見えない赤(2)
教室に入るやいなや、小泉は北見の席まで一直線に進んで彼に話しかける。
「おい北見、昨日の続きを聞かせろよ」
「な、何だよ急に」
突然の出来事に北見は目を白黒させた。
「ほら、見えない赤がどうってやつだよ」
小泉はじれったそうにせっつくが、彼はそっぽを向いてしまう。
「ふん、昨日さんざん馬鹿にしたくせに。知らないよ」
「何だとこいつ!」
いきなり彼の胸ぐらをつかんで無理やり立たせたため、見ていた女子たちが悲鳴をあげる。
「おい、小泉。止めろ」
俊はあわてて止めに入るが、小泉はなかなか手を離そうとしない。
「いいから話せよ!」
「し、知らないよ」
北見は苦しそうに表情をゆがめながらも突っぱねる。
「この野郎っ」
いきり立った小泉の後頭部を俊が叩く。
「いい加減にしろよ、小泉」
「……ちっ」
彼は俊まで敵に回すつもりはなかったらしく、しぶしぶ北見を解放した。
そこへ担任教師が入ってきて問いを発する。
「何だ、何の騒ぎだ?」
「何でもありませーん」
小泉が反射的に大きな声で返事をしたが、異を唱えるクラスメートは現れなかった。
さわらぬ神に祟りなしということだろう。
担任はそれ以上追求せず、本日がはじまる。
休み時間、小泉は何人かに理由を聞かれたが、彼は答えなかった。
正確に言うと不特定多数に話すような心理状態ではなかったのである。
級友たちは怪訝そうではあったものの、踏み込んではこなかった。
そこまでおせっかいな人間はいなかったし、彼と親しい者は大平俊くらいである。
その俊も何か知らないか二、三人に尋ねられたが知らぬ存ぜぬで通した。
昼休み、食事をすませたあとで小泉は手洗いに行くのを、俊は見送る。
彼らはよく一緒にいるが、いつも一緒というわけではないのだ。
しかし、十分経っても友達は戻ってこず、彼は不審に思って立ち上がる。
いったいどこで道草を食べているのかと思っていると、トイレの先の階段のところで人だかりができていた。
(まさかな)
急速に胸騒ぎがした俊は足を速めて人だかりに溶け込み、近くの男子生徒に話しかける。
「何かあったの?」
「男子が階段から落ちて、救急車で運ばれたらしいよ」
振り向きながら教えてくれた男子生徒は俊の名札を見てあっと声を出す。
「お前、二年三組なの? 運ばれた男子も二年三組みたいなんだよ。たしかいずみって名前だっけ?」
嫌な予感が的中してしまった俊は、頭が真っ白になる。
「もしかして小泉?」
「おーっそいつだ」
名前を言い当てたところですこしもうれしくはない。
「救急車っていつ? 大丈夫なのか?」
両肩をつかんで尋ねると男子は困惑しながら答える。
「し、知らないよ! そこまでは」
本当に知らないようだったため、俊は手を離して乱暴にしたことを詫びた。
「待っていれば先生たちから情報が入るんじゃない?」
彼らのことを見ていた女子生徒のひとりが指摘する。
「あ、そうだな。ありがとう」
言われて初めて気づいた俊は、ようやくすこし冷静になった。
「友達が救急車で運ばれたんだから、仕方ないわよ」
擁護してくれた女子生徒に頭を下げ、彼は自分の教室に戻る。
そしてまっすぐ北見の席に行く。
書店のブックカバーがかかった本を読んでいた彼は、俊に気づいて視線を向けてきたが、その表情の怖さにぎょっとする。
「な、何だよ」
「見えない赤を見たやつが助かる方法は?」
単刀直入に切り出した俊に対して、北見は不審そうに顔をくもらせた。
「お前も小泉も何で急に知りたがるんだよ? 昨日はあれだけ馬鹿にしていたくせに」
「小泉が見たんだ」
「えっ……?」
俊の言葉に彼はきょんとする。
理解が追い付いていないようだ。
「小泉がお前の言う赤を見たんだよ。俺には見えない赤をな」
「えっ……ええええっ」
北見は絶叫し、彼は慌てて目の前の同級生の口を押える。
何事かと見ている者はいるが、近づく者はいない。
俊は声を低めて言う。
「助かる方法は?」
彼の剣呑なまなざしに北見はおびえながら答える。
「し、知らない。本当だよ」
「何だと?」
俊は怒りを込めてにらみつけるたものの、眼前の少年は必死に首を横に振るばかりだった。
「もしかしてあれで話は全部なのか?」
今度は縦にこくこくと振られる。
嘘はついていないと判断した俊は、舌打ちをして手を離す。
まるでタイミングを見計らっていたかのように、担任が入ってくる。
「お前らいるか?」
けわしい顔をした男性教師は十人ほどいる生徒たちに言う。
「小泉が階段から転落して大けがをして、さっき病院に運ばれたところだ」
ざわめきと女子生徒の悲鳴が同時に発生する。
「幸い、命に別状はないそうだが、しばらく入院する必要があるらしい」
淡々とした説明の中にも心配そうな感情が込められていた。
「駅近くの総合病院だから、お前ら一度くらいは見舞いに行ってやれ。いまいない連中にも伝えておいてくれ。帰りのホームルームでも話すけどな」
言うだけ言うと担任は教室から出ていく。
「小泉くん、入院したの?」
「命には別状ないって……」
「さっきまで元気そうだったのに」
たちまち喧騒が大きくなる。
ちらちら俊を見る者もいたが、彼は気づかないふりを決め込む。
小泉が入院したという情報はあっという間にクラス内で広がる。
「そう言えば小泉と北見、何かもめていなかったか?」
そのようなことを言い出した者がいれば、
「まさか北見君、小泉君を……?」
と勘繰る者まで現れた。
これに腰を抜かしたのは北見である。
彼にしてみれば身に覚えのない言いがかりもはなはだしい。
「いや、小泉がけがした時、北見は俺と教室にいたよ。だから関係ないさ」
疑惑を大きな声できっぱり否定したのは俊である。
小泉と最も仲のよい彼が発言したことにより、教室内での北見に対する疑惑は払しょくされた。
そのせいか、放課後教室を出たところで北見が俊に話しかけてくる。
「大平くん、さっきはありがとう」
「うん? 何だっけ?」
心当たりがないと言わんばかりの反応を示した彼に、北見はちょっとうれしそうに言う。
「僕が小泉くんをけがさせたりしたはずがないって言ってくれたこと。大平くんが言ったから、みんなすぐに信じてくれたよ」
「ああ。あれか。だってお前、何も悪いことしてないじゃないか」
彼は当然のことだと思うのだが、北見の考えは違っていた。
「小泉くんに見えない赤について聞かれた時、知らないって答えたから嫌われたかと思っていたんだ」
「あれはあいつもと言うか、俺たちが悪かったからな。さんざん馬鹿にされたんじゃ根に持つのは当然だろう」
物分かりのいい彼に対して、北見はさらに好感を抱いたらしい。
「じつは何とかできる人がいるかもしれないって言うと、いまの君は信じてくれそうだね」
うれしそうに言い出し、俊を舌打ちさせる。
「何だ、やっぱり何か知っていたのかよ。……俺たちが悪いのか」
話したところで信じてもらえない、また馬鹿にされるかもしれない警戒させてしまったのは、彼らが原因だ。
大いに反省する必要があるだろう。
「それで何とかできそうな人っていうのは?」
「この町には千ヶ峰堂っていう、不思議な現象を専門に扱っているお店があるらしいんだよ」
もったいぶりながら言った北見だったが、俊は顔をしかめる。
「何だかうさんくさそうだな。詐欺師のたぐいだったりしないのか?」
「ところが千ヶ峰堂はおじいさんが店主の、けっこう長いこと営業しているお店らしいよ。僕が聞いた親戚のおばさんも、あそこは本物だと太鼓判を押していた」
「ふーん……?」
北見の言葉を聞いて彼は悩む。
長い間同じ場所で店を開き続けているというのであれば、問題を解決するだけの能力を持っている可能性は高そうだ。
「ダメで元々ってつもりで一回相談してみるか」
彼が言うと北見は「そうこなくっちゃ」と笑う。
「店の場所は知っているのか?」
「うん、ここからは歩いてでも行けるよ」
即答されて俊は、同級生は最初から行くつもりだったのではないかと感じた。




