周囲には聞こえない騒音(後編)
内浦ことみは中堅クラスの企業に務め、田舎の親から離れてひとり暮らしをしている。
職場は電車で片道一時間以上かかる距離にあるが、待遇には不満がほとんどない。
現在住んでいるマンションは女性でも安心して暮らせるようにセキュリティがしっかりしている分、家賃は高いが会社が七割も負担してくれるのだから。
要望はあるものの、比較的恵まれている立場なのだと思えば、口は自然と閉じてしまう。
そのような彼女の目下の最大の悩みは、ここ二か月ほど夜中に騒音が聞こえてくることだ。
うるさくて寝ていても起きてしまうし、そもそも眠れないほどの音が響く日もある。
「セキュリティはしっかりしていますが、防音性はそこまでじゃないので……」
だから最初のうちは両隣、あるいは上か下か、いずれにせよ近くの住人が原因だと考えて、管理会社に何とかしてほしいと要望を送ったのだ。
他にも困っている人はいるだろうし、すぐに解決に乗り出してくれると。
ところが、管理会社からの回答は意外なものだった。
「お問い合わせいただいた事実は確認できませんでした」
という愛想のかけらもない通達がポストに投函されていたのである。
ことみは内心不満だったものの、管理会社が調査に動いた結果住人が止めてくれたのであれば、我慢しようと思った。
別に近隣の人との間に波風を立てたいわけではない。
彼女の楽観的な考えはすぐに打ち砕かれることになる
その晩もまた音が聞こえてきたのだ。
しかもこれまでよりも大きい、音響機器のボリュームを最大にした音を間近で聞かされているようなひどさだった。
彼女はたまらず飛び起きたが、一向に鳴りやむ様子がない。
着替えて部屋の外に出てみた時、奇妙なことに気づく。
部屋の外だと音が全く聞こえていないのだ。
(あれだけすごい音だったら、部屋の外にもお隣にも聞こえていないはずがないのに……?)
そっとマンションのドアを開けて中をうかがうと、やはりすごい音が鳴り響いている。
これが気のせいではありえない。
しかし、誰かに説明したところで信じてもらえるだろうかと疑問を抱く。
現に管理会社からは問題はないとしか言われていないではないか。
ことみはもう一度相談しても奇異な目で見られて終わりかもしれない、と不安を持ち黙っていることにする。
それでも日々の騒音に耐えかねて、ある時ぽろりと酒の席で言ってしまう。
ほとんどの人は酒の場の冗談だと判断したのか、適当な反応をして終わりだった。
その中で唯一、庶務のさえない中年男性が「千ヶ峰堂という店に相談してみるといい」と教えてくれたのである。
他に頼るつてなど何もなかった彼女は、わらにもすがる思いで千ヶ峰堂という店について調べてみた。
「そういうわけで、ここまで来たのです」
憂鬱な顔をして口を閉ざしたことみの前に、雪彦がそっと湯呑みを置く。
礼を言ってからひと口つけて、心配そうな顔で羽束をうかがう。
「いかがでしょうか? これまでのお話で何か分かりましたか?」
「ええ。できるだけ早く、可能であれば今すぐにでも内浦さんのお部屋にお邪魔したいと思います」
羽束は抜き放たれた名刀のような顔つきで言い放つ。
ことみはと言うと、自分の話を信じてもらえた喜びよりも、「少しでも早く」と言われたことにとまどいを覚えたらしく、怪訝そうに聞き返す。
「すばやく行動してもらえるのはうれしいのですけど……」
それほどまでに事態は深刻なのかと不安そうに尋ねる。
「お話しをうかがったかぎりですと、内浦さんがお部屋に入らなければ致命的なことは避けられると思いますが、楽観しない方がいいでしょうね」
羽束は立ち上がり、彼女が住むマンションの住所を聞く。
「えっと、バスで十五分くらいの距離ですね」
案外近場だなと雪彦は感じた。
だからこそ千ヶ峰堂のことを知っている人がいるのかもしれないが。
「内浦さんも解決は早い方が望ましいと存じますが」
羽束にそう言われたことみもうなずいて立ち上がる。
「あ、はい。そうですね。正直、いっぱいいっぱいなので……」
言葉を区切ったあと、彼女は羽束に肝心な話をした。
「報酬についてのご相談なのですが」
羽束は雪彦や安藤にしたことと同じ説明をし、ことみの目を丸くさせる。
「失礼ですが、ずいぶんとお安いのですね」
霊能関係は相場があやふやなのをいいことに、高額報酬を吹っかける業者もいるのだろうかと雪彦は思う。
少なくともそういうイメージを抱いている人がいるのは否定できない。
彼女の発言に対して羽束は特に何か言うわけでもなく、ただ微笑んだだけだった。
むろん雪彦も二人に同行するが、今回は依頼人がすぐそばにいるため、羽束にあれこれ質問をするのがためらわれて、何も聞かずにいる。
ことみのマンションはなかなかオシャレな外観で、女性が好みそうだなと雪彦でも思った。
「素敵なところですね」
羽束が言うと彼女は、はにかみ笑いで応じる。
彼女が住んでいるのは六階の二号室だという。
きれいなエレベーターであがり、部屋前まで行くと雪彦の全身に悪寒が走った。
ちらりと羽束の方を見ると、彼女もまた彼の方を向く。
「お気づきですよね」
「これ、かなりやばいのでは……」
彼女の確認に彼が思わず言えば、彼女はこくりとうなずいた。
「あと数日もすれば、手遅れになっていたかもしれません」
「え、え? えっ?」
当事者である内浦ことみはただひとり事態を把握できず、目を白黒させている。
霊感のない人間にしてみれば何のことやらさっぱり分からなくとも無理はない。
「いますぐに対処しますね」
「あ、はい」
羽束が放つ剣呑な気配に気おされたかのように、ことみは生唾を飲み込みながら返事をしてカギを開ける。
雪彦はついてくるなと言われなかったため、足を踏み入れる羽束のあとに続く。
異変はすぐに起こった。
無数の太鼓と銅鑼を叩いているような音がふたりの鼓膜を強襲する。
雪彦は反射的に両耳を塞いだが、羽束は平然として進んでいく。
1Kの部屋は整然としていて、室内のカラーは赤を主体とした女性らしいものだった。
羽束が立ち止まったのは大きな鏡台の前で、目を閉じて右手をかざす。
すると音が鳴りやんで、鏡から黒い靄が吹き出しておぞましい悲鳴をあげ、霧散してしまう。
「憑いていた悪霊は祓いました。もう大丈夫でしょう」
羽束が満足そうに笑いながら告げる中、初めて祓いを目撃した雪彦は呆然としていた。
彼がイメージしていたお祓いとは違い、あまりにも呆気なさすぎる。
玄関のところでおそるおそる見守っていたことみも同感だったらしく、羽束に尋ねた。
「え、もう終わったのですか? 安心して暮らせますか?」
「ええ、大丈夫です。ところでこの鏡台はいつ購入されたのですか?」
羽束は笑みを消してことみに問いかける。
聞かれた彼女はハッと息をのむ。
「そう言えば三か月くらい前……騒音に悩まされるようになる、少し前です」
「念のため、これを引き取ってもかまわないでしょうか? あと、どこのお店でお買いになったのか、教えていただけますか?」
羽束に言われた彼女は、しどろもどろになりながら店の名前を告げて、引き取られる旨を承諾する。
店の名前と住所をメモした雪彦が羽束に聞く。
「これ、いますぐ持って帰るのですか?」
「いえ、運送業者に頼んで大丈夫ですよ。よく頼んでいるところにお願いしましょう」
彼女はそう答えてことみに向きなおる。
「申し訳ありませんが、新しいものをご購入いただけますか?」
「えっはい。あの、いくらで鏡を引き取っていただけるのですか?」
ことみの気弱な問いかけに彼女はにこりと笑う。
「無料ですよ。着手金と交通費の他にも成功報酬を頂きますから。サービスの一環とお考えください」
「あ、ありがとうございます」
彼女の回答にことみは明らかに安堵する。
彼女は携帯電話を取り出して業者に連絡をとった。
携帯をしまうと依頼人に告げる。
「今日これから取りに来てくださるそうです」
「あ、はい、ありがとうございます」
ことみは手際のよさに唖然としているが、雪彦も同じような気分だ。
「あ、いまお茶をお出ししますね」
彼女はふたりにまだお茶も出していないことを思い出し、業者が来るまではと準備をはじめる。
その隙をついて雪彦は羽束に小声で尋ねた。
「鏡台を売った店に何かあるのですか?」
でなければわざわざ聞いたりしないだろうと彼は思ったのである。
羽束は小声でささやき返す。
「わたしの思い過ごしであればいいのですけど。物品にあやかしが憑きやすい場所になってしまっている可能性は、考慮しておいた方がいいと思うので」
「なるほど」
運送業者が来ればことみと別れて、販売店に行くのだ。
──結局、販売店に異常は見当たらず、ひとまずの終局を迎える。




