Ep34: 【二人の夜はまだ終わらない】
夜が時計塔の影が路地裏を呑み込んでいる。
石床にはまだ乾ききらない血が広がり、エタが倒れていた。
胸元に深く穴が空いている。鼓動は——ある。だがとても弱かった。
「……っ」
エリアは時計塔の最上階からエタを見て、口を抑えて驚いた。
間に合わなかったかもしれない。
そして恐怖が、喉を締め付けた。
階段ですぐさま下り、駆け寄る。
膝をつく。
「エタ」
返事はない。
顔色が悪い。唇が白く、体温が落ちている。
傷口を見た瞬間、息を呑んだ。
とても……深い。
肺まで届いている。普通の回復では、追いつかない。
——白壊。
頬の傷が抉れる。使えば削れる。
一瞬だけ、自分が誰を救っているのか分からなくなった。
けれど。
「死なないでよ」
震える声だった。
両手を胸の上に重ねて、深く息を吸った。
魔力を巡らせる。循環が回り始める。
生命力を魔力へ。
魔力を回復へ。
回復を拡張へ。
路地裏の空気が震える。石床に薄い亀裂が走りはじめた。
出力を上げていく。
通常の一倍。二倍。五倍。十倍。十倍になった瞬間、世界が遠のく感覚がする。
「……白壊」
低く、呟く。
心臓が止まりかけ、周囲の音が一瞬消えた。
光が奔流となってエタへ流れこんでいく。裂けた肉が引き寄せられるように閉じていき、砕けた肋骨が軋みながら再接合する。潰れた肺が再構築されていった。
たった十秒。
エリアの視界が揺らぎ、鼻先から血が落ちる。だが母の背中へ近づいていけた気がした。
だから止めない。
止めたら終わる。
止めたら——また、役に立たない。
「……戻ってきなさい」
命令のような声だった。鼓動が速くなる。
一拍。
二拍。
三拍と。
「っ……」
エタの指が動く。荒い息が漏れはじめた。瞼が震え、ゆっくりと開く。焦点が定まらない瞳が、夜空を映す。
「……あぁ」
掠れた声。
エリアは、その瞬間、全身の力が抜けた。
「よかった……」
安堵が漏れる。
「死んじゃいなかった。死んだら回復できないもの」
軽く言ったつもりだった。
だが声は震えていた。エタがゆっくりと起き上がろうとする。
「無理しないで」
肩を押さえる。
だがエタは、自分の胸に触れた。
傷が、綺麗に消えている。痛みもすべて。
理解するまでエタは固まっていた。
眉間が歪む。……負けた、と。こめかみを掻いた。
悔しさが滲み、強く拳を握る。
こんなことあってはならなかった。私が……こんなことで。
「ゼル」
その名を吐くとき、怒りはなかった。ただ、研ぎ澄まされた関心。
「あなたはすごかった。流石です」
ズレた猫の仮面を顔につけ直す。
「死ぬには惜しい存在です」
エリアは、ほんの一瞬だけ背筋に寒気を覚える。
折れていない。壊れても折れない。
エタの唇は震えていた。悔しさよりも笑いを堪えているようだった。その異様さ。
「……ほんと馬鹿」
小さく呟く。でも今度は、嫌悪じゃない。
エタは立ち上がろうとした時、ふらついた。エリアが支える。
その手の温度が、現実だった。エリアは優しい笑みを浮かべ、時計塔の針が二時十分を打つ。
***
月明かりが、ゼルの顔を静かに照らしている。
血に濡れた頬。閉じた瞼。もう二度と開かないかもしれない静けさ。
「……やだ」
声が崩れる。
そのときだった。
じゅ、と。
かすかな音。リナは息を止めた。透明だったはずの膜が、わずかに揺らいでいる。
「……え?」
ゼルの胸が、微かに上下した。
錯覚だと思った。だがもう一度。確かに、動いている鼓動。
弱い。だけどある。
「ゼル……」
リナの声が震える。傷口を覆っていた毒が、内側から押し返されるように滲み始め、中からは大量に血が溢れ出てくる。だが赤黒い血が、ゆっくりと色を変えていった。
濁りが、薄まっていく。その奥から現れたのは——
異様に澄んだ深紅。魔王の血だった。
それは静かに脈打っている。毒を侵し、血と一緒に流れ出し、体の傷を上書きする。
空気が変わった。リナの頬を撫でる風が、温度を持つような、そんな生きてる心地がする空気だった。ゼルの傷口が、目に見える速さで閉じていく。
裂けた肉が滑らかに寄り合う。抉れた皮膚が再構築される。
血が消えていく。
石床に広がっていた赤が、蒸発するように薄れていく。
「……なに、これ」
ゼルの髪が、月光を反射する。血で固まっていたはずなのに、さらりと風に揺れた。
さっきまでの死体のような姿が、嘘みたいに。だんだんと綺麗になっていく。
不自然なほどに。美しいほどに。
「……ゼル?」
ゼルの指が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと。爪先まで血色が戻る。胸が、大きく上下した。
空気を、吸う。長く、深く。
そして——
瞼が、開いた。闇よりも深い色の瞳。だがその奥で光が揺れているようだった。リナと、視線が合う数秒。
「……ああ」
ゼルが、静かに息を吐く。
声はかすれているが、生きている。
「リナか」
その声を聞いた瞬間。リナの目から涙が溢れる。
「ほんとに……何してんの……」
怒りとも安堵ともつかない声。
触れる。
今度は痛くない。
温かい。
心臓の鼓動が一瞬二重に鳴る。でも生きている。生の体温。だが疑問がそれらと同時に押し寄せる。
触れてるはずなのに、遠く感じる。人間とは思えない回復能力。回復魔法を持っているわけがない。非実体系は魔法を一つしか持てないから。
ゼルはゆっくりと体を起こす。
さっきまで瀕死だった男とは思えないほど、整っていた。綺麗すぎる。
「……生きててよかった」
ゼルは自分の背中に手を当てる。傷はない。血もない。
そしてゼルは微かに笑う。
その笑みは——リナの知らないものだった。
夜はまだ終わらない。
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