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43:啾啾……小声で小さく泣く

 バラルガが目を開けた瞬間、見えたのは円筒形の石天井だった。

古びた歯車と、螺旋を描く階段。ここが大時計台の内部だと、理解するのに一瞬も要らなかった。


 主、手こずりました。本当に申し訳ない。


内心で頭を垂れながら、バラルガはゆっくりと体を起こす。ロープは全身を拘束したままだ。だが——毒の気配がない。それどころか、頭の芯がひやりと澄んでいた。魔王の血がもたらす再生能力が、静かに毒を焼き切っていたのだ。


「今なら使える」

確認するように、低く呟く。


上半身へ魔力を収束させた瞬間、縄がギチギチ音を立てた。内側から膨張する岩が縄を食い破り、引き裂く。足に巻き付いた分も同じだ。バラルガはゆっくりと立ち上がり、右の掌に意識を向けた。


重い。

質量がある。

自分の内側から、世界をひっぱる力が——じわりと、漲ってくる。


魔力を解放した瞬間、足元の床が悲鳴を上げた。

メキッ、メキメキメキッ——

石材が内側から圧迫され、亀裂が走る。


「『絶対重力圏』」

周囲の重さが増し、床に亀裂が走る。


——二階。

階段など使わない。壁を蹴り、重力の反動を纏いながら、一気に吹き抜ける。

——三階、四階。

崩れた石塊が足元に降り注ぐが、バラルガは止まらない。顔に青筋が立っていた。主の足を引っ張ったという事実が、静かな怒りになって体の奥で燃えている。

——最上階。

右手に魔力を最大まで溜め、バラルガは踊り場の床を踏み砕いて飛び出した。


そして。


「……いない」

広がっていたのは、静寂だった。

窓から夜風が吹き込み、巨大な針が月光に白く照らされている。人の気配は、ない。ただ魔力の残り香だけが、空気にうっすらと漂っていた。


さっきまでいた。だが、もうここにはいない。逃げた、下へ。


バラルガは足元を見下ろした。40メートル以上の高さ。石造りの時計台が、縦に積み重なっている。地面には、ぼんやりとだが人影が見える。


「……まあ」

静かに呟く。


「遠回りは、性に合いません」

右手を真下へ向けた。


——『岩塊墜落メテオ・プレス


解放された重力が、時計台そのものを捕まえた。床が割れ、壁が内側へ歪む。歯車の軸が引き裂かれ、巨大な針が根こそぎ落ちる。崩落音が幾重にも重なり、石と砂が一瞬にして時計台の内部を塗り替えた。


バラルガはその中心にいた。崩れ落ちる瓦礫の流れに乗り、重力を足場にして——ゆっくりと下へ。


轟音が、地面を揺らした。時計台の一角が崩壊し、石の粉が白い霧となって舞い上がる。


「——ッ!」

エリアは体を丸め、飛んでくる瓦礫を両腕で防いだ。掌に、肘に、鋭い痛みが走る。頬の古傷が裂けたのか、温かいものがじわりと伝う。


でも、体は動かさなかった。膝の下に、レイドがいる。金髪が砂埃で汚れ、顔は土気色だった。ふたりの周囲には、赤黒い血だまりが静かに広がっている。


 白壊を使って、なんとか……でも。


エリアは自分の掌を見た。


光が薄い。回復魔法の白い輝きが、傷口に触れるたびに瞬いて——また、消えていく。魔力の底が、もうすぐそこに見えている。


「……エリア」

かすれた声がした。


「エリア……離れろ。俺は、もう……」


「黙って」

エリアは顔を上げずに遮った。


「じっとしてて。それだけでいい」

震えていた。声が。膝が。呼吸が。

でも、手だけは——震えていなかった。


瓦礫が、動いたと思うと崩れた石塊の山が、内側から押し上げられるように割れる。砂塵の中からバラルガが姿を現した。


服に石灰の粉が薄く散っているだけ。銀色の長髪はキラキラ光り、体には傷ひとつない。その瞳が、エリアとレイドをひとつに捉えた。


「待って!」

エリアが叫んだ。


バラルガの右手に、土塊が凝縮し始めていた。石畳が砕け、岩の破片が意志を持つように集まり、巨大な拳の形に固まっていく。

「待ちませんよ」

バラルガは静かに言った。

「待っている間、あなたはその男に魔法をかけ続ける。待つべき理由がない」

「……ッ!」

エリアは唇を噛んだ。


「彼は、もう戦えない! 見ればわかるでしょう!」


「わかります」

あっさりと。何の迷いもなく。


「だから今がいいのですよ」

腕が振るわれた。凝縮した土塊が、轟音とともに解き放たれる。


「『白壊はっかい』——!!」

エリアはレイドの体に覆い被さり、右腕を天へ掲げた。意識が薄れる。代わりに光が全身から溢れ出る。砕ける岩と土。衝撃が腕を駆け上がり、骨が軋んだ。


夜風が吹き砂埃が晴れる。

 

 生き延びた。


ただ、それだけを確かめた。頬の傷はより深くそしてより温かい。

「なんですか、それは」

バラルガの声に、感情はなかった。感心でも警戒でもない。珍しい現象を観察するような静かな呟きだ。


「魔力の出口を広げる——そういった類の技でしょうか」


エリアは答えない。立ち上がれなかった。手で膝の震えを静止しようとしても止まらない。視線を下げる。レイドの胸が、かすかに上下していた。


 よかった……無事ね。


バラルガがゆっくりと距離を詰める。一歩ごとに地面が沈む。空気が重くなっていく。立っているだけで、全身に鉛を纏ったような圧がかかる。


「けれど」

右手が開かれた。石畳が剥がれ、岩の塊が宙へ浮かぶ。——加速しながら円を描き、旋回し始める。


「魔力は……もう残っていない」

風がざわめく中、彼の声だけがはっきりと響いた。

「限界だ。次に力を使えば――終わるだろう」


残酷で正確で当たっていた。回復魔法は燃費が悪い。攻撃手段も持たない弱小の非物体魔法。

「非物体魔法は不便ですよね。攻撃できず他の魔法が使えない」


バラルガは淡々と言った。怒りも嘲りも憐れみも——何もない。ただ事実だけを並べていく。


「あなたに選択肢はない」

「……黙れ」

エリアは腰から白い宝石の魔道具を取り出した。目眩ましの魔法が込められた、最後の切り札。


 逃げ道を考えた。考えて、考えて——考えた。重傷のレイドを抱えて走れない。この男は強すぎる。


バラルガの全身から、目に見えるほど濃い魔力が立ち昇っていた。


 それでも……。


エリアは短剣を握り直した。


 ここで止めるしかない。


「……ふざけないで」

声は震えていた。それでも芯だけは、凍りついたように静かだった。


「選択肢はある。——私が守るんだから。回復魔法でも、やれることがあるんだから!」


守るという信念それだけだった。論理じゃない。見返りもない。ただ自分がそうすると決めた。それだけが今のエリアに残っていた。


エリアは涙を堪え、強く唇を噛んだ。

「私は最後まで、戦う」


「理解できません」

バラルガが静かに首を傾けた。


「ですが——」

旋回していた岩塊が、一斉に静止した。


「理解しなくてもいいですね。ここで終わる話ですから」

岩塊が落ちてくる。十数個が、重力に従って一直線に——


「——ッ!!」

エリアは両腕を交差させた。両腕へ岩塊が直撃し、砕けた岩と破片が嵐のように舞い上がる。砂埃が白く晴れていく。


エリアは、膝をついていた。

両腕が震えている。唇が切れ、血の味がした。それでも顔を上げた。


だが奴は無傷で。砂埃一つ纏わずに。

「あと一回でしょうか」

静かに言った。


「残り魔力で、あと一回。それを使えば——次は、何もできない」

「……黙れ」

「事実を言っています」

「黙れって——!」


バラルガがゆっくりと、右手を上げた。地面そのものが隆起し始める。時計台の瓦礫が、石畳が、建材が——バラルガを中心に重力へ引き寄せられ、巨大な球体を形成していく。


直径、三メートル。それが、ゆっくりと頭上に浮かぶ。

「『岩塊墜落メテオ・プレス』」

音が、消えた気がした。

エリアの脳裏に、ひとつだけ考えが過ぎった。


 最後の一回——どこに使おう。


涙が、頬を伝っていた。いつの間に出ていたのか、自分でもわからなかった。


 白壊を使って、レイドまで庇いきれるかわからない。頬もえぐれる。どっちも——助かる未来が……


笑えてきた。本当に、笑えてきた。


 それでも——それでも、決めたから。


エリアはレイドの体を、もう一度強く抱き寄せた。

震える唇が、かすかに動く。


「……ごめん、レイド」

目を、閉じた。岩塊が落ちてくる。

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