なぜ雨に降られても濡れないのか?(7)
気を取り直して羽束は何もない空間を見ながら言う。
「ただ、非常に強い気配以外に隠れるように、もうひとつ何かよからぬモノの気配がありますね。おそらく、こちらがあなたに不幸を呼んでいるモノでしょう」
「それがもう一種類ですか?」
「はい」
羽束は真剣なまなざしを雪彦に向ける。
「女の子のあやかしが守ってくれたからこそ、あなたは何とかなってきたのでしょう。何度も遭遇したというにわか雨は、あなたに対する警告だったのではないかと」
言われてみて思い出す。
にわか雨はたしかに事件が起こる前に降ったものだ。
「しかし、守られる理由が分からないのですが……」
雪彦は首をひねる。
昔から幽霊が見えたことは一度もない、いわゆる霊感とは無縁の人間だった。
幽霊や妖怪のたぐいに恨まれる覚えはないが、守ってもらえる理由も思い当たらない。
「それとも守護霊というやつでしょうか?」
「守護霊ではありませんね。通常、人間の守護霊は人間霊がなるはずですが、あなたに憑いて守っているのは、動物霊の気配がします。昔可愛がっていた動物、もしくは手当てした生き物に心当たりはありませんか? 何の動物かを隠すのが上手く、あなたに害を与えない雨を降らせる力を持ち、人との接点があるとすれば猫、あるいは狐ではないかと思うのですが」
「猫?」
羽束の言葉に雪彦は引っ掛かりを覚える。
「狐はともなく猫なら、遠くに住む祖母が可愛がっていた黒猫がいますね。クロって名前をつけられてて、学生時代はよく遊んだり、一緒に日向ぼっこをしたものです」
「その猫はいまどうしていますか?」
彼女の問いに彼は目を伏せた。
「今年、死んだそうです。人見知りのする、大人しい雌猫でした。祖父母と僕くらいにしか懐かないやつで」
だから祖父が亡くなり、祖母も入院してから彼の両親は彼に「お前が世話をしろ」とうるさかったのだろう。
不可解な事件に遭遇して身に覚えのない容疑を何度もかけられた彼には、とてもそのような余裕がなかった。
そうでなければクロの面倒を見るくらいはしてもよかったのだが……死の知らせを聞かされた時の気持ちは言葉にできない。
「そうでしたか」
羽束は悲しそうに聞いていたが、やがて思いついたように手をたたく。
「では、彼女と話してみますか?」
「えっ? そんなことができるのですか?」
彼女の思いがけない提案に雪彦は目を見開いた。
「ええ……これもサービスのうちです」
羽束はにこりと笑うと目を閉じる。
「さまよう御霊よ、我が声をたぐり来たれ。我が力を媒介とし、その声、その想いを届けよ」
彼の眼には彼女の体が淡く白い光を放っているように見えた。
彼女の右肩の上に小柄な黒い服を着た黒髪の少女が腰をかける。
そのヘーゼルアイはたしかに祖父母が可愛がっていたクロのものと一致した。
「よく分からないけど、この子に触れたらゆきひこにあたしの声が聞こえるのかい?」
彼女が口を開くと外見には似つかわしくない、老婆のような声が飛び出す。
どことなく雪彦の祖母の声や話し方と似ていた。
「クロ? クロなのか?」
ほとんど反射的に彼は話しかける。
ありえないはずだという常識論は、彼の頭から消し飛んでいた。
この理屈ではない不思議な懐かしさは、どのような説明にも勝る。
彼と視線が合い、その声が聞こえた少女は懐かしそうに微笑む。
「ああ、ゆきひこ。ようやくつうじたね」
「クロ……」
猫の時の動作と何も一致しないはずなのに、どういうわけかクロが甘えてきた時の様子が思い起こす。
「ごめん。看取れなくて、最近は遊んでやれなくて。ごめん」
目の前の少女がクロだと思うと、心の奥底に封じ込めていた気持ちが次々と浮かんでくる。
どういうわけか、彼女が本物のクロかどうか疑おうという気にはならない。
理屈抜きで彼女は本物だと信じることができた。
「いいよ、あんただってたいへんなんだから」
人の姿になったクロは笑って許してくれたが、かえって雪彦の罪悪感を強くする。
「おばあちゃんがあんたがしんぱい、あんたみたいないい子がしごとやめるにはきっとわけがあるって言っていたから見にきたんだけど、せいかいだったねえ。なんかへんなのにまとわりつかれているみたいだし」
「……あの雨はお前が降らせていたのか? ずっと警告してくれていたのか?」
雪彦の問いにクロは小さくうなずく。
「ほんとはもっといいほうほうがあればよかったんだけど。あたしの声、あんたにはとどかなかったからさ。なけなしのチカラをつかったんだよ。ああやれば、なんかおかしいぞって思ってくれるんじゃないかってきたいしてね」
屈託なく笑う彼女の姿に彼の胸は熱くなる。
どうして気づけなかったのかと過去の自分を呪いたくなったほどだ。
「ごめん……本当にごめん」
「いいよ。たいへんだったのはわかったつもり。それよりおばあちゃんがあんたにあいたがっている。いちど、あいにいってあげて」
クロは顔から笑みを消し、真剣な声で頼む。
「うん」
雪彦は彼女がきたのはそのためでもあると理解する。
死んだはずの彼女がどうして人間の姿になっているのか、という疑問は後回しだ。
「ただ、俺に災難を呼んでいるらしいモノを何とかしてもらってからじゃないと、誰かを巻き込むかも。おばあちゃんが狙われたりしたら困る」
彼の言葉にクロは小さくうなずく。
彼女もその可能性を考慮しているからこそ、あまり強くは言わないのだろう。
「誰だとかどこにいるとか分からないかな?」
彼の問いにクロは申し訳なさそうに目を伏せて、首を横にふる。
「分からない。あたしにできたのはあんたに忠告するだけ。それもうまくいかなかったけど」
「そうか」
ではどうすればよいのだろうと彼は羽束を見た。
専門家ならば何かいい知恵を出せるのではないかという期待の表れである。
「そうですね。たしかにあなたを狙っているモノが、あなたに近しい人を巻き込む可能性はあります。わたしが同行すればお守りすることはできますが、藤無さんはそれを望みますか?」
羽束は怜悧なまなざしを彼に向けた。
「危険はないのでしょうか? もしもの場合は祖母も守っていただけますか?」
「はい。あなたを狙うモノはあなたか、近くにいる者、この場合はわたしを真っ先に狙ってくると思います」
それならば周囲への危険は減るなと雪彦は思う。
「まずあなたの家や職場を“視”させていただきましょう。敵の正体がつかめるかもしれません。それからあなたのおばあさまのところへ同行させていただきます。途中敵が襲って来ればその場で倒し、依頼達成となるでしょう。他の方に矛先が向いた場合も対処いたします。ただ、報酬が多少変わってしまうのですが」
実に申し訳なさそうに羽束は説明したが、彼はうなずけた。
「そうですよね。プロにただで護衛や調査をしてもらえるはずがない」
拘束時間が伸びるほど支払額が増加するのは当然だろう。
だが、いつ来るか分からないものに備えて、羽束に護衛をしてもらえるのほどの余裕があるのかどうか。
「……あの、報酬は分割払いでも大丈夫ですから」
深刻な顔をする彼に対して、羽束はおそるおそる声をかける。
「それはありがたいです。今回の件が解決すれば、再就職先を見つけなきゃ払えるか分かりませんが……」
「えっと、わたしのものではなく祖父の人脈ですが、紹介は可能ですよ? お店のお客さんには従業員を雇う側の人が何人もいらっしゃいますから」
彼女の言葉を聞いた雪彦は困惑した。
「お気持ちはうれしいのですが、大丈夫なのですか? 顧客の個人情報については守秘義務があるのでは?」
彼の懸念に対して羽塚は微笑む。
「大丈夫です。あやかしが原因で失業した方の次の職場を探すのも、うちのサービスです。もちろん許可をくださった方しか紹介できないのですけど」
何とも行き届いたサービスだと雪彦は感心すると言うより、呆れてしまう。
もっともこの店の客だというならば、あやかしのせいで災難に遭った人間に仲間意識を抱いているのかもしれないが。
それでも彼の疑問はまだ残っている。
「でもいいのですか? 僕は初めてこの店に来ただけで、誰かの紹介状を持っているわけではないのですよ。信用できるのですか?」
「ええ。信用できる方でないとこの店には入れないのです。詳しくは企業秘密ですけどね」
だから藤無さんは信用できます、と羽束はいたずらっぽく笑う。
そのような仕掛けがあるのかと雪彦は目を丸くするが、「本物」であればそれくらいはできるのか。
「ゆきひこ、この子のいうことはほんとう。とてもふしぎな空気がこの店ぜんたいをおおっている」
「クロが入れたのは、俺に敵意がない身内みたいなものだからですか?」
「ええ、そうです」
彼の発言を羽束が肯定する。
あるいはこの店の中が一番安全かもしれないが、ずっと滞在するわけにはいかない。
「ではお願いします」
雪彦が頭を下げて依頼をすると羽束は「はい」と応じる。