33:瑕瑾……優れているものの中のわずかな欠点
時計塔の最上層。とうとう二時になろうとしていた。崩れた壁から夜風が吹き込む。
エリアは立っていた。
顔の左側、頬からこめかみにかけて走る傷。乾ききらない血が白衣へ垂れている。
数十時間前——
ガーディアンの打撃が直撃し洞窟の壁へとぶつかった。あの瞬間は、世界が白く弾けたように見えた。
衝撃は痛みよりも先に、音を奪う。
骨が砕ける感触だけが内側から響き、肺が潰れ、空気が漏れ、足から力が抜けていくのがわかった。
死ぬ。
妙に冷静な理解をしていた。遠くで何かが崩れる音がした。洞窟か、自分の内側か、もう分からない。血が込み上げる。温かいはずなのに寒い。
「……は、」
息が吸えない。
吸おうとするたび、胸の中で擦れる。肺の奥が血で泡立つ。
魔力が散っていくのが分かる。今まで当然のように体内を巡っていた回復の光が、消えていく。
嫌だ。
その一言が、最初だった。
怖い、ではない。
悔しい、でもない。
ただ——
嫌だ。
まだ終わっていない。
まだ、何も終わっていない。
レイドはどうする。あの二人は、あのまま突き進む。
誰が止める。
誰が繋ぐ。
ここで死んだら……全部途切れる。
嫌だ。
その感情が腹の奥底で燃えてくる。
消えかけていたはずの希望が、また光りだす。
回復魔法を自分へ。震える指先でただ思う。
塞いで繋げて戻って!
通常の回復が発動する。裂けた肉が少しずつ寄り始める。
でも足りない。
出力が、全然足りない!
治癒が追いつく前に、生命力が底をつく。
死ぬ。その予感が、明確になりはじめると希望の光は薄くなっていく。
嫌だ。
死にたくない。
視界が一瞬白くなり、自分を遠くから見てるように感じられた。顔だけの聖女と国民に罵られた記憶が蘇ってくる。
『いくらでも……代わりはいる』
それはレイドが、私が雇われる前の回復魔法使いを、解雇した時の言葉だった。
代わりはいる。今じゃその言葉はレイドの口癖になっていた。マイトにあたりが強いレイドのそれが日常だと、私は思いこんでいたのかも知れない。
『何ができる?』
回復魔法使いとして、勇者一行に応募した時のことだった。一番最初のレイドの言葉がそれで、私は人生で一番緊張したのを覚えている。その知名度と傲慢さ。怒らせたらいけないという恐怖感で包まれていた。
『逃げなさい』
……お母さんの言葉だ。
あの時、私は逃げた。泣きながら母の手を振り払って。
でも今は。
逃げないでも、私は。
意識空間の中、背中に誰か触れてくれる温かい手が現れた気がした。
そう、私は、私は……!
その瞬間。
魔法が、歪んだ光を放ち始める。
回復は本来、傷を癒やす術式。
だがその時、魔法は限界値を超えた。
器が足りないなら——広げればいい。
そんな無茶な理屈が、魔力の内部で成立していく。
胸の奥が裂けるように痛み、血流の流れが変わり、口から血を大量に吐く。
魔力の回路が焼き切れ再構築される。
自分の内側が、拡張していく感覚。
痛い。
痛い。
だが、それ以上に——
生きれる。
魔力出力が跳ね上がった。
一倍。
二倍。
五倍。
十倍。
制限が、外れていく。体内の魔力が奔流となって駆け巡っていくのを感じた。血液が光を帯び、神経が発光する。
傷が塞がる速度が、目に見えて変わる。
潰れた肺が一瞬で再生していく。
砕けた骨が強化されたまま繋がる。
だが代償は即座に現れた。
左頬に熱が走る。皮膚が裂ける音がした。鏡があれば分かっただろう。顔に亀裂の傷が走っていることを。
出力の暴走に、肉体が追いつかない。
それでも止まらない。
止められない。
回復魔法が、自分を回復しながら自分を削る。削れた分を、さらに拡張で補う。
循環が生まれる。
生命力を魔力へ。
魔力を回復へ。
回復を拡張へ。
拡張を、さらに生命へ。
閉じた輪。
永久機関のような回転。
エリアは、膝をついたまま笑った。
「……最悪」
こんな形で完成するなんて。
ねえお母さん。あなたが教えてくれた10倍の魔法……やっと会得できた。
たしか名前は……
魔法が静まり返る。
洞窟の崩落音すら遠くなる。
唇が勝手に動いた。
「……白壊」
エリアは立ち上がる。傷はさっぱり消えている。すでに洞窟は崩壊しきった後だが、なんとか隙間から抜け出せる。
エリアは頬を触った。だが触れれば分かる。裂け目のような凹凸。
証。
あの瞬間、確かに死にかけた証。
そして——生き残った証。
白壊は、完成した。
——もう、誰にも代わりなど言わせない。
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