Chapter 5:佐加本の恋愛。
塚地と会わなくなってから三ヶ月が過ぎた。
わたしは相変わらず、失恋したという気分になれないまま、気楽な学生生活を送っている。
映画もひとりで観に行く。
週末もひとりで過ごす。
たまには飲みにも行くけど、それはひとりでは出掛けない。何故なら帰りが面倒だから。
特定の男性と一緒にいるというのは、面倒なことだけではなく、面倒を回避できるメリットもあったようだ、と思い返す。
ふらりと飲みに出たい気持ちはある。
だけど、その場で楽しく話をしても、最後は「次はどうする?」という目配せが交わされるのを、感じないわけにはいかなかった。
お誘いが皆無なら気にしなくていいのだけど、誰かしら気を遣って――あるいは下心を持って――次の店へと誘うのだ。
わたしは楽しく飲みたいだけで、気が済んだらいい気分のままさっさと帰宅し、自分のベッドで休みたい。
なのに彼女たちは自分がより魅力的に見えるように、引き立て役を従えたがる。そして男たちはガードの緩んでいるであろう女を常に探し、誘いたがっているのだ。
彼氏がいた時でさえ、「たまには違う男の腕に抱かれたくならない?」などと大胆にも誘って来る人もいたのだ。今では更に遠慮なく、更に下世話な言葉さえ口にして誘う人が増えた。
わたしなんか誘ったところでなんの得があるというのか。
恋人に振られた女性は全員が全員、人肌が恋しくなっていなければならないという法律でもあるのだろうか。
どうせそんな下心で誘われても、『口説き落とした女』というカウンターの数字ひとつにしか値しないのだ。うかうかとついて行く莫迦もあるまい。
* * *
さて、わたしが普段つるんでいる女友だちはどうしているかというと、妙なことが起きていた。
きっかけは他人のものならなんでも欲しがるカナコだ。
見た目は華奢で可愛いから、きっと塚地もホイホイ釣られた口なのだろう。
それで多分普通なら、わたしが失恋ということになるのだろうけど、肝心の塚地からは別れるともなんとも言われていない。自然消滅ということなのだろうか。
しかしわたしは彼の性格をよく知っている――つまり、強過ぎるこだわりとマイルールを持つ、わがままな男だということを。
普段は男たちからちやほやされることが多いであろうカナコが、塚地のマイルールに耐えられるはずがない、と踏んでいた。
果たして、『カナコたちが付き合っているらしい』という噂を聞いてからたったの二週間足らずで、彼女はまた女友だちの中に戻って来た。
彼女は彼女で非常にわかりやすい性格をしている。男に夢中になっている時は本来、それこそ月単位でわたしたちのグループを留守にするのだ。
「やっぱりね」とカナコについて再度見解を述べると、ホナミはまた不思議そうな顔をした。
ホナミは普段カナコをライバル視しているけど、その反面カナコに落とせない男はいないと思っているのだろう。だからあっという間に戻って来たカナコと、それを予想していたわたしが不思議だったのだと思う。
* * *
そのホナミだが。彼女は彼女で、ある日わたしを大いに驚かせた。
ホナミはカナコとはまったく違うタイプの魅力を持っている。
いわゆる肉食系女子だ。
そして「セックスはスポーツなのよ」と普段から公言している。二人の間に『恋』がなくても『欲しい』と思ったら、素直に行動するというのだ。
「ごめん佐加本! あんたの彼氏を借りちゃった。事後報告でほんとにごめん!」
そんなホナミのことだから、カナコの一件で塚地に興味を持って我慢ならなくなったのかと考えたが、突然呼び出されたわたしが驚いたのはそんなことではなかった。
「実はあたしたち、昔付き合ってたんだよね……」
つまり、塚地の最初の彼女がホナミだったというのだ。
勉強で繋がっていた恋人とはお互い勉強が好きだったのではなく、勉強を教えたのが付き合うきっかけだったということらしい。
なるほど。確かにホナミは勉強が好きな方ではない。そして塚地が目指しているのは教師の道だ。
勉強嫌いで成績のよくない彼女を教えることは、塚地には『いい関係』だと思えたのだろう。それは想像に難くない。
円満に別れた彼らが再会したのは、わたしと塚地が付き合い始めてかららしい。
その時は――というか、その時からつい最近までは、あくまでもわたしを主とした繋がりを持つ知人という関係が暗黙の了解だったらしい。
そのバランスを崩したのはやはりカナコの一件だった。
塚地がわたしとカナコの件に悩み、ホナミが相談を受けた流れで、なんとなく旧交を懐かしむように身体を重ねたのだという。
なんとなく、という感覚はわたしにはわからないが、セックスもスポーツのひとつに喩えるような性格の彼女は、そういうこともあるのだろう。
カナコの態度に腹を立てておきながら同じことをした自分を、嫌うなら嫌ってくれ、とホナミは言った。
自分がしたことを後悔するつもりはないが、せめて先に言うべきだった、と。
それもまたわたしにはない理屈で、面白くさえ感じた。どうやらわたしは、彼女たちを嫌うことができなかったようだ。
カナコに対しては確かに不快に思うことがたびたびあったが、それは彼女が自分と周囲を欺いていたからだ。
その結果、彼女はそんな自分に敗北した。わたしはそう考えていた。
対してホナミはいつでも自分に正直過ぎるのだ。
喜怒哀楽もはっきりしているし、きつい発言もたびたびあるので、敵味方がきっぱり分かれている。
好き嫌いを曖昧にして八方美人を演じるカナコと、自己主張のはっきりしたホナミ。男たちが彼女のどちらにも魅力を感じるのは矛盾しているようだが、でも理解もできる。
ホナミは普段あけすけに下ネタを繰り出したりするが、そういえば男との秘め事を洩らすことはないのだな、と気付いた。
塚地の件にしてもそうだった。彼とどうしたのかなどと思わせ振りなことは何も言わない。
カナコの場合はどうやら、別れた相手に対しては批判的な発言が多いように思う。
わたしたちのグループに戻って来てからというもの、何かにつけて、塚地がわたしに対して不誠実だとか、家事の分担は平等であるべきとか、当て付けのような発言を繰り返していた。
その手のひら返しを見ているのは滑稽だった。でも同時に哀れにも思えた。
彼女は今までもこうして、自分のプライドを守って来たのだろう。
そしてやっぱり、カナコと塚地はどこか似ているのだと思う。
* * *
あれ以来、カナコは積極的に絡んで来なくなった。
ホナミは相変わらずだが、元々取っている講義が違うことが多いので、あらかじめ待ち合わせないとなかなか会えない。
定例のヴュッフェ巡りやコンパの誘い以外でわたしたちが四人揃うことは、以前より少なくなっていた。
塚地はといえば、未だに何か思うところがあるのか姿さえ見掛けない。
わたしのスケジュールや行動パターンをよく知っているあいつのことだから、会おうと思えば会いに来るし、逆に避けようと思えばずっと避け続けることだって可能なのだ。
東エリアの食堂でひとりで昼食を摂っていると、隣に人の気配がした。
ふと顔を上げるとヨシエが佇んでいる。
「ホナミと一緒じゃないんだ?」
わたしは笑顔を向けながら、彼女のために少しスペースを空けた。
「私たち結構、単独行動が多いのよ」とヨシエが笑みを返す。
ヨシエはホナミといつもセットでいる印象がわたしにはあったので、少し意外に思った。
でもそう言われてみれば、ヨシエはホナミとは正反対のタイプだ。いわゆる『普通』で『地味』な方の女子大生……その条件で想像すると、多分ヨシエのような子を思い浮かべる人が多い気がする。
髪色は多少明るくしているが、薄化粧でシンプルな服装を好む。
同じシンプルでもわたしは中性的から少し男性的な服装を好んだが、ヨシエは女性物オンリーで、いつもさり気なく趣味のいいものを身に着けている。
背が高くショートカットで、時には男性と間違われることもあるわたしなどと違い、どこから見ても『女の子』であるヨシエは、ひょっとしたらわたしの理想なのかも知れない。
「……どうしたの? え? 何かついてる?」
わたしがあまり見つめ過ぎたからか、ヨシエは慌ててミラーを取り出した。
ミラーを開く瞬間、雲間から射した陽光を反射してわたしの視界に光の矢が飛ぶ。
「いや……ごめん。ヨシエが可愛いなぁって思って、つい見とれてた」
謝りながら、今の台詞は少しおかしかったように思い、慌てて付け足した。
「あの、変な意味じゃなくてね?」
「変な意味って、どんな意味?」
くすくすと彼女は笑い、ミラーを仕舞った。
「何か話があったんじゃないの?」
食堂の、焦げ臭く酸味が強いばかりのコーヒーを口に含みながら、彼女に問う。
ヨシエはどちらかというと消極的な性格らしく、グループ内とはいえ、今まで単独でわたしに会いに来るようなことはなかったのだ。
決して無口ではないが、人一倍お喋りなカナコや自己主張の強いホナミが一緒にいるため、自然と控え目になるのだろうけど。
彼女が気にしていることはなんとなく予想がついた。
「話っていうか……塚地くんと仲直りできたかなぁ、って。ホナミには訊くわけにはいかないし」
「気にしてくれてたんだ」と、わたしは儀礼的に感謝の意を表した。
気にならないわけがない。
「気にするっていうよりも、勝手な意見だけどね。佐加本さんと塚地くんって、お似合いだなってずっと思ってたから」
「雰囲気が似てるらしいね?」
『似た者同士』というのは、わたしたちカップルを褒める時、お約束のように言われる言葉だった。
「そういうのもあるのかも知れないけど……話を聞いてるとね、趣味や価値観が合う人って、実際はなかなかいないじゃない? そういう人と付き合えるのは、貴重な時間だと思うのよ――あ、ごめん。佐加本さんの気持ちもよくわからないのに、こんな……でも私はそう思ってるのよ」
確かにわたしは今まで、恋人としても友人としても、塚地のことを貴重な存在に感じていた。
「うーん……実はわたしにもよくわからないんだよね」と正直な気持ちを伝える。
実際、どうしたらいいのかわからないのだ。
何しろ塚地は初めての恋人で、彼以前に他の誰かに『恋』というものをしたのかどうか覚えがなかったのだから。
「それは、別れるかもってこと?」
ヨシエの表情が曇る。彼女はわたしの認識よりも随分、わたしたちのことを考えて悩んでいたらしかった。
「そういうのとも違って――というかまず、喧嘩をしてるわけじゃなくて、塚地が勝手にわたしを避けてるだけだからね」
「え、そうだったの?」と驚きつつも、ヨシエの瞳の中には安堵の色が浮かぶ。
「うん、まぁその原因は……ね、あれなんで、そこは置いとくとしても。でもわたしがどうこうってのは特にないのよ、ほんとに。だからわたしも、積極的に連絡を取る気にはなれないんだけど」
「そうだったんだ」
噛みしめるように、ヨシエは相槌を打った。
わたしは話題を変えることにした。
「そんなことより、ヨシエも彼氏作ったら?」と、軽い口調でヨシエに振る。
「私、好きな人いるよ」
ふわりと笑顔で即答したヨシエに、今度はわたしが驚いた。今まで彼女の浮いた話など聞いたことがなかったからだ。
「え、そうだったんだ? 誰? この大学の人?」
まさか、ヨシエまで塚地のことが好きとは言わないだろうが……
「ううん……ずっと遠くにいるんだけど。私の中学の時の担任の先生でね――」
柔らかい表情のまま、ヨシエはぽつりぽつりと語ってくれた。
* * *
ヨシエは自分の『顔』を嫌っていたらしいが、その理由もトラウマを克服した経緯も初めて聞いた。
更に、既に別れて物理的にも離れた相手に向けて「今でも好きだ」と言い切り、未練ではなくただ相手の幸せを想い続ける。
彼女は芯の強い女性なのだと思う。
そんなことわたしには、とてもできそうにない。
そこまで想えるような相手も――塚地に対してでさえ、今までそんな強い想いは抱いたことがないのだ。
「先生のこと、追い掛けようと思ったことはないの?」
思わず問うが、彼女のこたえははっきりしていた。
「お互いに夢があるからね。仕事の夢と恋愛の夢、どちらを優先するのかは自分たちで決めることでしょ? 先生が私とどうしても結婚したければ、紙切れ一枚でそれは叶うし、私が仕事よりも彼との生活を強く望んでたら、大学進学を諦めるなり時期をずらすなりできたのよ」
「じゃあ、二人ともそれをしなかったってこと?」
「そうね。もっとも、彼の方はどうなのか、本当のところはわからない。夏期休暇の時期に会おうと思えば可能だったでしょうけど、もう一年くらい連絡がないのよ。それに対して、私も彼の今の人生を邪魔したくないと思ってるの」
「……強いね」
知らず、ため息が出た。
「強くなんかないわよ」とヨシエは笑う。
「私はただ先生のことが好きで好きで、でも同じくらい自分の人生も好きなの。だからいつか――その確率はすごく低いと思うけど、また彼と私の人生が交わることがあれば、再会できると思うの」
「わたしはどうなんだろう……」
つい自分と較べて考えてしまう。すると彼女は慌てたように言い添えた。
「ごめん、あの、これは私の話ってだけで、別に佐加本さんにもそうしろっていうことじゃ――」
「あぁ、うん。大丈夫。でもわたしはそんな風に思える人に会ったことがないなぁ、って」
苦笑が洩れる。
浮気されても嫉妬心すら湧かない相手を恋人と呼べるのかどうか、最早わたしにはわからなかったのだ。
「あの、却って悩ませたのならごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「ううん、わたしも考えることを避けてたのかも知れない。ヨシエの話を聞けてよかったよ、ほんとに――午後はどこ?」
「私、東のレンガ棟なのよね。佐加本さんは?」
「第三研究棟だから、途中までは一緒に行けるね。そろそろ行こうか」
ガタガタと椅子を動かす音が、食堂内のあちらこちらで聞こえている。
わたしたちも――静かに動かそうという努力はするのだけど――椅子の音を立てて立ち上がる。
わたしは、一度初心に立ち返って、自分の心を覗いてみようと考え始めていた。
『塚地が何も言って来ないから』
これは消極的に受け身でいようと考えていた、わたしの弱い部分かも知れない。
塚地が、ではなくわたしがどうしたいのか。わからないのではなく、考えることを避けているだけなのかも知れない。
わたしはヨシエのように、ずっと誰かを想い続ける強さを持ち合わせていない。
ホナミのように、自分の感情に対して正直でいる自信があるとも言えなかった。
そして、カナコのように強引にアタックするような勇気もなかった。
塚地自身、そして彼や自分のルールについても同様だ。
今まで二人の間で、忌憚のない意見や本心をぶつけることができていたか。わたしは本当の自分の姿を、彼に見せていたのか――振り返らなければいけないことはたくさんあった。
ひとりでいる時間がいつまで続くかはわからないが、その分考える時間はたっぷりあるのだ。
* * *
建物を出たところで、ヨシエが「あ……」と小さく呟いた。
彼女の視線を辿ると、食堂のすぐ隣の、第一棟の壁に寄り掛かるように塚地が佇んでいる。
わたしは声をあげられずに、小さく息を飲んだ。
彼はわたしと眼が合うと、一拍置いてから歩み寄って来た。
「佐加本、話があるんだけど、これから――」
「これからは無理かな。午後のゼミは発表があるの」と、早口で彼の言葉を遮る。
我ながら素気なさ過ぎると思った。だが発表の前というだけでもナーバスになっているのに、更に余計なことで気分を左右されたくなかった。
塚地の姿を見ただけで、彼に話し掛けられただけで、少なからず動揺していることを自覚してしまったのだ。
「あ、あぁ、そうなんだ……じゃあ頑張って。夕方連絡するよ」
塚地は面喰った様子だったが、そう言ってわたしたちに手を振った。
離れてから少しだけ振り返ると、彼は同じ場所に佇んだまま見送っている。
まだ時間はあったのだから、少しは話をするべきだったろうか。
でもよくない内容の話だったら?
その可能性がないわけではないし、確実にこの後影響が出るだろう。
「よかったの?」
ヨシエがおずおずと問う。
「わかんないけど……連絡するってことは、何か話したいことがあるんじゃないのかな」
わたしはヨシエに笑顔を向ける。自分のことではないのに、彼女の表情は曇っていた。
塚地が譲歩するのは珍しいが、さすがにゼミの発表よりも俺の話を聞けとは言えなかったのだろう。
さて、なんの話なのやら……聞かなければ聞かないで、気になるのが困りものだ。
しかし彼は万が一自分が悪くても決して謝らない性格だ。また、彼独自の理屈とよくわからない言い訳を聞かされることになるのだろう。
さもなければ、今度こそ別れ話が出るかも知れないのだ。
結局ナーバスに拍車が掛かっただけという気がしてならない。わたしはそっとため息をついた。
その時、スマートフォンが静かに振動した。
メールだ……と思うと同時に、反射的に操作していた。
塚地からだ。
指が触れた。
画面が開く。
ひと言、『ごめんなさい。』と表示されていた。




