なぜ雨に降られても濡れないのか?(8)
羽束は店の外に出ると眉間にしわを寄せて、雪彦を見る。
「いやな気配が強くなりました。でもこれは……悪霊のたぐいではありませんね。何らかの祟りだと思います」
「え、もう分かったのですか」
彼が目をみはると彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「祖父ならすでにどのような祟りなのか、なぜあなたが狙われたかを見抜けたでしょう。わたしはまだ未熟なのです」
「そ、そんなことはないと思います!」
彼は自分でも意外な強さで彼女の言葉を否定する。
「そ、そうでしょうか」
羽束は一瞬ひるんだものの、すぐにうれしそうに口元をほころばせた。
「ありがとうございます。藤無さんのご期待を裏切らないよう、精いっぱい頑張ります」
天女のような笑顔に彼の心は荒波が起こるが、いまはそれどころではないと理性でねじ伏せる。
二人は肩を並べてバスに乗り、彼の自宅へとやってきた。
「どうやらこの付近に原因があるわけではなさそうですね。何か痕跡が残っていないか、たしかめてみましょう」
羽束はそう言うと、彼に部屋まで連れて行ってもらうように頼む。
(しまった。片づけていない)
汚部屋とまではいかなくとも、掃除と整理整頓がきちんとできているかと言えば否だ。
うら若い女性に見られて困るものは片づけてあるものの、それ以外の理由でためらわれる。
しかし、この期に及んで待ってくれとは言えず、雪彦は苦い薬を飲んだような気持ちで彼女を部屋に入れた。
「ああ、中までは入らなくても大丈夫です。ここにある気配はクロさんのものだけですね。どうやらこのアパートの付近にあやかしが来ていたわけではないようです」
羽束の言葉に彼は疑問を抱く。
答える方はいちいち面倒かもしれないが、彼としては聞いておきたかった。
「近くまで来ていないのに祟るなんてこと、できるものなのですか?」
「ええ。できるモノはいますよ」
彼女は嫌がらなかったが、表情はかなりけわしい。
「でも、ただの悪霊にそんな力はありません。あなたが疑われるような形で事件を起こしつつ、近隣の人に一切被害は与えないという器用なまねが可能な時点で、とてつもない強い存在です」
「えっ?」
言われてみればもっともな話ではあるが、雪彦にしてみればたまらなかった。
彼の不安をあおってしまったことに気付いた羽束はあわててつけ足す。
「力のわりに被害が小さいとなると、本気であなたを苦しめようとしているわけではないようです。あなたが思い出すべき何かを思い出し、改めればおさまるたぐいのものだと考えればつじつまが遭います」
「それって祟りって言うのですか?」
祟りと言うよりは注意喚起みたいなものではないかと彼は思う。
彼女は小さくうなずいて言った。
「ええ。人の方が改めれば鎮まる現象のことを、わたしたちは祟りと呼んでいます」
「つまり僕は以前、何か失敗をしていたということですか?」
雪彦の問いに彼女は首を縦に振る。
「やってはいけないことをしてしまったのか、やらなければいけないことを忘れてしまっているのか。現段階では断定できないですが、おそらくは後者でしょう。やってはいけないことをしたのだとすると、あまりにも被害が小さいですから」
「なるほど……」
神妙な顔で相槌を打つ彼の姿を、羽束のダークブラウンの瞳が映す。
「何か心当たりはありませんか? どんなささやかなことでもいいのですけど」
彼女の質問に彼は答えられなかった。
怪事件がはじまる前に何をやってしまったか、まるで覚えていないのである。
彼女は少し不安そうな瞳を向けた。
「わたしの話、信じていただけるのでしょうか? 何か疑問はありませんか?」
「え、いや、特にありませんが」
言われてみればどうして彼女の言葉に、ここまで説得力を感じているのか、雪彦は疑問を持つ。
だが、考えてみてもいっこうに分からなかった。
「たしかに不思議なくらいうなずけるんですよね。今まで知らなかったことばかりで、本当なのかどうかも判断できないはずなのに」
彼が己の中で育った疑問を言語として口の外に出すと、羽束は絶滅危惧種を見つけた動物学者のような表情になる。
それは一瞬のことですぐに彼に話しかけた。
「そうでしたか。いずれにせよ、信じていただけるとこちらもありがたいです。信じていただけないと、事件の解決が難しくなりますが」
「大変ですね」
雪彦にしてみれば「自分から依頼したのに、専門家の意見を信じない人もいるのか」と感じる。
彼女は困った顔をしただけで、すぐに話を戻す。
「おばあさまにも危険があるかもと危惧していらっしゃいましたが、この分だと大丈夫だと思います」
「そうですか」
羽束の言葉に少し雪彦は安堵する。
関係ない人間を巻き込むのはあまりいい気がしない。
体調を崩して入院している祖母なるとなおさらだ。
「いかがいたしましょう? おばあさまのお見舞いにはいつ行かれますか?」
彼女の問いに彼はためらいがちに答える。
「入院先はこの街の大きな病院ですから、行こうと思えば今日これからでも行けるのですよね。面会謝絶になっているわけでもないですし」
言ってしまってから彼は決断した。
「いえ、行くことにします」
これを聞いたクロがうれしそうにうなずいている。
「それがいい。まだげんきなうちに会ってあげて」
彼女の声は雪彦にもしっかり届く。
これに背中を押されるように彼は祖母が入院している病院へと行く。
場所はバスで三十分ほどの千ヶ峰堂とは反対の方向にあり、近所には何軒もの飲食店と運輸会社の物流拠点や個人店がある。
公営バスでも私バスでも「病院前」には停まるため、便利と言えば便利だ。
バスの中で二人の間に会話はない。
雪彦としては話しかけたいのだが、羽束は真顔で周囲をうかがっている。
彼の護衛するため警戒している最中に話しかけるというのは、迷惑なだけではないか。
クロは彼らふたりを微笑ましそうに見守っているが、どちらも気づかなかった。
バスから降りると背の高い木に囲まれた、二千五百平方メートルの敷地が視界に入る。
病院に入る前に個人の青果店で見舞い用の果物を買う。
病院入口の自動ドアを越えて右手に曲がると総合受付があり、左脇が入院患者への見舞いの受付だ。
そこで受付の女性に名乗って見舞いに来た相手の名前を告げる。
女性は内線電話をかけてから雪彦をに目を向けて言う。
「東病棟の六階ですね。そちらのエレベーターからどうぞ。降りてすぐのナースステーションで、もう一度名乗って下さい」
「ありがとうございます」
エレベーターを降りてすぐ、左手にあるナースステーションに詰めている白いマスクをした若い女性看護士に声をかけた。
「藤無雪彦さんですね。ご案内いたします」
彼女は立ち上がってドアを開けて彼らの前に立ち、ふたりを案内してくれる。
雪彦の祖母きくえの病室は六人部屋の右奥で、白いカーテンからさしこむ日光が優しい。
他の患者のところには看護士たちがいて、テキパキと動いている。
「おばあちゃん」
雪彦がそっと声をかけるとあお向けに寝ていた彼女は目を開けて、彼に焦点を合わせた。
うす緑の入院患者用の服を着た祖母は、入退院を繰り返しているせいか、ずいぶんと痩せこけたように見える。
「おや、雪彦来てくれたんだねえ」
「遅くなってごめん」
血行がよくない懐かしい顔を見て、かん高い声を聴くと、途端に罪悪感がこみあげてきて反射的にこれまでの不義理を謝り、果物を置く。
羽束が彼女を見てはっと息を飲んだことに彼は気づかなかった。
「ありがとう。あんたが大変だったのはあの子から聞いているよ。少しは落ち着いたのかい?」
あの子とは祖母の娘でもある雪彦の母からだろう。
「うん、実はそれはまだで」
彼がためらいがちに言うと、祖母は羽束の存在に気づいた。
「こっちの可愛い娘さんは、あんたのいい人かい?」
「ち、違うよ!」
ふたりして慌てて否定する。
「そうなのかい。できればひ孫を見たいんだけどねえ」
祖母は露骨にがっかりしていたが、すぐに彼女に目を戻す。
「何だろうね。何だか不思議な人だ……それに何故か分からないけど、クロを連れてきてくれた気がするね」
そこへ羽束が声をかける。
「実はお孫さんの件で少しお尋ねしたいことがあります」
「何だい?」
目を丸くする雪彦をよそに、老婆は落ち着いた声で答えた。
「もしかしておばあさまは、よくお詣りにいらっしゃっていた神社があるのではありませんか?」
この問いかけに老婆は不思議そうに彼女を見る。
「……どうして分かったんだい。人目につかないところにある小さなお社の神様だけど、藤無家はずっとお詣りしてきたと亡くなったおじいさんから聞かされていてね。入院するまではずっとひとりで行っていたんだよ」
懐かしい思い出を振り返るようだったきくえの声は、やがて疑問に変わった。
「そう言えば、最近は誰か行ってないのかい? 寂しがり屋の神様だから月に一回くらいは行った方がいいと、おじいさんはそのまたおじいさんから聞かされたようだけれど」
「え、初耳だよ。母さんや父さんも知らないんじゃないかな」
お社のことも神様のことすら、雪彦は知らなかったのである。
「え、じゃあ、もう何年も行っていないのかい……」
「おおよそのことが分かりましたね」
羽束が小声で彼に耳打ちをした。
ふんわりと柔らかい香りが彼の鼻腔をくすぐった。
彼はドギマギしながら小首をかしげそうになる。
「差し出がましいかもしれませんが、よろしければこれからお孫さんと一緒にお詣りに行こうかと思いますが」
彼女の申し出を聞いたきくえは、うれしそうに顔をしわくちゃにした。
「そうかい。ありがたいねえ。お詣りは花とサカキを持っていって、祠に手を合わせてくれたら大丈夫だよ」
「本格的なものではないのでしょうか?」
羽束の疑問を老婦人は肯定する。
「そうだね。友達に会いに行く感覚が近いかね。本当は罰当たりなのかもしれないけど、あそこの神様はそれで喜んでくださるようだよ。むしろ毎月会いに行くのが大事らしい」
彼女は複雑そうな顔でうなずいた。
「神様が守ってくだされば、雪彦の運気も開けるのかねえ……」
きくえはぽつりとつぶやく。
そろそろ彼女疲れが見えてきたため、雪彦たちは祠の場所だけ聞いて帰ることにする。
その場所はここから特急で二時間以上かかるところにあった。




