鳴り止まないで、そばにいて
音の波というものは本当に存在するのだと、その時初めて知った。
押し寄せる波が自分を包み込んで、丸ごと攫われたかと思うのに、いつの間にか俺を残して消えてゆく。
心は、ずっと囚われているのに。
鳴り止まないで。
ずっとずっと、そばにいて。
「ピアノの他に、なにができるんですか?」
「え?」
出来上がった曲を弾き終わったユキさんへ声をかけたら、よく聞こえていなかったのか振り向いて首を傾げた。
「楽器。ギターとピアノのほかに」
「あー……ヴァイオリンを少しだけ」
「貴族の子女かなんかなの!?」
「……まぁ、恵まれた家庭ではあったけど」
勢いに押されながら答えるユキさんへ、興味津々に近づいてしまう。
ヴァイオリンて。ピアノとヴァイオリンて、いいとこのお坊ちゃんじゃん。
そういえば、ご実家はお医者さんだったっけといつだか聞いた話を思い出した。
「振り幅がすごいっすね」
「ピアノとヴァイオリンは母親に習わされただけだからな」
「お母さん、色んなもの習わせてますね?」
格闘技もそうだけど、ユキさんはご両親から随分溺愛されているように思う。
家族の話はそんなに聞いたことはないけれど。
「……今はもうほとんど弾けない」
「弾けばいいのに」
「楽器もない」
「実家から持って来なかったんですか?」
「防音室ないと厳しいし」
「あー、確かにヴァイオリンはそうですよね」
今は防音室があるので、弾こうと思えばできますが。
心躍らせながらユキさんを見つめると、俺の言わんとすることを理解してくれたのか、小さくため息をついた。
「機会があったらな」
「やった! ヴァイオリン構えるユキさん……絶対カッコいい……」
「……」
はしゃぐ俺を横目に、ユキさんは少しだけ瞳を伏せる。
一瞬だけ見えた寂しそうな顔は、次の瞬間には俺を映していて。
ふ、と静かに笑みを浮かべて、俺の頭を撫でた。
「……え、なんで?」
「なんとなく」
「えぇ、そんな急に」
「やだった?」
「嫌なわけないです。なんならもっと撫でてくれても!」
「はは、甘えた」
ズイと頭を差し出す俺に笑って、ユキさんはもう一度くしゃくしゃと撫でてくれた。
あの夜の光景を、夢に見る時がある。
ホワイトファルコンを持つ彼の姿に息を呑んだ次の瞬間、音の渦に飲み込まれた。
波を被るように一音一音が、俺の周りに溢れて溺れそうなほど、息の仕方を忘れた。
スポットライトの下で、ユキさんは歌うようにギターを掻き鳴らしていた。
その熱を。
その、激情を。
いつまでも、いつまでも、憶えている。
「っ……ビックリ、した」
「おはよぉ……」
「おはよ。コーヒー飲むか?」
「うん、飲む」
久しぶりにあの夜の夢を見て、ふと目覚めた朝。
涙が、頬を伝ったことに気づいた。
隣にいるはずのユキさんは影も形もなくて、なんでこんな時にいないんだよーと、八つ当たりのようにベッドをポフポフと叩いた。
まだ寝惚けた頭のまま、芳しいコーヒーの香りに誘われてダイニングを覗いたら、朝食の準備をしている彼を見つけて今に至る。
急に後ろから抱きついたのはごめん。でも今朝はこのまま離れられる気がしないです。
「涼、危ないから」
「うん」
「寝惚けてるだろ」
「んーーー」
「……スクランブルエッグとソーセージは要らないのか」
「ユキさんがいればいい」
ギュッと力を込めて離れる気のない俺に、ユキさんは火を止めて大きく息を吐く。
「怖い夢でも見た?」
軽く髪を撫でながらかける声が、酷く優しい。
「ううん、すごい、いい夢」
「……そうか」
「ユキさんに、初めて会った夜の夢」
「はは、高校生の時じゃん」
「うん」
「っ……おい……」
腰を擦り付けたら、ユキさんはビクリと肩を振るわせた。
だって、あんな興奮冷めやらぬ夢なんか見ちゃったらこうなるでしょ。
俺まだ20代半ばの元気一杯な男なんですよ。
好きな人の色気が爆発してるステージの夢見て、起きてきてキッチンで朝食作ってるその人がいたら我慢できないでしょ。
「涼っ」
「だってー」
「朝からっ……」
「今週一回もシてないもん」
ごそごそとTシャツの中に手を忍ばせて、胸と腰をまさぐる。
頸にキスをして、そのまま上に、耳の裏を辿って、頬に。
顎を引いて、唇を塞いだ。
「んっ……」
「は……っ、」
「だ、めだって……」
「なんで? ユキさん今日お休みでしょ?」
「そ、ゆー、頭は回るっ」
「ふふ、かわいい」
「ぁっ……」
雪崩れ込むようにキスを深くする。
立っていられなくなったのか、縋り付くユキさんの体を抱き上げてベッドルームに戻った。




