2.道の駅いながわ(兵庫県川辺郡猪名川町)- 老女とデート
国道176号線はおおむね阪急宝塚線に沿って延びている。大阪市内から淀川の長い鉄橋を渡り、神崎川を過ぎると、豊中市に入る。周囲に高層ビルは少ないが、店舗やオフィスビルが密集し、ごみごみした都会という感じのところだ。
さらに進むと、前方上を空港行きのモノレールが通過していった。この先は池田市になる。阪急池田駅を過ぎてやや右にカーブし、国道173号線に入って少し行くと、左上にハープのような形をした巨大な橋が見えてきた。これは新猪名川大橋で、ビッグハープと呼ばれているらしい。
ビッグハープの下を猪名川が流れ、右手には五月山が迫っている。このあたりになると緑も多くなってくる。
猪名川沿いに国道173号線を進むと、田んぼや畑も見えてきて、いつの間にか兵庫県川西市に入った。そこからさらにしばらく行ったところが日生中央で、いかにも山を切り開いて造成したという新興住宅地だ。
日生中央駅の前には広場とショッピングモールがある。その中の二時間まで無料という駐車場に入り、管理人のばあさんの妹に電話をした。すぐ近くのマンションで一人暮らしをしているということで、五分ほどで現れた。わりと上品な感じのおばあさんだった。名前はミツコさんという。
「まあ、どうもわざわざありがとうございます。お礼に昼食でもごちそうしたいんですけど、道の駅へ行かはるんでしたら、一緒にどうですか? 私も野菜とか買って帰りたいし」
なんだかタクシー代わりに使われてるような気もしたが、一緒に乗せていくことにした。
猪名川の道の駅は日生中央からさらに山間部に入ったところにあり、車かバスで行くしかない。その途中にはまさに日本の田舎の田園風景が広がっている。やがて右の川に屏風岩という岸壁がそそり立っているのが見えた。そこを過ぎて少し行くと、道の駅に到着した。
道の駅いながわは周囲を山に囲まれているが、比較的低い山なので、わりと開放感がある。裏手には小川が流れ、ちょっとした公園のようになっている。佐保姫公園というらしい。佐保姫というのは明智光秀の娘で、近くの淵に身を投げたという悲恋の伝説があるそうだ。
施設の正面には「いなぼう」という猪のゆるキャラの像が建っている。そのすぐ近くに「そばの館」というレストランがあった。このあたりは寒暖差が激しいのか、蕎麦が栽培されているらしく、地元産の蕎麦粉を使った手打ちの十割そばが人気だと雑誌にも書かれている。
平日で一時過ぎだったにもかかわらず、満席のため十分ほど待たされた。ようやくテーブル席に案内され、メニューを見ていると、ミツコさんが言った。
「ここは冷たい蕎麦の方がおすすめなんよ。ごちそうするから何でもお好きなものを注文なさい」
おれは少し遠慮して、ざるそばの大盛りにした。ミツコさんはおろしそばを注文した。
やがて運ばれてきた蕎麦を一口食べて、驚いた。うまい。実にうまい。これが本当の蕎麦なんだ。おれは感動して声も出なかった。
「もう少しすれば、新そばが出てきて、風味も抜群なんやけどね」
「いえ、この蕎麦でもものすごくうまいです。普段食べているのとは、歯触りも味も風味も、全然違います」
「安い蕎麦は小麦粉が多くて、蕎麦粉は半分も入ってないのよ。蕎麦粉が三割以上入っていれば蕎麦として売れるんやからね。でもここのは国産十割蕎麦やから、それなりにおいしいのは当たり前やわ」
おれは自分が普段食べていた蕎麦が、実は半分以上小麦粉だったと知って、愕然とした。たしかに安い値段で蕎麦を提供するためには、蕎麦粉の割合を減らさざるをえないだろう。しかし、それは本当に蕎麦と言えるだろうか。
おれには自分のこれまでの生き方も、蕎麦粉の割合の少ない安物の蕎麦と同じように思えてきた。妥協して安売りしてきた人生だったんだ。そんな気がした。
ちゃんとした蕎麦屋は蕎麦粉七割とか八割以上の蕎麦を手打ちして出しているのだろう。おれはそんな蕎麦職人のいる蕎麦屋にはほとんど入ったことがなく、立ち食い蕎麦とかチェーン店の安い蕎麦しか食べたことがなかったのだ。そう思うと、自分が恥ずかしくなった。
蕎麦を食べ終わると、おれたちは隣の農産物販売センターに入った。たくさんの野菜や果物が置いてあり、おれはその値段の安さに驚いた。
「これは近隣の農家の人たちが作った農産物を持ってきているのよ。不揃いのものとかもあるけど、新鮮な上に安くておいしいの。生産者の名前も書いてあるから安心でしょ」
近くにあったトマトを手に取ってラベルを見ると、確かに生産者の個人名が印刷されている。スーパーなどで売ってある野菜に比べると見かけは悪いが、新鮮で生き生きとしていて、生命力があるような感じがした。これが本物の野菜なんだ。
ミツコさんは段ボール箱いっぱいの野菜や果物を買った。
「こんなにたくさん買って、どうするんですか」
「近くの白金というところに娘夫婦と孫たちが住んでいるから、あげようと思ってね。そろそろ娘が迎えに来てくれるはずだけど……あら、いましたわ」
駐車場の方を見ると、一台の車の運転席から女の人がこちらに向かって手を振っていた。おれは野菜の入った段ボール箱を車の方へ運んでやった。娘さんは四十代ぐらいで、母親によく似ていた。
ミツコさんは娘さんの車の助手席に乗って、おれに尋ねた。
「今日はこれからどこへ行くの?」
「そうですね、まだわかりません」
すると彼女はおれに一枚のメモを渡してくれた。それにはメールアドレスが書かれていた。
「それじゃあ、体にも気をつけて、がんばってね。ときどきメールをちょうだい。あちこちに知り合いがいるから、紹介したげるわ」
「ありがとうございます。管理人さんにもよろしくお伝えください」
ミツコさんは車の中から手を振りながら、去って行った。
ミツコさんたちを見送ったあと、おれは道の駅名物の蕎麦ソフトを買って裏の佐保姫公園へ行き、ベンチに座って、小川を流れる水を見つめながら考えた。
これまでのおれは偽りの生き方をしていた。本物の蕎麦を作って出す蕎麦職人になるのもいいかもしれない。あるいは新鮮で健康的な良質を野菜を作るのもいいかもしれない。いずれにしても、おれはなにか本物を大事にするような生き方をしたいと思った。