第六話:徹頭徹尾、完全に悪いのは僕だと思う
準備を終えて出てきた僕に、セイルは第一声で言った。
「……随分軽装だね……そんなんで大丈夫なのかい?」
灰色の汚れにくく目立ちにくい外套に黒のシャツ。腰にはいつも通り分解ペンと構築ペン複数と鞭をぶら下げ、いつもの道具袋を邪魔にならない程度に巻きつけている。
靴も『黒鉄の墓標』を探索すると聞いて、事前に誂えた特別製だ。今回の討伐対象であるクリーナーの体表を構成する金属でできている。
勿論、魔力が宿っているわけでもないただの衣類だ。重装備はそもそも扱えないし、魔力の篭っている装備の類は持っているだけで自身の魔力を消費する。
例えば、エティの装備していた『機神』だって、微量ながら魔力を消費していたはずだ。ちょっと鍛えた探求者にならば問題ない量ではあるが、僕にとってはいざという時に命取りになりかねないし、そもそも重装備だと目標にされやすいのだ。
今回は特に僕は戦闘に参加する必要はないので、これで必要十分だと思う。
一方、階段――一個上の階に滞在しているらしい――から降りてきたセイルは全身きっちり決めていた。薄く軽い青銀で作られ、各属性ダメージの軽減効果のある軽鎧に、物理ダメージ軽減の効果がある『堅牢の外衣』を羽織り、その胸には魔力を僅かに高める能力のあるペンダント『緑神の導き』が下がっていた。
C級の探求者であるセイルが大した効果はないとは言え、三つも魔道具を持っているというのは、結構なやり手だという証だ。
「いつもこんな感じだよ……僕は戦えないから」
「ああ……フィルは頭だったんだね?」
仲間ならば敬語はやめよう。歳もあまり変わらないし、ということだったので、敬語はやめた。
僕としても距離感は近い方がやりやすい。
セイルの確信しているかのような声。
アギさんは一般人とか紹介したようだが、やはり分かる人には分かるのだろう。そりゃそうだ。
てか一端の探求者を捕まえて、いくら力がないとはいえ一般人として紹介するとか失礼過ぎる。
「ああ、確かに僕が頭だった。よくわかったね?」
「……態度や動作を見ていれば元探求者だってことなんて簡単に分かる。アギさんは一般人なんて言ってたけどね……」
「いや……元じゃない。今も探求者だよ?」
「ああ……悪かった。そうだな」
まるで失言したかのようにセイルが顔をしかめる。
その程度じゃ僕は何とも思わない。王国でも僕の事を蔑む眼は少なくなかった。全員、僕のスレイブ達が黙らせたが。
セイルの言葉には、そいつら有象無象とは違う感情が篭っていた。
その感情が余りに尊いものに感じ、居た堪れなくなり、フォローした。
「多分、もうすぐに辞める事になると思うけどね……」
L級探求者。
たかが二十二億ポイント、恐らくシィラ抜きでも三年はかかるまい。少なくとも、王国に帰る事ができれば僕は魔物使いとしての全力を出し切れる。
セイルが眉をぴくりと動かした。
「!? あ、ああ……まぁ、探求者だけが人生じゃないからな」
「そうだね。まぁ精々ゆっくりするさ……」
弟子を取るのだ。師匠のように。
犬を飼うのだ。師匠のように。
趣味に没頭するのだ。師匠のように。
階下で待っていると、階段を大きく飛び越えてブリュム、トネールが降りてきた。
二人は僕の格好を見て一瞬だけ冗談だろ? みたいな顔をしたがすぐに、にっこり笑った。
一瞬の表情が脳裏から離れない。
二人は疑問形で言葉を投げかけてきた。
「お兄さん……死ぬつもり?」
「死に場所探してるのー?」
容赦のない言葉だ。
罵声に近いが、邪気がないからたちが悪い。
それは、純粋な質問だった。だから僕も誠意を持って答える。
「僕は昔からこんな格好だよ。まぁ、君たちを信頼してるってことさ。守ってくれるんだろ?」
「…………」
いつの間にか階段の下まで来ていたスイの手元から水流が巻き起こった。
それはまるで水竜のように縦横無尽に宙をかけ、僕を中心にぐるぐると螺旋を描く。
やがて、全身を薄い水の膜のようなものが覆った。口や鼻、眼の部分だけ穴が開いており、身体に触れない程度の位置をまるで薄い服のように覆っている。
『水流操作』
水精霊の種族スキルである、水を操るスキルがただの水を頑強な鎧と化していた。
「……ああ、ありがとう」
「…………」
スイは何も言わずに魔力を放ってくるのみだが、言いたいことはなんとなく理解できた。
でも、まだ宿なんだが……
じっと見つめると、言いたいことをわかってもらえたのか、鎧が解除された。発生した時と同じ容易さで、空気中に掻き消える。
まったく、無駄な魔力をこんな所から使わせて、いざというときに使えなかったらどうするんだ。
異文化交流って難しい……
「さ、準備ができたようだし、行こうか……」
セイルの言葉を皮切りに宿の外にでる。
久しくやっていないパーティ単位の探求だ。柄にもなく僕はちょっとワクワクしていた。
『黒鉄の墓標』
レイブンシティから南東に四百キロ程行った所に位置する迷宮だ。
階層もそれなりにあるが、今回の目的は走破ではないので特に関係はない。
迷宮の中はもちろん、周囲にもモデル・クリーナーの機械種が溢れかえっている地でもある。
ランナーとしてはトップクラスの速さを誇るサファリの健脚でも一時間弱はかかる距離であり、時速百キロだと四時間かかる。
僕は夜目が効かないので夜の探索はできるなら遠慮したい。
まぁ当然迷宮の中は真っ暗なので対策しているが、例え夜目が効いていたとしても夜通しの探索は僕の体力的には厳しい。力や魔力は勿論、スタミナも僕にはあまりないのだから。
キャンプの準備はしてあるのだろうか?
……まぁ、ハーフとは言え、エルフもいる事だし何とでもなるか。
最悪、アリスを呼びだそう。そうしよう。
僕自身の事は僕が一番知っている。今でこそ十全だが、長時間の探索はいつも僕の体力を、魂を、削り取る。
胸に抱いた大きな期待、だが、同時に彼らに対して背信するように僕の臆病な心が僕を及び腰にする。
いや、いつでも大体及び腰なんだけど。
僕には所詮、たった一人で大きなリスクを犯せる程の度胸はないのだ。
「トネール、『船』を」
「はーい!」
トネールが大きく腕を広げ、空を仰ぐ。
唄うように呪文を唱えた。薄水色の髪が魔力で巻き上がり、その声に従い風が巻き起こった。
「ロール・リー・シップス。深き空、天の海駆ける風を我が手に授け給へ。今この地に疾風の線貫きここに至高なる天の船を。『天駆ける飛の船』」
薄水色の術式光が強く発生し、何もなかった空間に形を作っていく。
風の船のスキル。
元素魔法の一種だ。
その魔法は攻撃向けではなく有用な魔法であり、難易度的には中位だが、消費魔力は上位スキルのそれに匹敵する。
さすが、多少子供っぽくてもエレメンタルなだけの事はある。僕は内心頷いて、トネールの評価を僅かに上方修正した。
負担が大きいのだろう、トネールがぜいぜいと息をしながら、得意げにこちらを見上げる。
「どう? 凄いでしょ!」
「ああ、さすがだね。風の船か……一度乗ってみたかったんだ」
手放しで絶賛しつつ、透明に輝くそれに触れる。
風を圧縮して船を生み出すスキルだ。
硬く冷たく、硬質であり、物質ではないとは思えない。
船の広さは五人が乗ってもまだ余裕があるくらいの広さがあった。
まぁ、船と言ってもそれ程複雑なものではなく、上半分が開いた方舟という言い方がしっくりくる。
宙一メートル程度の位置を浮くそれに飛び乗った。
第一の感想は『冷たい』だった。
防御力は無いに等しいが、厚めの生地でできている外套を敷いてもまだひんやりとした温度が伝わってくる。
ああ……もっと暖かい格好してくればよかったな。
だが、さすがエレメンタルとでも言うべきか、スイもセイルも気にした様子はない。
温度の感じ方がヴィータとは根本的に違うのだ。
この感覚を共有できる者はこの場には居なかった。
やばい。何か嫌な予感がする。
「じゃー出発するよ?」
「ああ……頼んだよ」
セイルさんが許可を出した瞬間に、風の船が走りだした。
それはまさに風の速度だった。
街中を音もなく疾走する。景色が目まぐるしく変わる。
トネールが天使の声で歓声を上げる。
「ッ……」
僕は移り変わる風景を呆然と眺めながら、昔一度、竜の背に乗せてもらった時の事を想起していた。
上空数百メートルを縦横無尽に巨大な翼をはためかせ飛ぶ姿はまさに地上の覇者に相応しく、空から見た風景は国一つを展望できるほど美しく、そして乗せてもらっている身からすればたまったものじゃなかった。
降り掛かってくる凄まじい風圧に髪が巻き上がる。帽子をしていたら吹き飛んでいただろう。
腹に、腕に、胸に、空気の塊が押し付けられ凄まじい揺れが視界を揺さぶった。
三半規管が凄まじく揺さぶられる。
極めて冷たい空気がかろうじて出ている手首を無情に切り裂く。
だが、スイもセイルもブリュムも、そして当然トネールも平気な表情で行き先を見ている。
これが……エレメンタル! これが、精霊界の支配種族!
やばい、凄い体験は凄い体験だが……意識が飛ぶ。
全身を冷やされて、頭ががんがんする。
胃の中はスタート五分でもうひっくり返りそうだった。
ブリュムが一言も喋らない僕に気づいて、僕の表情を見て悲鳴を上げた。
「お、お兄さん!? だ、大丈夫? 死相がでてるよ!?」
「あはははは、大丈夫だよ……」
震える舌を何とか動かし、何とか根性で微笑んだ。
立っていられず、ずるずると背を手すりに委ねる。手すりも勿論冷えきっていた。
やべえ、風の船、半端ねえ。
「で……後どれくらいで着くの?」
「ま、まだ出たばっかりだよ、お兄さん!?」
そんなの知ってる。
「ぼ、僕は……どれくらいで、つくかって――」
「二時間くらいだな……フィル、どうしたんだい?」
二時間……その時間はかなり好意的に考えていた僕の予測と比べて絶望的な時間だった。
五分でこれなのに二時間!? ない。絶対に無理だ。吐く。そして着いた頃には僕は迷宮探索どころではない。
い、いや、気絶した所を連れて行ってもらったほうがまだマシか?
どうしたんだい? だって?
僕は自分よりも遥かに頑丈でタフな精神を持っているセイルを見上げた。
「……船……揺れすぎ」
「え!? い、いや、確かに揺れはあるけど……」
「……後、寒い……無理――」
「え? 寒い? ちょ……フィル!?」
風によって全身の体温が奪われる感覚は、まるで命の蝋燭が吹き消されつつあるかのようにすら感じる。
やっぱりだめだな……他人の探求に付いていこうだなんて考えちゃ。今更ながらその事実を実感する。
時間は勿体無いが待つべきだった。アリスが始末を終えるのを。そうでなくとも、僕の貧弱さをもっとよく知っているメンバーに連れて行ってもらうべきだった。
揺れよりもまずは体温の消費がまずい。身体の芯に氷の柱を突っ込まれたかのように、ただただ寒く冷たい。
ガチガチ歯を鳴らし、震える身体を縮めるようにして抱きしめる。まだかろうじて震えるだけの体力はあるが、これすらなくなったら、なんということでしょう、ただ移動するだけで凍死したなどという不名誉極まりない死因を叩き出しそうだ。
がたがた震えながら風精霊、水精霊、水、風の双子精霊を見る。どうして四人も元素精霊種が集まっているのに火精霊がいないんだよ!
エレメンタルは基本的に自分が支配する属性以外の魔法を使えないのだ。
僕は真剣に、安らかに眠っているアリスを召喚するか迷った。いや、実際に召喚しようとした。が、頭の中で必死で呼びかけても返事はない。
かつて僕がアシュリーと結んでいた『魂の契約』とは異なり、憑依の主体はアリス側にあるのでこちらから強制召喚などはできないのだ。
とか何とか言ってるうちに街を出た船は荒野を流れている。
もう手段は選んでいられなかった。
震える指先で道具袋を漁り、シィラと戦うために揃えた一粒云千万マキュリの回復の丸薬を取り出し、震える自分の口に無理やり入れて奥歯で噛み砕いた。
さすが腕がちぎれても生えてくると謳われたSSS級の逸品、飲み込んだ瞬間に胃の奥底からマグマのように湧き出してくる吐き気がスーッと楽になる。
「さ……寒い……」
側にいるスイとトネール、そして目の前にいるセイルの表情を確認する。
選ぶまでもなく、スイの肩を取ってこちらに引き寄せた。
僕は、男を選ぶくらいなら、女の子を選んでセクハラになる方を選ぶ。
「…………!」
何事かを魔力で訴えるスイの意志を無視して、抱きしめる。
背が低いスイは僕の腕の中にすっぽり嵌った。
水の精霊だけあって、スイの体温はプライマリーヒューマンより僅かに低い。
だが、それでも冷えきった今の僕の身体よりは遥かに暖かく、湯たんぽのようだった。
「うぅ……寒ひ……」
スイの体温によって、僅かに震えが治まる。
身体の芯から凍りついていたのが徐々に溶けていく。全身冷えきった僕に抱きしめられているスイは、その冷たさを直に食らっているはずだが僅かも変わった様子がない。
「……大丈夫?」
それどころか、僕の様子を見て本当にやばいと悟ったのか、いきなり抱きしめられて尚相手を慮る余裕のある始末だ。
僕は自分がただただ、情けなかった。
だからこそ、僕はやる。やってやる。
スイを力いっぱい抱きしめ、触れ合う身体から熱を奪いながらトネールを見上げた。
決して恨みを込めているわけではないが、強い視線で水風の双子精霊、その風側に訴えかけた。
「トネール……風、強い。凪の盾使えないの……?」
「……あー」
「ああ、トネールは船の生成で疲れてるだろうし、僕がやろう……」
セイルが呪文を唱え、『凪の盾』を発動する。
やはり、セイルも風系の魔術を使えるのか……
今の今まで真正面から吹き付けてきた風が消え、同時に船の速度が僅かに落ちる。どうやら船の全面に大きく展開したらしい。僕の前だけでいいよ、僕の前だけで。
吹き付ける風がなくなると今度は揺れの方が気になってきた。
今更な話だが、最近改めて思う事だが、僕の身体は――いくらなんでも性能が低すぎると思う。
だからだ。だからこんなにも他のメンバーに頼らないといけないのだ。この野郎!
もう探求者廃業しようかな……
でも、まじこの揺れやばい。なんで皆この揺れで平然としていられるのか甚だ不思議だ。
また再び、こみ上げてきた吐き気。こんな事で最上級の回復薬を使用しては、製作者に殴られてしまう。
僕は腕の中で大人しくしているウィンディーネに泣きついた。
「スイ、揺れ、なんとかして欲しい」
「……」
ジト目でスイが見上げてくる。魔力も発していないので、完全に視線で語っていた。
なんでこういう所だけ有機生命種と同じなんだよ。
仕方なく、呆れたように目を大きく開いてこちらを見下ろしているブリュムに向き直る。
「ブリュム……」
「……あははははは、お兄さん、弱すぎだね! そんなんじゃすぐに死んじゃうよ?」
「……知ってるよ」
王国での扱いとの差がありすぎる。
僕は王国では殺しても死なない最弱探求者として有名だったというのに。
とか何とか言いながらも、ブリュムはスキルを使用してくれた。
水系統の魔術。エレメンタルはほとんど種族スキルとして元素魔法を持っているため、僕ならそのほとんどの力を把握している。
何が使えて何ができないのか。個体によって使えたり使えなかったりもするだろうが、そんなのは些事だ。
種族スキルとは――本能なのだから。
とても楽な種族だ。同時に有用ではあるが、奇々怪々なナイトメアなどと異なり余り面白くない。
衝撃を吸収するブヨブヨのゼラチン質の厚いシートが生成され、衝撃を大きく緩和する。
まだ揺れは伝わってくるが、先ほどと比較すれば雲泥の差だ。
そこまでしてもらって、僕はようやく一息着くことができた。
「ありがとう、助かったよ」
「……やれやれ、まさかまだ戦闘すら始まっていないのに躓くなんて……」
少し顔色がよくなった僕を見て安心したようにセイルが苦笑いする。
面倒をお掛けして申し訳ない。
だが、一つだけ誤解しないでいただきたい。
「言っておくけど、こんなに弱いのは僕だけだから」
「あはははははははは、お兄さん、それ自虐ネタ?」
双子がさもおかしそうにけたけたと笑った。
まぁ、自虐ネタだね。
滑るように奔る空の船は、風と衝撃さえ緩和してみれば随分と気持ちのいいものだった。
高さもいつの間にか一メートル前後だったのが、地上がぎりぎり見えるくらいの高度になっている。
床がすけているので、高所恐怖症だったら悲鳴をあげていたかもしれない。幸い、僕にはそんな気はなかった。そりゃこんな高さだったら寒くも感じるよ。
もっとユーザビリティを考えて欲しいものだ。貧弱なメンバーの事も考えて。
「で、落ち着いた所で一個だけ聞きたいことがあるんだが……」
「ん?」
セイルさんが若干躊躇いながらスイを指さした。
僕の腕の中にいる。
「スイの事、いつ離すんだい?」
「え?」
何を言ってるんだ。
僕は取られてなるものかとより一層、力を込めてスイを抱きしめた。
暖かい。ヌイグルミでも抱きしめている気分だ。ディープ・ブルーの髪が顎をくすぐった。
ウィンディーネがこんなに温かいなんて、僕は今初めて知った。やはり知識だけでは駄目だと言う事か。
もう少し実体験を入れて深堀りする必要がありそうだ。
セイルさんに眼で訴える。
ここ、寒いんだよ!
スイは鬱陶しそうにしながらも行儀よく動かないでいる。これはつまり、オーケーという事だ。
「着いたら離すよ……多分」
ああ……水精霊の魔力が感じられる。
目をつぶると、体内に濁流のように渦巻く静謐な力が感じられる。
元素精霊種の魂、機械種で言う存在核は元素核と呼ばれる純粋な力の結晶だ。
ついつい反射的にその存在を探ろうと手を胸に押し当てた。
リラックスしたように垂れていたスイの髪がぶわっと一瞬逆立った。
「ッ!? ……!!」
スイの内部を静かに流れていた魔力の流れが急に牙を向き、僕の全身を飲み込みかき乱した。
魔力交流と同じ原理で、同時にその魔力量はその比ではない。
幸い敵意はなかったのでその魔力は僕にダメージを与えてはいないが、身体の中をかき回されるその感覚は決して気持ちのいいものではない。
下に敷いていた『水蝋』の魔法がその魔力の乱れに構成を乱され、ただの水となった。
僕は猫の尾を踏んづけた事を悟った。スイが今までの大人しさが嘘のように腕の中で暴れる。
魔力がひたすらその激情を伝えてくるが、僕にはそこから意志を読み取る術がない。唯わかるのは、激しく嫌がっているという事くらいだ。
即座に元素核を探るのを諦め、落ち着かせる。
また悪い癖が出た。だってほら、こんなに近くにエレメンタルがいたら――僕でなくてもきっと我慢できないはずだ。
魔物使いならば……いや、探求者ならば手を出さずにはいられない神秘の塊がそこにある。おまけに、僕はエレメンタルについてあまり詳しくないのでついつい枷が外れてしまう。きっと親密な交流はできないだろうと考えていたから尚更だ。
ピシピシと顔を打ち付けてくるウェーブのかかった髪を押さえつけ、頭を撫で付ける。
セイルが呆気にとられたように言う。
「……フィル? 何やってるんだよ……」
「ちょっと悪い癖が……スイ、ほら、落ち着け。落ち着いて、もうやめたから!」
誰だって存在を探られるのは嫌だ。それはエレメンタルに限った話じゃない。
それは心臓を抑えられているかのような行為だ。命を握られて平気でいられる者が何人いるか。
だが、大丈夫。安心してほしい。
僕が元素核を見つけた所で、僕にはそれを直接破壊する術はないのだから。
「スイ、ごめんごめん。僕が悪かった。次からはちゃんと断るから!」
「……最っ低」
スイのその二文字が僕の心に突き刺さる。
出来心だったんだよ!
非常に魅惑的な水精霊は、力の抜けた腕からするっと抜けだして険しい眼で僕を睨みつけた。
やばい、信頼性が落ちている。
スイがいなくなった後の腕の中は、スイが納まる前よりも遥かに冷たく感じた。
エレメンタルって難しいなあ……修行あるのみか。
「ブリュム……お尻の下が冷たいんだけど」
「お兄さん、最低。自業自得だと思うよ?」
ブリュムが珍しく顔を顰めて言った。
その通りだ。
船が壊れなかっただけラッキーだと思うべきか。
トネールだけが爆笑している。何が面白いのか、膝を付いて船をバンバン叩いていた。
頼むから船の制御だけは誤らないでほしい。いや、僕が悪いんだけど。
……
「申し訳ございませんでした」
その場で土下座した。そこに躊躇いなんてない。
呆気にとられたような視線が後頭部に突き刺さる。
顔が冷たいのは床が水浸しだからだ。
今回は全面的に僕が悪い。そう、こんなことで信頼性が取り戻せるとは思えないが、そうでもしないと僕の気が済まない。
次は、次はもっとうまくやるから!
ちょんちょんと足の先かなんかで後頭部を突かれる。
「……全然反省してない」
僕は声をあげて胡散臭いものでも見るかのような視線を向けてくるスイに訴えかける。
揺れも冷たさも今となっては些事だ。
「いや、してるよ! もう二度と断りなしに元素核を探るような事しないと誓う!」
「核を探ったのか……そりゃ殺されても文句は言えないな……」
「あはははははははは、お兄さん、最低だね! セクハラだね!」
セイルさんが呆れたように言い捨て、トネールが嘲笑う。
僕は水飲み鳥のように頭を下げ続けた。
あああああああ。
エレメンタルに嫌われるなんて、僕には我慢ならない。
高嶺の花だと思って諦めていたが、いざ目の前にすると手を伸ばしたくなってくる。眼の前に栄光があるとそこに突き進みたく成る。それは魔物使いの性であり、同時に僕の性でもあった。
やがて、視線の温度が憤怒から哀れみに下がり、僕の評価と引き換えにどんどん温度を取り戻していった。
残念ながら僕はこういうシチュエーションには耐性があるので少し心が痛いだけで特にリアクションはない。
可哀想なものでも見るかのような眼でスイがため息をつき、無愛想な口調で言う。
「……もういい」
許された!
いや、諦められたのかもしれないが割と僕はどっちでもよかった。
ゆっくりと顔を上げ、スイの表情を読み取る。
まだ怒りはある。あるがそれを哀れみが上塗りしている。
そりゃ怒りはそう簡単に消えないだろう。
僕が心臓を握られる側だったら、そいつには死あるのみだ。
スイは意外と懐が深かった。
「ありがとう、スイ……」
「言わなかった私も悪かった」
いや、徹頭徹尾、完全に悪いのは僕だと思う。
だが、水は差さない。スイがそう考えているのならば是非もないのだ。
僕は笑顔で腕を開いた。スイが首を傾げて僕を見る。
僕は可愛らしい水精霊を急かした。
「ほら、スイ。こっちおいで」
「……え!?」
目を丸くする。鳩が豆鉄砲を食ったよう表情で僕をまじまじと見る。
僕は……寒いんだ。
さぁ、ワンモアアゲイン!
「あはははははははははははは、それは無いよ! お兄さん!」
「お兄さん、最低です……」
「フィルの頭の中はどうなってるんだ……」
「……馬鹿?」
結局、迷宮に辿り着くまで、僕は水精霊に触れることができなかった。




