの人に、愛された証。
消していないことは知っていた。俺も、消さなくてもいいと言った。
それが強がりだったことを、今になって思い知る。
(くそ…相変わらず情けねえ)
近い距離にあの男がいることが、こんなにも自分を揺さぶるなんて。
急激に体が重く感じて、そのままズルズルと座り込む。
「……りょう?」
「っ……ごめんなさい、起こしちゃいました?」
寝起きの少し掠れた声が聞こえて顔を上げると、ユキさんの指が左頬に触れた。
「おかえり」
「……ただいま」
その手を取って、指と掌にキスを落とす。
ユキさんは静かにそれを見つめると、ゆっくり起き上がって俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「どうした?」
「え、なに、が?」
「なんかあった?」
「いえ。特には、なにも」
「……そうか」
誤魔化せてないと分かっているのに、追求されないことに安堵してしまう。
「食事は?」
「あ、まだです」
「じゃあ一緒に食べよ」
「えっ、もしかして待っててくれました?」
ソファから立ち上がってキッチンへと向かうユキさんに聞くと、彼は視線だけをこちらに向けて首を緩く横に振った。
「遅くなるなら先に食べようと思ってた。うっかり寝てただけ」
「それならいいですけど、疲れてるんじゃないですか?」
今日だって朝から会社に行って、昼休みの間にエビちゃんとスケジュール確認とかして、帰ってきてから依頼されてる曲作りしてたはずで。
現在23時。ユキさんが何時に帰ってきたのかはわからないけど。
この後だって作曲の続きをするんだろうし、最近寝る時間も遅くなってきてる。
「大丈夫」
まぁ、そう返ってくるよね。
ユキさんはカウンターキッチンで鍋を火にかけながら、あくびを噛み殺していた。
「ユキさん、俺やるから座ってて」
「いいよ、お前は着替えてこい」
「いーから。あともう風呂入って寝るだけですから」
肩を掴んで半回転させると、ユキさんは渋々キッチンから出ていく。とはいえそのままカウンターに座ってこちらの作業を見ているので、意味があったのかどうか。
「あ、ビーフシチューめっちゃ美味しそう」
今晩のメニューはビーフシチューだったらしい。極寒の外から帰ってきて、ユキさんの手作りご飯が食べられる日が来るなんて。
我ながら現金だなと思うけど、さっきまでのモヤモヤした気持ちがそれだけで軽くなった。
「冷蔵庫に買ってきたサラダデリある。あとご飯とパンは好きな方選んで」
「至れり尽くせり!」
「いつもやってもらってるから」
「あはは、好きでやってるんで」
沸騰してきた鍋から芳しい香りがして、すっかり空っぽになっていた胃がくるくると鳴く。
空腹の時は、ろくなことを考えないものだ。
冷蔵庫からサラダを取り出して盛り付け、深皿に温め直したシチューをよそう。
カウンターの上に2人分を乗せると、ユキさんはそれを受け取って綺麗に並べてくれた。
「ユキさんはご飯とパンどうします?」
「んー……パンかな」
「じゃあ2人分切っちゃいますね」
買ってあったフランスパンを切り分けてトースターへ。
「よし」
ユキさんの隣に座って、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
温かいシチューは、疲れた精神と空腹に沁みる。
「おいひい」
「ん、よかった」
「大きめ野菜がくたくたに煮込まれてるの、最高ですよね」
「圧力鍋の功績だな」
じゃがいもを冷ましながら言うユキさんの近くで、トースターが焼き上がりを知らせた。
面倒くさがってカウンターから手を伸ばすあたり、ユキさんはちょっとものぐさなんだと思う。
「ユキさーん、火傷するから」
「……うん」
「もー、うんじゃない。手を大事にっていつも言ってるでしょ。俺が取りますから」
「………過保護」
不服そうに上がる声を無視して、再び向かい側へ回る。面倒なのはわかるんだけどね。もういっそカウンターの上にトースター置こうかな。
「過保護にさせてんのは誰ですか」
プレートに乗せたパンを置いてじとりと見つめたら、気まずそうに目を逸らされた。
自覚があって何より。
「……今日」
フランスパンをシチューに浸しながら、ユキさんは様子を伺うように言った。
「撮影、どうだった?」
「え、あー……」
そういう方向で攻めてきたか。
やはり、さっきの俺の態度は気になったんだろう。きっと最初は放っておいてくれるつもりだったんだろうに。
「楽しかったですよ」
「そうか」
「一緒に撮ったのも仲間内ばっかりだから、そんなに緊張もなくて」
「……」
ヒタヒタになったパンを齧りながら、ユキさんはじっと耳を傾けてくれている。
「……龍臣さんと、朝緋さんに会ったんです」
「……」
「同じスタジオだったみたいで」
「うん」
「マネージャーさんが、ユキさんによろしくって言ってました」
「うん……そうか」
それでも、誤魔化してしまった。
だって、ただの醜い嫉妬だ。偶然龍臣さんに会って、あの時のことを思い出して。帰ってきたら、ユキさんの左足首には、まだあの人の証が遺されていて。
どうしようもないほどの嫉妬心と不安が、奥底でのたうち回っている。
その醜さを、この人に知られたくなかった。