表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第1話 序章

その日は、秋の夜風が冷たかった。


男はナイフを律の頭上に掲げる。

振り上げられた刃先が月光を受けて鈍く光った。


その瞬間、律は理解した。


ああ。

死ぬんだ。


男は笑っていた。

つい先ほど人を殺したばかりとは思えないほど穏やかな顔で。


足元には死体が転がっている。

鉄臭い血の匂いが夜気に混じって漂っていた。


律は不思議と騒がなかった。

助けを求めようとも思わない。


ただ静かに、自分の終わりを見つめていた。



十歳の頃だった。

異国のサーカスへ売られたのは。


言葉も通じず、帰り方も分からないまま、気づけば檻のような世界で生きていた。


鞭で叩かれたこともある。

骨を折ったこともある。

笑い者として舞台に立たされたこともある。


それでも生きた。


生きなければならなかったから。


そうして十年。

振り返れば、生きることに必死なだけの人生だった。


だからだろうか。

死を前にしても、涙は出なかった。


悔しさもない。

恐怖すら薄い。


ただ一つ思ったのは、



こんなものか。



という、拍子抜けするほど静かな感想だった。


二十年。

死にものぐるいで生きてきた結末が。

名前も知らない男のナイフの下だなんて。


なんとも、自分らしい。



男と目が合った。



灰色の瞳。

感情の欠片もない瞳だった。

怒りも憎しみもない。

そこにあるのは、獲物を見定める捕食者の視線だけ。



律の背筋を冷たいものが走った。



その時。


獲物の性か、生存本能か。


理由は分からない。



だが体が勝手に動いた。



男の肩がわずかに沈む。

ナイフを振り下ろす予備動作。



それを見た瞬間、律は反射的に身を投げ出した。



風を裂く音。



銀色の軌跡が、つい先ほどまで律の首があった場所を通り過ぎる。


間一髪だった。


あと数センチでも遅れていたら、喉を切り裂かれていただろう。


地面に転がりながら、律はようやく息を吸った。

肺が焼けるように痛い。

生きている。

しかし、

男はまだ、そこにいる。



「え、え…?」



ようやく声が出た。


人は本当に驚くと悲鳴や嘆きの声は出ないらしい。



「おっと…?」



律が避けたことは予想外だったのだろう。


男はわずかに目を見開いた。




「えっ、えっと、あの」




一方律は唐突に向けられた殺意にまだ反応できない。


アメリカに来てから嘲笑や敵意、恫喝を受けたことがあっても、殺意をびしびしと感じる状況はなかった。



男は姿勢を正すと、かけている眼鏡をくいっと指先であげる。



「私は子どもを殺すのは趣味じゃないんだ。

道義に反する。

しかし、何事も例外がつきものだと思わないか?」



男は肯定を促すように手の平を律に向ける。



律は男の顔と、血まみれの死体を交互に見た。



この状況を察するに、

いや察したくはないが、

血まみれの死体は彼が原因で、私は第二の被害者予定というところだろうか。



インプよろしく日本人であるためか、律は子どもだと思われていた。



いやいや、冷静に俯瞰してる場合ではない。



改めて狙いを定めてナイフを振り上げる男を前に、律は必死で頭を回した。




どうすればこの状況を回避できる?




笑顔で難なく人を殺すことができる相手にどう命乞いをする?



死にたくない。


死にたくない。


生きたい。



だらだらと零れ落ちる冷や汗が顎を伝って地面にぽとりと落ちた。




「わ、わたし!!」




目の前の殺人鬼に向かって震える声で抗議する。




「わ、私を殺すのは惜しいですよ!!!」


「惜しくない命なんてないだろうね。」




聞く耳なんて持たないと、男はふっと鼻で笑った。

しかし律の言葉は止まらない。

脳で考える前に脊髄反射で続ける。



「私は役に立てます!!」


「へぇ、どうやって?」



どうやって?


どう?



瞬間、これまでの、文字通り血の滲むような10年間が脳内を駆け巡った。



「あ、あなたを楽しませることができる!」



律の言葉に男は眉を少し顰める。



「はぁ。生憎、そういった欲はないんだ。興味もない。」



いわゆる娼婦のような楽しませ方だと勘違いされたらしい。

男は酷く気分を害したという風に、再度ため息を吐いた。



「もういいかな?腕が痺れてきた。

私にしては十分時間をとってあげたんだ。

子どもへのせめてもの情けだ」


「違う違う!そういう意味じゃない!」



律は両手を顔の前に突き出しぶんぶんと横に振りながら、同時に壊れたおもちゃの如く首を振る。

男は彼女の真意が掴めないのか、ん?と首を傾げた。



「私、こう見えてサーカスのピエロなんです!!観客はみんな私に釘付け!」


「ほぉ?」



男は少し興味を持ったのか、片眉をあげる。

風向きが変わったような気がした律は、畳み掛けるように言葉を続けた。



「私の芸は全ての人間を楽しませる!

あなただって例外じゃない!

私を殺さずに生かしてくれればあなただけのピエロになります!

そう、私はショーマンなので!」



ここまで一息で言い切ったせいで、酸素が足りずにぜぇはぁと肩で息をする。



正直、自分でも命乞いにしてはなんて価値のないプレゼンテーションかと思った。



しかし、律にはこの地で培ったピエロとしての芸しかなかった。



男はしばらく何も言わずに動きを止めた後、ふぅと息を吐いてナイフを地面に下ろす。


ひとまず命の危機が去ったことを確認し、律はやっと上手に呼吸ができた。



しかしまだ油断はできない。



殺人鬼から目を離さずにじっと見つめていると、彼はそこら辺のゴミ箱に腰掛けて足を組み、手の平をこちらに向ける。



「興味深いね。ぜひ君のショーを見せてくれないか?」


「え、え?ここで?」


「自分の命の価値が人を楽しませる芸だと言ったのは君だ。ここで披露しなければ意味がないだろう?」



死にたくなければ実力を見せてみろ、と殺人鬼の目は語っていた。


さぁ早く、と手の平をちょいちょいと動かし、男は急かす。



本当は腰が抜けて立てなかった。




でもそんなことを言っていられない。



律は何度も己の心に言い聞かせた。



私の命は殺人鬼の手のひらの上にあって、私はピエロだ。



震える足をなんとか立たせた。



大丈夫。私はピエロ。


いつもしてきた。


嘲笑を受けても、

石を投げられても、

水をぶっかけられても、

やってきた。


大丈夫。なんてことない。


私ならやれる。




覚悟を決めた律は最大限に口角を上げ、目の前の殺人鬼に目を合わせる。


心臓は今にも飛び出しそうだった。


しかし笑う。

ピエロだからだ。


怖くても笑う。

泣きたくても笑う。


それがインプの仕事だった。



「Ladies and gentlemen! ようこそおいでくださいました! 私はインプ! 今宵あなたを楽しませましょう!」



律は道端に落ちていた石をいくつか拾い上げる。


指先は震えていた。

だが幸い、長年の訓練は身体に染みついている。


恐怖で頭が真っ白になっても、芸だけは勝手に動いてくれる。



「さてさてまずお目にかかっていただくのはジャグリング! 最初は二つから!」



ひゅっ、と石が宙を舞う。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


いつも通り。


何千回も繰り返してきた動き。


石は空中で弧を描き、律の手の中へと吸い込まれていく。


五つ。


六つ。


七つ。


八つ。


気付けば八個の石が夜空を泳いでいた。

街灯の光を受けて石がちらちらと輝く。


サーカスなら観客から拍手が起きる頃だ。



しかし、ここには拍手も歓声もない。



あるのは死体と殺人鬼だけだった。



律はちらりと男を盗み見る。

男は微笑んでいた。

しかしその笑顔は変わらない。



面白がっているわけでもない。


感心しているわけでもない。



まるで品定めをするように、律を眺めている。




その視線に背筋が冷えた。


だめだ。

刺さっていない。


全然刺さっていない。




ここからどうする。


いつもなら玉乗りだ。

火吹きだ。

綱渡りだ。


だがそんなものはここにない。



路地裏には死体とゴミ箱と水たまりしかない。



脂汗が頬を伝った。

石を受け取る手が少しだけ狂う。

それでも落とさない。



落とした瞬間、命も落ちる気がした。



すると男が小さく息を吐いた。


ふぅ、と。



まるで退屈な演目を見終えた観客のように。



そしてナイフを握り直す。

ぎらり、と刃が光った。



「終わりかい?」



律の胃が縮み上がる。



終わり?

終わりなわけがない。


ここで終われば、私も終わる。




「ま、まだまだ! 楽しみはここからです!」




勢いだけで返した。

しかし返事をした本人が一番困っていた。



何もない。


何も思いつかない。



ジャグリングを続けながら必死に視線を彷徨わせる。



使えそうなもの。


何か。


何かないか。



その時だった。

視界の端に赤黒いものが映る。



死体だった。



律は思わず目を逸らす。




いや待て。




思考が止まる。



そして戻る。




死体を見る。


再び逸らす。


また見る。




だめだ。


人間だぞ。


死体だぞ。


何を考えている。




倫理観が悲鳴を上げる。




しかし、別の声も聞こえる。




死ねば終わりだ。


死ねば日本にも帰れない。




死ねば何もかも終わりだ。




だったら…。





ぐるぐると回る思考を止めたのは男の声だった。




「ではそろそろ……」




ナイフが持ち上がる。


律の全身から血の気が引いた。



「ま、待った!」



石を放り出し、片手を突き出す。


男は動きを止めた。


律を見る。


まるで最後の言い訳くらいは聞いてやろうと言わんばかりに。



「こ、これはきっと見たことがないですよ!」


「へぇ。」


「なにせ私も初めて披露するのですから!」



男の片眉が上がる。


興味か。


呆れか。


律には分からない。


分からないが、止まらない。


止まったら死ぬ。




「さぁさぁ! 目を逸らさずによく見てくださいね!」



律は死体へ歩み寄った。


足が震えている。


膝も笑っている。


だが舞台に立つ時と同じように、胸を張る。



そして男の方へ振り返った。


両腕を大きく広げる。


じゃんっ、と。


死体を指し示した。




「Hurt this heart!!」




沈黙。


風が吹いた。


どこかで空き缶が転がる音がする。



男の表情が固まった。


律は引きつった笑顔のまま硬直する。




やってしまった。




命を懸けて絞り出したのがこれだ。


心臓と傷付けるをかけた最低最悪の親父ギャグ。



男は律を見ている。

ただ見ている。


豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔で。




おわった。




人生終了のお知らせが頭の中に響く。



律はゆっくり目を閉じた。


せめて痛くありませんように。




そう願った次の瞬間だった。




「HAHAHAHAHA!!」




盛大な笑い声が夜空を突き抜けた。


律は思わず目を開く。


そこには腹を抱え、天を仰ぎ、地団駄を踏みながら笑い転げる殺人鬼がいた。




ナイフは放り出されている。



死体も忘れている。



ただひたすら笑っている。



まるで人生で一番面白いものを見たみたいに。


10秒ほど笑い転げた後、男は顔を上げ目元に溜まった涙を人差し指で掬った。




「あー。全く愉快。いいね、最高だ」




何が何だかわからないが、とち狂った殺人鬼のツボには刺さったようだった。


律が困惑していると、男は一歩ずつ近づき手を差し出すように言う。


警戒しながら右手を差し出せば、そこにはギラリと光るナイフが置かれた。




「見たところ、道具がないだろう。貸してあげよう」




子どもがおもちゃを貸すがごとく、満面の笑みで差し出される凶器。


ほら早く、と殺人鬼は付け加える。



まさか。

本当にやれというのか。



律はナイフを凝視した。



あのギャグを思いついた律も律だが、人道を外れた殺人鬼は余裕でその上をいく。

まさに外道。



しかし、狂気の瞳に圧迫された律はもう後戻りできない。


震える手でナイフをしっかりと握り、死体の前に座る。

乱れる呼吸をなんとか落ち着かせて真っ白な冷たい死体にナイフを当てた。



しかしそこからどうしても力が入らない。


動揺と恐怖でナイフがかたかたと揺れる。


なんとか落ち着こうと深呼吸をした時、ナイフを持つ右手にそっと殺人鬼の手が重ねられた。



「やれやれ。そんなに震えるとうまく切れない。仕方がない。手伝ってあげよう」



ぐっと男の手から体重が加わり、ナイフがぷつりと皮膚に刺さるとじわりと血が滲む。


すーっと鉛筆で直線を描くようになぞれば、ぱっくりと皮膚が割れていった。







後のことはご想像に任せよう。




十数秒後。


殺人鬼の援助があった甲斐あり、律は見ず知らずの人の心臓を傷つけた。




「うっ……ぐっ……」




手から力が抜ける。


かちゃん、と乾いた音を立ててナイフが地面に落ちた。



その瞬間だった。



今まで必死に押し込めていた吐き気が、一気に喉元までせり上がってくる。



肺が潰れそうになる。

視界が揺れる。



自分が何をしたのか、脳がようやく理解してしまった。



見ず知らずの人間の胸に、自分の手で刃を入れたのだ。




「ぅ、あ……」




胃が痙攣する。



次の瞬間、律は地面に手をつき、盛大に吐いた。


胃の中のものが泥の上へとぶちまけられる。



喉が焼ける。

涙が滲む。



吐いても吐いても気持ち悪さは消えなかった。



胃の内容物が空になっても身体は吐こうとし続ける。



何度も。

何度も。


胃液しか出なくなっても。



その間、殺人鬼は特に気にした様子もなかった。


吐瀉物が飛ばない位置まで一歩下がると、律が落としたナイフを拾い上げる。



そしてポケットから白いハンカチを取り出した。


丁寧に。

実に丁寧に。


血の付いた刃を磨き始める。



まるで高価な銀食器でも手入れするみたいに。



律にはその光景がひどく異様に見えた。




人を傷付けた。


自分は吐いている。



なのにこの男だけは、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。



やがて胃液しか出なくなり、ようやく吐き気が落ち着く。



息が苦しい。

喉が痛い。



身体中から力が抜けていた。



律は震える手で口元を拭う。



胃液と涙で顔はぐしゃぐしゃだった。

服の裾で乱暴に拭き取り、ゆっくり顔を上げる。



真正面に男が立っていた。



両手を背中に回し、興味深そうにこちらを見下ろしている。



木々の隙間から差し込んだ月明かりが、男の横顔を青白く照らしていた。


その笑顔だけがやけに鮮明だった。


不気味なくらいに。



「想像力は80点。行動力は30点。及第点といったところかな」



男は満足そうに頷く。



「しかし、君をショーマンとして称賛しよう」



ぱち。


ぱち。


静かな拍手が夜の路地に響いた。


律は呆然とその音を聞いていた。




この男はおかしい。




最初から知っていた。



だが今はっきり分かった。




自分とは見ている世界そのものが違う。




全てが最悪だった。


人を傷付けたことも。


吐いていることも。


死体が転がっていることも。



それなのに男だけは、パーティーを楽しんだ後みたいに上機嫌だった。



「じゃあ帰ろうか」


「え……どこに……」



掠れた声が漏れる。


男は答える代わりに、律の服の裾をひょいと摘まんだ。


血と泥で汚れたボロ布同然の服。


それを引っ張って立ち上がらせる。



「もちろん私の家さ」



男は両耳に届きそうなほど口角を上げた。




「君はこれから私のピエロになるんだろう? Ms.インプ」



「あ……ぁ……」




律は何も言えない。


拒否という選択肢は頭に浮かんだ。


だが同時に消えた。


ここで断れば殺される。


それだけは分かる。


男の手の中にはまだナイフがある。



だから律は喉の奥から声を絞り出した。



「……YES」



短い返事だった。


それだけで限界だった。


緊張。


恐怖。


疲労。


吐き気。



全てが一気に押し寄せる。


視界が暗くなる。


遠ざかる意識の中で、律は最後に思った。


今日は本当に最悪な一日だった。


その直後。


世界は暗闇に沈んだ。














いい匂いがした。


花のような。


甘くて、柔らかい香り。



夢の中にいるような心地よさだった。



律は微睡みの中で鼻をひくつかせる。



こんな香り、サーカスでは嗅いだことがない。


獣の臭いも。

酒の臭いも。

汗の臭いも。


団員たちの怒鳴り声もない。



不思議なほど静かだった。



大酒飲みの団長が珍しい酒でも手に入れたのだろうか。




そんなことをぼんやり考えながら、律は重たい瞼を持ち上げる。


朝日が窓から差し込み、白く視界を染めた。



え。


朝?



その瞬間だった。



「団長すみません!寝坊しました!!」



反射的に飛び起きる。



勢いよく身体を起こしたせいで頭がくらりと揺れた。


だがそんなことは気にしていられない。


酒を買いに行かされた。




途中で…。


途中で。



そこで記憶が止まる。



律は目を瞬いた。



見覚えのない天井。

見覚えのない部屋。


見覚えのないソファに寝ている自分。



そして。


自分の身体に掛けられた真っ白なシーツ。


律は固まった。



数秒。


本当に数秒だけ。


その後、昨夜の記憶が一気に脳内へ雪崩れ込んでくる。



血。


死体。


ナイフ。


笑う男。


心臓。


嘔吐。


殺人鬼。



「あ」



間抜けな声が漏れた。


その瞬間。



「えほん」



誰かが咳払いをした。

律の身体がびくりと跳ねる。


恐る恐る視線を向ける。



そこには昨夜の殺人鬼がいた。



まるで昔からそこにいたみたいな顔で。


優雅に紅茶を飲みながら。




「間抜けな顔はピエロだからかい?それとも地顔?」


「うぎゃぁ!」



尻尾を踏まれた猫のような叫び声をあげ、律は驚きのあまりソファから転げ落ちた。


男はケラケラと笑いながら、湯気の立つ紅茶に口をつける。


律はシーツで顔の半分を隠しながら、恐る恐る男を窺った。



「ここは、あなたの家ですか」


「もちろん! 他人の家で優雅に紅茶を飲む阿保はいないだろう?」



そう言った後、ジャスパーは「ああ、そういう輩もいるか」と付け加える。



その言葉を聞き、昨夜の出来事が悪夢でも妄想でもなく現実だったことを律は思い知らされた。



途端に吐き気が込み上げ、どうにか堪えた。



おそらくこの殺人鬼は、自分の縄張りを汚されることを嫌う。



律はそんな確信めいた予感を抱いていた。


なにしろ彼女はいま、薄汚れたインプの衣装ではなく真新しいシャツを着ていた。



顔も手も綺麗に洗われている。


血も泥も残っていない。


誰がやったのか。



考えたくはなかったが、この家にいるのは目の前の男だけだ。



成人した女性として言いたいことは山ほどあったが、命に比べれば些細な問題だった。



律は何も言わないことにした。



ジャスパーは自分の紅茶と、口をつけていない紅茶を持って歩み寄る。



そして何事もないようにソファへ腰掛けた。



床に尻餅をついている律は、自然と彼を見上げる形になる。



「紅茶でも飲むかい?」


「……はい」


律は渡されるままに紅茶を受け取った。



毒が入っている可能性は考えなかった。


いや、正確には考える余裕がなかった。



吐き気と恐怖を無理やり流し込むように、一口啜る。



その瞬間、ジャスパーは目元に手を当てて笑った。



「君はわざとやっているのか、それともただの阿保か?」


「へ?」



律は首を傾げた。



なぜ馬鹿にされたのか分からない。


しかしすぐに先ほどの言葉を思い出す。




他人の家で優雅に紅茶を飲む阿保はいない。




ましてや相手は殺人鬼だ。


出された紅茶を何の疑いもなく飲む人間など普通はいないだろう。


律は慌てて愛想笑いを浮かべた。



「さて、本題に入ろうか」



ジャスパーは紅茶を片手に深く腰掛け、足を組む。


その姿を見た瞬間、昨夜の光景が脳裏をよぎった。



血。


死体。


銀色の刃。


律の背中を冷たい汗が伝う。



「あぁ、まずは自己紹介だ。私はジャスパー。私なりに一晩、君のこれからについて考えたんだ」



律の処遇について。


その言葉だけで喉が乾く。



今からやはり殺すと言われるのではないか。



そんな不安を押し隠しながら、律は紅茶をまた一口飲んだ。



「君は私のピエロとして私を楽しませるということらしいが、いかんせんそれだけでは物足りないだろう?」



ジャスパーは眼鏡をくいっと押し上げる。


細められた灰色の瞳は、獲物を見定める猛獣のようだった。



「そこでだ。私と取引するのはどうだい?」


「取引……?」


「あぁ。実は私は昨夜のようなことが趣味でね」



あまりにも軽い口調だった。


散歩が趣味だと言うのと変わらない調子で、彼は人殺しを語る。



「昼は普通に働き、夜は趣味に勤しむ。もちろん不満はない。しかし、ふと思ったんだ」



長い指が律を指差す。



「君がいれば、私はより一層趣味に没頭できるんじゃないか、と」



つまり共犯者になれということだ。


律は口を閉ざした。


ジャスパーは構わず続ける。



「もちろんショーマンとしての実力も買っている。その発想力を私のアイデアに加えてもいい」



殺人の補助要員として褒められても嬉しくない。


インプと呼ばれるより嬉しくない。



ジャスパーは空になったカップを置き、立ち上がった。


そして律の前に歩み寄り、左手を差し出す。



「君が私のピエロとして私を楽しませ、なおかつ私を手伝うなら、命と最低限の衣食住を保証しよう。どうだい?」



最低限の衣食住。


言葉だけならサーカス時代と大差ない。



しかし部屋を見回せば、その最低限がサーカスより遥かに上等であることは明らかだった。


何より命の保証がある。


律が返答に迷っていると、ジャスパーは人差し指を立てて左右に振った。



「あぁ、お嬢さん。君には悩む権利すらないんだよ。それと私は無駄な時間が嫌いだ」


「よろしくお願いします」



律は即座にジャスパーの手を握った。


恐喝に近かったが、選択肢は最初から一つしかない。



ジャスパーは満足そうに笑う。



「取引成立だね。Ms.インプ」



鼻歌交じりにカップを片付けようとする背中へ、律は声をかけた。


「律です」


「ん?」



ジャスパーは振り返らない。

しかし足を止めた。


「私の名前、インプじゃありません。インプは役名です。名前は律です」


「へぇ、珍しい名前だね。やはりアジア人か」



数秒の沈黙。


そして。



「これからよろしく、Ms.インプ」



ジャスパーはそのままキッチンへ消えていった。


律は思う。



どうやら自分の名前など、彼にとっては明日の天気予報程度の価値しかないらしい。



晴れでも曇りでも構わない。


ポチでもタマでも変わらない。



失礼な男だ。



ほんの少しだけ腹を立てながら、律は冷め切った紅茶を飲み干した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
題名とジャンルがちぐはぐすぎてついクリックしてしまいました。 律さんの今後が楽しみですね、倫理観壊れないでいってほしいなーと思います。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ