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31:冥闇……非常に暗いところ

 這いずる音は、路地裏によく響いた。


石に擦れる体の音。途切れ途切れの荒い呼吸。血の匂い。


夜は静かすぎて、そのすべてを逃さなかった。


エタは歯を食いしばり、前へ進む。


 肺が、息が——


吸うたびに、胸の奥がぐしゃりと潰れる感じがする。空気がうまく入らない。どこかが破れている。


吐く息に血が混じっているのが分かった。


痛みだけではない。透明で、形のない毒。触れればヒリつくそれが、今は内側から広がっている。聖剣を刺した時、ゼルは自身に付着した毒を聖剣へ擦り付けていたのだ。


 思考がまとまらない。


 死なない……


願いだけが、頭の奥で鈍く反響する。

 

 死なない。

 死ねない。


 まだ。


 大時計台。


 あそこまで行けば。


あそこへ行けと叫ぶ希望だけが、突き抜かれた身体を動かしていた。

指が石を掴み、爪が剥がれる。皮膚が小石に裂かれる。


それでも、離さない。

エタは歯を食いしばりながら進んだ。

後ろを振り返らない。


振り返る余裕など、もうない。視界の端が暗く欠け始める。音が遠ざかってきた。


 まだ……だ。


時計台の針が、月明かりの中でかすんで見えた。


一歩。


もう一歩。


そのとき——視界が闇で包まれていく。

石の冷たさを頬で感じた瞬間、前方から、女の声がした。


「……え」

柔らかい、戸惑いの混じった声。

だが、エタの意識はそこで途切れた。


闇が、エタを飲み込んだ。



***



 リナは、エタとは真反対の路地裏を走っていた。


胸騒ぎが止まらない。

ただ、この物騒な夜に、嫌な予感だけが膨らんでいく。


ゼルはどこ。

エタはどこ。

みんなはどこ。


「ゼル……」

名前を呼ぶたびに、喉が締め付けられる。


返事はない。足音だけが夜の街に響いていく。

呼吸を整え、路地裏から出た瞬間、冷たい風が顔へ吹きつけた。


思わず手で顔を覆う。風に乗ってくる腐敗臭。


覆いきれない視界の下端に、赤い何かが映った。


 血だ。


足が止まる。


視線がゆっくりと血の先を辿っていく。


誰の血なのか。見たくなくても、ここでは当たり前のように転がっている。

誰かが、横たわっていた。


「……え?」


頭が理解を拒んだ。


 違う。


 違うはずだ。


近づく。


一歩。

また一歩。


心臓の音がやけに大きい。

違うと、思いたかった。


だが——

見間違えるはずがない。


「……ゼル」

声が掠れる。


仰向けに倒れ、体中は赤く染まっている。


月明かりが、その血を冷たく照らしていた。

周囲の石畳が、わずかに揺らめいている。


そしてゼルの傷口を覆う、見えない透明な液体。


「ああ……」

息が抜ける。


 毒だ。


理解したくない現実が、音もなく押し寄せる。

リナは首を横に振った。


 違う。これは違う。

 ゼルは、こんなふうに倒れる人じゃない。


震える手を伸ばす。指先が液体に触れた瞬間。


「っ……!」


ヒリ、と鋭い痛み。慌てて手を引っ込める。

皮膚が赤く腫れていた。透明なのに確かにある。


触れれば焼ける毒。


「やめてよ……」

声が震える。


「こんなの、やめてよ……」

石畳に崩れ落ちる。その冷たさが、現実を突きつける。


ゼルの顔は、驚くほど静かだった。


苦悶の跡はある。だが、今は穏やかに見える。

眠っているように。それが、余計に残酷だった。


「起きて……」

小さく、呟く。


触れられない。

毒がある。


それでも、手を伸ばしてしまう。指先が、宙で止まる。

触れれば傷つく。

触れなければ、届かない。


視界が涙で歪んでいく。

「約束、したじゃない……」


あの日。


迷子になるなと笑ったゼル。


「もう迷子になるなって……ねえ」

毒の膜に触れた瞬間、じゅ、と小さな音がした。


「ゼル……」

ただ、何度も名前を呼ぶ。手のひらを見ると、エタに切られた指先の傷を覆うように、真っ赤なゼルの血が付着した。


そして何度も何度も名前を読んだ。返事はない。

夜は静まり返り、時計台の鐘の音だけが響いた。ゆっくりと。無情に。だがリナは動かなかった。

毒があろうと。痛みがあろうと。


彼女は、そこを離れなかった。

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