12:不行……力不足、事を行うのに足りないこと
遥か遠い昔の記憶。空も大地も、すべてが赤く焼けた野原での出来事だ。
そこには、一匹の瀕死の魔物が這いつくばっていた。三つの首を持つ炎の魔犬。その叡の魔物は強大なドラゴンとの縄張り争いに敗れ、首の二つは噛み千切られ、腹からは核が露出していた。
死ぬ……嫌だ、死にたくない……!
魔犬の視界が霞む。そこに、一人の少年が現れた。漆黒のコートを纏い、赤い瞳をした魔族の14歳ほどの少年。
――若き日の魔王、アルフ・アルヴァルトである。
「……汚い犬だな。弱気ものがこの世界でどう救われよう」
高い声の少年は冷徹に言い放ち、通り過ぎようとした。だが魔犬は最後の力を振り絞り、少年の足にすがりつく。
「待て……待ってくれ……!」
「あ?」
「頼む、慈悲を……我に貴方の血を一滴でいい、この核に分けてくれ……!」
アルフは退屈そうに魔犬を見下ろした。
「なぜ俺に血を分けてほしいのだ? ……いいだろう、余興だ。何が起こるか見ものだな」
アルフが気まぐれに腕を差し出した、その瞬間だった。魔犬の目に卑しい欲望の色が走った。一滴では足りない! 圧倒的な魔力の奔流、飲み干せばドラゴンすら超えられるのではないか――?
魔犬の牙が、アルフの腕に突き立った。傷口から溢れ出る魔王の鮮血は、魔犬の口へと注がれ露出していた核に降り注いだ。
「――ほう。飼い主に牙を剥くか」
アルフは痛がる様子もなく、ただ冷ややかに腕を振るい、魔犬を吹き飛ばした。だが手遅れだった。
「ギャアアアアアアアアッ!!」
身体が内側から燃え上がるような激痛。器の許容量を遥かに超えた魔王の血は、その効能を示さずアルフの配下となった。それがヴォルグという魔物の正体。強さを履き違えた者の末路だった。
***
「――ッッ!!」
現在。リナは咆哮で鼓膜が破れそうになるのを堪え、短剣を構える。
来る……ッ!
ヴォルグは地面を爆ぜさせて、突っ込んできた。
速い!
リナが直前までいた場所に、巨大なクレーターが生まれる。 リナは氷の膜を足裏に張り、地面を滑るようにして回避した。
魔法を撃つ暇なんてない……!
ヴォルグの背中から、炎の鞭が展開される。リナはアクロバティックに身を捻り、紙一重でそれを躱す。 髪の毛が数本、熱でチリチリと焼き切れた。
「『氷結』ッ!」
足元から氷の柱が斜めに突き出す。彼女は足場にして駆け上がり、立体的に空中へ飛び出す。
「そこぉッ!!」
上空から落下の重さを乗せた一撃。リナの短剣がヴォルグの肩口を深々と切り裂いた。肉が凍りつき、砕け散る。――だが。
「……」
ヴォルグは傷も完璧に癒やした。その砕けた氷の断面から、赤黒い肉が盛り上がり、傷を塞いだのだ。それどころか、傷口から新たな炎の弾丸が放たれる。
「……っ!」
リナが空中で氷の盾を展開し、弾丸を防ぐ――防ぎきれない。衝撃で吹き飛ばされ、石壁に激突する。
あんな技あった……? 火球、だけじゃないの……それに、何なのあの回復の速度。
普通の魔物は、核を潰せば終わる。だが、コイツの核は何処か? 切ったそばに肉が位置を変え、核を守るように流動する。まさに不死身。
リナはチラリと、門の入り口にもたれかかるゼルを見た。彼は腕を組んだまま、助ける気配は微塵もない。
「『俺の隣に立つ資格はない』」
そんな言葉がリナの胸に刺さる。
……とーっても偉そうね! 見下されたままで終わってたまるか! 私はリナ、天才の魔法使いよ!
口元の血を拭い、再び立ち上がった。恐怖はある。膝も震える。でも思考は冷え切っていた。
まず真っ向勝負は勝てない。火力も速さもあっちが数段上。なら、どうする? 相手は知能がない生き物。動きは直線的。反応は反射だけ。
……誘い込む!
リナは魔力を手に練り上げ始めた。残りの全魔力を次の一手に注ぎ込む。
「こっちよ、化け物!」
リナが挑発し、街の瓦礫へと駆け込む。ヴォルグは咆哮し、周囲の建物を破壊しながら一直線に追ってくる。 炎弾の雨あられ。リナは右へ、左へ、氷の壁を作っては囮にし、爆風を背に受けて加速する。
――ここだ。
少し開けた広場。リナは急停止し振り返った。 ヴォルグが目の前に迫る。ヴォルグが拳を前に出した瞬間だった。
「『氷像の幻影』!」
リナの姿がブレた。ヴォルグの拳が砕いたのは、精巧に作られた氷の彫像だけ。本物は――懐の中。
――これなら!
リナはヴォルクのがら空きの腹部を凝視した。
「行けるッ……!!」
リナは短剣を逆手に持ち、クルッと一回転したかと思うと、ありったけの握力で短剣を突き刺した!
「貫けぇぇぇぇッ!!」
そして、上空から出てきた六つの巨大な氷柱。大きさはヴォルクの二つ目の火球に匹敵するほどであったが、ヴォルグは避けようとした。その生という本能が避けようとしたのだ。
「逃さないっッ!!」
ヴォルグは腹部を見た。刺さった短剣から腹部を凍結させ、地面と固定していたのだ。
「んん……ンガッッぁ゙ぁ゙ぁ゙あ!」
リナは短剣を引き抜いた。六つの巨大な氷柱は、拘束されたヴォルグの体内を突き破る。ビリビリに破れた体の中から――赤黒く光る核が露出した。それを囲おうとする肉も回復速度が落ちていた。
「……ガ、……!?」
動きが止まる。後は核を潰すだけ、リナが確信したその時だった。ヴォルグの体内から目も眩むような閃光が漏れ出した。
え、魔力の暴走? 違う。コイツ死ぬとわかった時――自爆する気……!?
リナの顔が引きつる。 距離はゼロ。意識も魔力切れで朦朧とする。逃げられない。光が膨張する。熱が肌を焼く。街の一角どころか、この平原すべてを消し飛ばすほどのエネルギー。
「あ……」
死ぬ。
視界の端。 黒いコートの裾が揺れた気がした。
「はぁ……やれやれ。最後の詰めが甘いな」
呆れを含んだ、どこか優しい声が聞こえた。
「『開門』」
ゼルが指を鳴らす。
ヴォルグの足元に、紫色の何かが展開された。あの火球を消した時と同じ何か。それはヴォルグを飲み込み――どこかへ飛ばした。風切り音と共にヴォルグがいなくなる。
「上だよ」
リナの困惑を察したか、ゼルは上を指を刺した。リナが呆然と見上げた、次の一瞬に遥か上空、高度400メートル地点で爆発が起きた。衝撃波が雲を散らす。暗くなりつつある空を一瞬だけ真昼のように照らし出す。それは皮肉にも、ここから見える王都の超特大の花火のようだった。
爆風が遅れて地上に届き、リナの髪を激しく揺らす。
「……ふぇ?」
リナはへたり込んだ。何が起きたのか、頭が追いつかなかった。
「……合格とは言えんが、まあ赤点は免れたといったところか」
ゼルはリナの前に立ち、見下ろした。ゼルの赤い瞳は、冷徹な色でなく少しだけ――本当にごく僅かに興味深そうな光を宿していた。
「立てるか、小娘」
リナは震える足に力を込め、フラフラと立ち上がった。
「……これで、あんたに私は認めてもらえ――」
魔力切れと安堵がリナを眠りにつかせた。




